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【シリーズ1】ノラ・ジョイの無限の泉 ~みなしごノラの母の教えと盗賊のおかしらイサイアスの知られざる正体~

#6 珊瑚のレディ(2)

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 翌朝、いつものように目覚めたノラは、少し気だるい気がした。昨日の雨のせいだろうが、これくらいのことで寝込むようなノラではなかった。朝食を作り、ノラは洗濯を始めた。シルクのドレスと赤い靴も、丁寧に手入れをしておかなければならない。

「ノラ、昨日はお疲れ様」

 振り向くとケスが笑っていた。

「やっばりノラはその恰好がいいんだよう。昨日のノラはきれいだけど、俺たちの手の届かない所へ行っちまったような気がするんだよう……」
「わたしもこのほうが気が楽よ。さあ、朝食にしましょう」

 朝食を取り囲んで、話題は昨日のお披露目会のことだ。

「だけど、準備していた商品が残らず売り切れるとはね。予約台帳もいっぱいだし、在庫は全部売約済みだ」

 コバドーンがというと、ディビーが目をを光らせた。

「今までで最高の売上額だ。つまり、昨日即売した売上が二十五……」

 ディビーの長い話が始まる前に、アンディがグラスを掲げた。

「これも、ノラのおかげだな」 
「みんなの力を合わせたおかげよ」

 イサイアスは紅茶を飲み干してカップを置いた。

「俺は今日一日、昨日知り合った面々との商談がある。ペジョーネ子爵も訪ねなければならない。回りきれないところはコバドーンが行ってくれ」
「イヤリングの件、わたしも一緒に謝りに行くわ」
「いや、それはいい。お前は店番を頼む。うわさを聞きつけて注文しに来る客もいるだろうからな」
「そう……、わかったわ。カトレアさんには、わたしが謝っていたって伝えてちょうだい」
「ああ」

 ケスはスープを口にしながらにこにこといった。

「じゃあ、俺、今日店番を手伝うんだよう、ノラひとりじゃ大変だろ?」
「ばぁか、俺たちゃ飯を食ったらすぐオーボエの街へ出発だ。珊瑚の装飾品を買い占めなきゃなんねぇだろ!」

 アンディがくぎを刺すと、イサイアスはにやりと笑った。

「そうだ。今が売りどきだからな。しっかり頼むぞ」

 イサイアスには時流を読む力があるらしい。ノラは感心してしまう。盗賊などやらなくても、はじめから商人としてやって行けたのではないだろうか。それにこんな大胆な宣伝方法を誰が思いつくのだろう。こういうのを天賦の才というのではないだろうか。食事が済むと、ノラは面々を送り出し、家事を済ませて店を開いた。店は昨日の噂が噂を呼んで、開店と同時に大賑わいだった。いつもの三人で切り盛りするときの客数より多いくらいだった。

「珊瑚の首飾りが評判だって聞いたんだけど?」
「ここがイサイアス商会? あなたが看板娘? あら、かわいいじゃない」
「在庫は全部予約済みだって? 今度入いるのはいつなんだ?」

 ノラはもうてんてこ舞いだった。そのなかには歓迎しがたい客もいた。

「君がもと乞食だって? 見えないなあ。花売りしていないのかい?」
「勘違いしてもらっちゃ困るよ、お客さん。そういう娘がご入り用なら、あっちの通りに行ってくれ」

 コバドーンの代わりにディビーが間に入った。ノラはファゴットの街での花売りを思い出していたが、後でディビーに聞けば、花売りとは売春の隠語だということだった。あんな広告を打ったものだから、ノラに好奇な視線が注がれるのは無理からぬ話だった。そんな冷やかし客から、珊瑚の予約客まで、店は一日中大忙しだった。

 一方、イサイアスはカトレアが住んでいるペジョーネの別邸を訪れていた。

「ごめんなさいねぇ、あのあと探したら見つかったのよ、耳飾り」

 カトレアは耳たぶのその珊瑚をはじいて見せた。イサイアスは、やっぱりと思いながらペジョーネから代金を受け取った。カトレアはペジョーネが席を外したとたんにイサイアスに詰め寄った。

「イサイアス、わたしから旦那様に口添えしてあげてもいいわよ。あなたがあたしの言う通りになるのなら……」
「またまた御冗談を」
「今やあの男は、あたしのいいなりよ」

 ペジョーネの妻は夫に愛想をつかし、ほとんど表舞台に出てこない。愛人であるにも関わらず、カトレアは今やすっかり女主人気取りだった。

「この街でペジョーネ子爵の恋人であるあなたに手を出そうという命知らずはいませんよ。それでは、予定が立て込んでいますので、これにて」
「あん」

 イサイアスはつつがなくあしらって部屋を出た。

 ペジョーネ邸を出ると、イサイアスは突然背後から声をかけられた。

「イサイアス? イサイアスじゃないか!」

 イサイアスは一瞬狼狽したが、すぐに落ち着き払った。そこに立っていたのははるか昔の旧友だった。

「……アルフレッド。こんなところで会おうとは」
「元気だったか、イサイアス!」
「ああ、まあ……」
「イサイアス、この後の予定は? 積もる話もある、どこかで話そうではないか!」

 互いに互いの顔を見ると、同い年の青年たちの胸に懐かしさが込み上げた。イサイアスも二つ返事をしていた。

      ***

 相変わらず忙しい店の前に、豪奢な馬車が止まった。この忙しさの上に、来客とは。ノラの体はいくつあっても足らないのではと思われた。しかも身なりからして、お客は貴族の若君ようだった。

「ノラ、お茶を入れてくれ」

 ノラがいささか驚いたのは、イサイアスはいつもの商談スペースではなく、プライベートな二階へ客を上げたことだった。
 
 部屋に入るなり、アルフレッドは興奮したように言った。

「イサイアス! 君が生きていたなんて! 僕は君をずっと探し続けていたんだよ!」

 金色の髪を顎のラインできりそろえたその髪型は、十年前と変わらない。七三に分けたその前髪も、団栗のような濃い茶色の目も。

「アルフレッド、まさかこんなところでお前と会うとはな。九歳の時別れて以来だ」
「君のことだ。なんとか生きていると信じていたが、まさか商人として成功していたとは!」
「いや、成功なんて……。俺一人の力ではない……」

 イサイアスは少しはにかんだ。ノラがよく口にする言葉を口にしていた。みんなのおかげ。

 ドアをノックする音が聞こえた。

「お茶をお持ちしました」
「入れ」

 ノラは丁寧に、しかし手早くお茶を給仕した。下では客が列をなして待っているからだ。ノラがつつがなく部屋を後にした後、アルフレッドがいった。

「あの子が噂の乞食娘だって? ずいぶん教育したようだな、なかなか美形だし」
「ノラのおかげだ。俺が今この店をこうしてやっていられるのも」

 イサイアスは旧友を前にいつになく素直になった。

「イサイアス、なにからなにまで話してくれ。君は一体今までどこでなにをしていたんだ?」

 イサイアスは時間の許す限り、失われた十年の月日を友に語った。その事実はアルフレッドを驚かせ、手放しに良かったと言わせるものではなかったが、今のイサイアスの姿が立派であればある程、そこから這い上がって来た友の強さにアルフレッドは感嘆した。

「とすると、あの子は君のいい人なのかい?」
「まさか。だが、この商会の立ち上げは、ノラがいいだしたことなのだ。人のためになれば、おのずと道が開けると。俺たちはあのときノラに出会わなければ、今も盗賊をやっていたに違いない。だから、感謝している……」

 アルフレッドはほほ笑んだ。十年ぶりにあった友はなにからなにまですっかり変わっている。彼の話を聞けば、彼がどんなに人に傷つけられ、人を疑うことで自分の身を守って来たかということも想像できる。だが、今も確かに十年前の面影が彼に残っている。本当は、誰よりも人を信じたいという思い。誰かのために自分の力をつくしたいという心意気。昔からそうだった。

 「君にとって、あの子は特別なんだね」

 イサイアスは不意に目を逸らした。

「別に……、そんなつもりはない」

 アルフレッドはまた笑った。この古い友人の癖も変わらないらしい。嘘をつくとき人の目を見ていられないのだ。こんな真正直な人間なのだ、この十年どれだけ苦労してきただろう。旧友には手に取るように察することができた。アルフレッドは急にまじめな顔になって言った。

 「僕は今も、君が戻ってくるべきだと信じている。この国はひどい有様なんだ。どこを向いても失業者と孤児があふれている」
「今更、俺の知ったことじゃない。親父は俺を見捨てたんだ」
「君は時々この街の孤児に施しを与えているそうじゃないか。街の評判だって聞いたよ。その事実を父君が耳にしたらどう思うだろうか」
「そんなこと知るか。俺を見捨てたのはあいつらだ。俺があいつらのためにしてやるべきことはなにひとつない」
「聞いてくれ、イサイアス。彼らのためじゃない。たとえば、君が施しを与えているこの街の孤児たちのためだ」

 イサイアスはため息をついた。

「だとしても、あの場所に俺の戻るべき椅子はない」

 アルフレッドは声をひそめた。

「実は……、俺は今、内務大臣補佐とともにある計画を進めているんだ。近く、大きな嵐がこの国を襲うだろう。この国には、今の国政を憂うヴェルハースト派と、堕落と腐敗を好む現王政派、すなわちドブソン派とがわかれている」
「ヴェルハーストだって? ヴェルハースト・フィ・ザーエルブルッフ侯?」

 イサイアスは眉を上げた。

「そう。女好きで評判の。だが、あの人はひょうひょうとしていてその実とても頭の切れる人だよ。今じゃあの人のおかげで国が機能してると言ったって過言じゃない」
「やたら大げさな芝居がかった変人だと聞く」

 アルフレッドは苦笑した。

「確かに噂はその通りなんだけど……。しかしヴェルハースト候が君が生きていることを知ったら、僕らの計画は大きく有利になると思うんだ」
「アルフレッド」

 イサイアスはすぐに首を左右振ろうとした。

「待ってくれ! すぐに返事をくれとは言わない。君にも君の守るべきものがあるだろう。それに僕らの計画に君が参加してくれることになったら、君は整理しなければならないものが出来てしまう。だからまずは、実情を見に来てくれ」
「見に来いだと?」

 「ああ、明日、王宮で感謝祭が行われる。王族貴族のほかに各地で力を持つ商人なんかも招かれる。僕と一緒に来てくれ。ヴェルハースト侯に会ってもらいたい」
「だが、もし父に顔を見られたら……」
「それならあの子を連れて来ればいい。首飾りをしたあの子は、随分と人目を引いたそうじゃないか。目くらましになる」
「無茶言うな。大体珊瑚はペジョーネ子爵の愛人に売った」
「それなら借りたらいい。僕が口添えしよう」
「それはやめてくれ!」

 「だったら来てくれるんだね? ヴェルハースト侯が君を見たらどんな顔をするか! あの人のことだ、また大げさな三文役者みたなことを言うだろうなあ……!」

 イサイアスはすっかりその気の古き友に、ため息をついた。なにやら妙なことになった。下でくるくるとせわしなく動き回るノラは、なにも知らなかった。

      ***

 店をしまい、夕食を作り終えたノラは、ぼうっとしていた。

「ノラ、ノラ! 聞いていたか?」
「え……ごめんなさい、なにかしら?」

 ノラは慌ててイサイアスを見た。

「明日の夜、王宮で開かれる感謝祭へ行く。あのドレスを着て準備をしておけ。コバドーンは、在庫の中から適当な首飾りを見つくろってくれ」
「王宮?」

 ノラにはまたわからない出来事が進行していた。コバドーンは興味深げにイサイアスを見た。

「王宮の感謝祭に? また、どうやって伝手を?」
「昔の知り合いに会った。まあ、貴族どもにせいぜいイサイアス商会の名を売ってくることにしよう」
「それがいい。貴族相手にたんまり儲けよう。そうしたら俺たちのもっと大きい店に移るのはどうだろう。実はもう目星をつけてあるんだ……!」

 ディビーの計算は相変わらず先回りするほど早かった。ノラは少し熱っぽい頭で、その話を聞いていた。

 翌日になって、ノラの熱は下がるどころか上がっていた。ノラは昨日一晩掛けてドレスにアイロンをかけていた。すっかりきれいになったドレスにそでを通し、まだ冷たい靴を履いた。

「ノラ、準備はいいか? なにをぼうっとしてるんだ」
「あ……、ごめんなさい……」
「在庫の中で一番者のいいやつを持って来たよ、さあ後ろを向いてごらん」

 コバドーンが珊瑚のネックレスをノラの首に巻いた。そのとき、コバドーンの手は普通でない熱を感知した。

「ノラ、少し熱があるんじゃないのかい?」
「コバドーン、早くしろ!」

 ノラは、はっとしてコバドーンからイヤリングを受取った。

「それじゃあ、行ってくるわね。店番お願いね」
「あ、ああ……」

 イサイアスとノラは馬車に乗り込んだ。王宮へと続く馬車の旅は、ノラにはずいぶん長い時間に思えた。やけに無口なノラの様子に、イサイアスはようやく気がついた。

「ノラ、お前、具合でも悪いのか?」
「……え……? なに?」

 顔を上げたノラの頬は染まり、眼はぼんやりと潤んでいる。ノラの額に手をやった。

「お前、熱があるじゃないか……」
「え、ええ……少し。でも大丈夫よ」

 ノラは笑顔を作って見せた。

 あの雨のせいだ。イサイアスは昨日からノラが無理をしていたことに初めて気がついた。そうだとしても今更、後戻りはできない。王宮のパーティでは普通、男女ペアで参加するのが習わしだ。今からふさわしい女性を探すことは現実的に難しい。いや、アルフレッドに無理を言えばなんとかなるかもしれない。だが、その間こんな状態のノラを一人にしておくというのか。それも無理だ。

「ノラ、しばらく我慢してくれ。顔だけ出したらすぐに帰る。いいな?」
「え、ええ……」

 イサイアスはノラを抱き寄せた。少しでも身を預けていた方が楽なはずだ。ノラは定まらない頭の中で、その感触が夢なのではと思った。
 
      ***

 ――王宮。ノラには、夢の続きと同じだった。
 砂糖菓子で作ったのだろうか、あの白い城壁は。きらきらと来ては賑やかに去っていく、華麗な馬車と装飾馬具をつけた馬。陶器人形のようなレディと紳士たち。ずらりと並んだ銀の蝋燭立には、ぴったりと同じ長さの蝋燭が回廊を照らしている。出迎えにアルフレッドが待っていた。
「こっちだよ、イサイアス」
 イサイアスの後に続いて進むにつれて、余りの非現実にノラは一瞬にして自分がなぜここにいるのかを忘れた。フリューゲルの屋敷で、これ以上豪華な家を見ることはないと思っていたが、それすらもはるかに凌駕していた。目にチカチカと光がまぶしすぎて、ノラは音のない世界に迷い込んだようだった。

 「ああら、いやだわ、この子ったら。赤い顔して。まあ仕方ないわね、もと乞食の貧乏娘には、ここのおとぎの国でしょうから」
 甲高いその声によってノラはようやく現実に引き戻された。気が付くと、目の前にペジョーネ子爵とカトレアが立っていた。嫌味を言われたおかげで、ノラは気持ちが少ししゃきっとした。そうだ、ただぼんやり口を開けてはいられない。少なくとも、イサイアスの仕事の邪魔をしないようにしなければ。ノラは気持ちを改めた。

 大広間は、既に多くの男女と華やかな音楽が鳴り響いていた。ノラの意識がはっきりとさえしていたら、その場にジョコラータ夫妻やレノ夫妻がいたことにも気づいただろう。しかし、ノラは熱っぽい頭を持ち上げ、背を丸めないようにすることだけで精いっぱいだった。
「ヴェルハースト候に引き会せるよ。こっちだ、イサイアス」
「アルフレッド、悪いが俺はすぐ帰る」
「ここまで来ておいて、それはないよ!」

 イサイアスの視線に気が付いて、ノラは慌てていった。
「私なら大丈夫! 行って、イサイアス」
「しかし……」
 気丈なノラと、有無を言わさないアルフレッドの間に立たされ、イサイアスはため息をついた。
「ノラ……、邪魔にならないよう壁際にいるんだ。誰かに話しかけられたら、連れを待っていると言ってあたりさわりない程度に話に付き合うんだ。できるな?」
 いっそ離れていたほうが、イサイアスの仕事の邪魔にならないだろうと踏んだノラだったが、ここでは一人でいるにも気を遣うらしい。

 「わ、わかったわ、やってみる……」
 うなづいたノラだったが、内心は動揺していた。誰かに話しかけられるなんてことがあるのだろうか。とにかく目立たないようにしていよう。ふたりを見送ると、ノラは人通りの少ない壁際に身を寄せた。しかし、なんと華やかな世界だろう。照明も音楽も、チカチカチカチカ……。これが夢ならもう少し、穏やかな夢を見せてほしいものだ。ノラはそう思いながら静かにため息を吐いた

      ***

 アルフレッドが案内したのは、宮廷の大広間の奥にある休憩室だった。そこには何名かの男や女たちがいて、口々に何かを話している。
「やあ、これは、アルフレッド殿。そちらは?」
「最近コルネットの街で頭角を現しているイサイアス商会の会長です。ところでヴェルハースト侯は今どちらに?」
「しばらく前に出ていかれましたよ。すぐ戻るとおっしゃっていたが」
 アルフレッドは肩を上下させた。
「仕方ない。探してくるから、イサイアス、君はここにいてくれ」

 アルフレッドが部屋を出て行てすぐ、一同は新顔に興味を向けた。

「アルフレッド殿とはどういうお知り合いで? いや、申しおくれた。私はマクベス・ティ・バンドリン子爵。ここに来たということは、君もヴェルハースト派ということなのかな?」

 イサイアスは注意深く面々を見渡した。イサイアスの知っている顔ぶれはいない。

「イサイアスと申します、バンドリン子爵。お目に描かれて光栄です。アルフレッド殿とは昔からの友人です」

「ほう、昔からの……。すると……実際のところどうなんだね? ヴェルハースト派に勝ち目はあるのかね?」
「そうよ。ぜひ聞かせていただきたいわ。わたくしたちは、現王政で一部の者たちにうまみを握られていることには辟易しているの」
「かといって、彼らに取り入る隙もないし、それどころか彼らは我々のなわばりまで牛耳ろうとしてくる始末。困ったものだよ」
「ヴェルハースト侯は、利け者として名高いそうだけど、本当に信用していいのかしら?」
「ヴェルハースト派について、私たちは儲かるのかね?」
「そうだ。聞きたいところはそこだよ」

 イサイアスは小さく笑った。やっぱり、こいつらはなにもわかっちゃいない。地方の街や村がどれだけ餓えているか。街の浮浪児たちは、何日に一度のパンで飢えをしのいでいるか。夜露にぬれて薬も買えず、死んでいく浮浪者のことを。愚かしすぎて笑えてくる。大切なのは自分だけ。儲かればそれでいい。ここにいるやつらは、ただ現王子ドブソン派に利益が偏っているのが面白くないだけで、それをどうにか自分たちの懐へ入れたいだけなのだ。
 
 イサイアスは思った。ヴェルハーストやアルフレッドのしようとしていることは、確かに国政勢力図を変えるかも知れない。だがそれだけのことだ。国の中心がドブソン派からヴェルハースト派に変わったところで、飢えた子どもの数が減るわけではない。こんな話をきくために、のこのこやってくるなんて、自分はなんて馬鹿なのだろう。イサイアスは自嘲をかみ殺した。

 イサイアスの頭の中に、ノラの辛そうな顔が思い浮かんだ。イサイアスはなにも言わずに踵を返した。

「あっ、おい君!」

 呼びとめる声にもイサイアスは振り向かなかった。ノラを連れて帰ろう。あの街へ。あの家へ。ここには俺の求めるものは、なにもない。

      ***

 ノラは自分の体から発せられる熱気と、感謝祭の熱気にあてられていた。頭がますますぼんやりとする。熱が上がって来たのだろうか。

「あぁら、まだいたの、こんなところに」

 この声は、カトレアだ。ノラは頬を赤くした顔をあげた。

「イサイアスに放っとかれてるのね、かわいそう。確かに、イサイアスはなかなかいい男よね、黙っていたって女たちが放っておかないわ」
 そういうカトレアもペジョーネ以外の男と一緒だったが、ノラにはふたりの関係性になんら予測がつかなかった。カトレアの隣にいる男は、ノラに好奇の瞳を向けた。

 「カトレア、君の知り合いかい? なかなか可愛い子じゃないか。紹介しておくれよ」
「ええ、いいわよ。この子はね、コルネットの街のイサイアス商会に拾われた乞食なのよ」
「ええ? この子が乞食だって?」
「そうよ。きれいなドレスや首飾りなんかしてるけど、昨日までは街でねずみを追いかけていた浮浪児よ。とてもじゃないけど、こんなところへ顔を出せる人間じゃないわ。あたしだったらいくらイサイアスの頼みでも断るわよ。だって、乞食ですもの!」
 カトレアの甲高い声。ノラには大広間中に聞こえているのではと思うほどに、わんわんと鳴り響いて聞こえる気がした。
  
 「カトレア、かわいそうじゃないか。この子、顔を真っ赤にしているよ」
「かまやしないわよ! おおかたイサイアスはこの子を使ってどこぞの伯爵にでも取り入る算段なんじゃない?」
「取り入るって……まさか本当に? 君、体を売るためにここに来たの?」

 男は無遠慮にその顔をノラに近づけた。ノラの頭はぼんやりとしながらも、屈辱的なことを言われているのはわかった。それも、イサイアスまでもが。

「イサイアスは、そんなことしないわ」

 はっきりそう言ったつもりだったが、ノラのろれつは思ったよりうまく回っていなかった。

「君、もしかして外国人? それとも言葉も満足にわからないんでちゅか?」

 カトレアが大笑いした。わざわざあげつらうような真似をして、嫌味な男だ。その様子を遠くで見ていたのは、ヴェルハースト・フィ・ザーエルブルッフ侯爵だった。

「あの婦人、やけに楽しそうだなぁ。笑い上戸か?」

 その嘲笑の対象がまさかあのノラだとは、ヴェルハーストが思いいたるはずもなかった。

 「ああ、探しましたよザーエルブルッフ侯! イサイアスが来ました。いま部屋で待たせてあります」
「なに、本当か!」

 ヴェルハーストはいかにも芝居がかったように眉を上げた。ちょうどその背後から、つかつかとやってきたのはイサイアスだ。

「ああ、イサイアス! いまちょうど……」

 イサイアスはヴェルハーストをちらりと見たが、厳しいまなざしでアルフレッドに言い放った。

「あいつらがヴェルハースト派だというんなら、俺は一切関わりたくない。アルフレッド、お前ともな!」

 イサイアスは返事も待たずに、その場を去った。戸惑うアルフレッドとは対照的に、ヴェルハーストはやけにのんびりと言った。

「うーん、あれは確かにイサイアスだねぇ」
「そ、そんなことより、イサイアスが行ってしまいますよ……! せっかくイサイアスが……」

 ヴェルハーストは急に思慮深い光を宿らせて、そのわりに砕けた声音で言った。

「アルフレッド君。君はイサイアスを部屋に待たせたと言ったね」
「え、はい、そうですが……」

 「君はいつも肝心なところで思慮が足らない。君の悪い癖だ」
「え……? なんです?」
「イサイアスの待たせたとき部屋にいたのは、これから私が我々に加担してくれるよう働きかけようと思っていた、まだどっちつかずの一群だったのではないかね?」
「……あ……」
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「……」

 どこまでも芝居がかった男だ。

      ***
  
 「なるほどなるほど。若いみなしごを拾ってはきれいに飾り立て、物好きな旦那に売りつける。ふうん、なかなかいい商売だね。それで君はいくらなの?」

 ノラの頭に、かっとしたものが昇った。イサイアスは盗賊に身を貶めても、女こどもには手を出さないという掟を持っていた。死んだ母や、街の孤児たちへの哀れみや切ない思いにあるからだ。

「ひどいことを言うのね……! イサイアスはそんな人じゃないわ」
「あんたが騙されているだけじゃないの? まさか、イサイアスがあんたを気に入ってそばに置いているとでも? 勘違いはよしてよぉ! あんたはただの道具よ! 利用できるだけして用が済めば、ポイよ!」

 カトレアはノラの珊瑚のネックレスを掬い取って、ノラのその首に落とした。まさに、ポイと。ノラは思わずカトレアの手を払った。その瞬間、カトレアの表情が変わった。

 「なにすんのよ! 乞食風情が!」

 カトレアの平手が宙を舞い、ノラの頬に振り落とされた。強い衝撃を受けて、ノラの体はその勢いのまま床に崩れ落ちた。目の前が、くらくらと回った。気が遠のきそうだ。早く、早く、立ち上がって、文句の一言でも言ってやらなければ……! イサイアスはそんなことはしない。イサイアスへの侮辱を謝って、と。ノラは力を込めた。だが、起き上れない……。景色がぐるんと回った。

「ノラ!」

 遠くでイサイアスの声が聞こえた。

      ***

 ノラが目を覚ますと、太陽は真南を指していた。いつの間に家に戻ってきたのだろう。寒くて体が震える。とても起き上がる気にならない。だけど、店はどうしただろう。それに、みんなの食事を準備しなくては。ノラは着替えて下へ降りた。店にはコバドーンとディビーのほかに、いつもはめったに店先には立たないイサイアスがいた。

「イサイアス……」
「ノラ、起きたのか!」
「あの、ごめんなさ……」

 ノラが言い終わる前に、イサイアスはノラの額に手をやった。

「まだ熱がある。医者の話じゃ、風邪に加えて疲労も重なったと言っていた。ベッドに戻れ」
「でも、今日はパルスとステルスが戻ってくる日だわ。それに……」

 素直にうんといわないノラを、イサイアスは突然抱きかかえた。それも、お姫様だっこで……!

「病人はベッドだ。何度も言わせるな」

 なにも抱きかかえなくても自分で歩けるのに……! ノラは熱がますます上がってしまう気がした。

 ノラをベッドに運ぶと、イサイアスはベッドサイドに置いてあった紙包みと水をノラに押し付けた。

「薬を飲んで休むんだ。今なにか作ってくるから」

 ノラは思わず聞き返した。

「イサイアスが?」
「俺じゃ不満か?」

 そういうわけではないが……。

「とにかく、安静にしていろ」

 イサイアスが出て行ってしばらくすると、やはり体は無理がきかないらしい。体の寒気が止まらないうえに、だるい。頭も本格的にガンガンとしてきた。のどが渇き、呼吸も苦しい。ノラが幼いころ風邪をひくと、母がハニージンジャーをつくってくれた。それが飲みたい。なぜ病気は人を気弱にするのだろう。無性に母が恋しかった。

 しばらくして、イサイアスが戻って部屋に来たが、ノラは胎児のように丸くなっていた。熱を看ようとイサイアスが額に手をやると、ノラの頬に涙の跡があることに気づいた。押し当てられた手の感触にノラはのろのろと目を開けた。

「泣いてたのか?」

 イサイアスの質問に、ノラはまどろんだ目を重そうに瞬きして首を振った。わからない、という意味だろうか。それとも、心配するな、だろうか。……

「食事を作って来た。お前が作るのよりうまくはないだろうが……」

 ノラは今度は明らかに首を振った。

「欲しくないの……」

 まるでこどものようだった。

 「それでも食べないと、よくならないだろう……」

 イサイアスはノラを起こし、半ば無理やりにスプーンを口に運んだ。ノラは一口粥を飲み込んだが、またすぐに首を振った。

「ごめんなさい、イサイアス……。後で食べるわ……」
「そうか……」

 イサイアスはトレーを置いて部屋を出て行こうとした。そのイサイアスをノラが小さな声で呼びとめた。

「ありがとう、イサイアス……」
「……ああ」

 ドアを閉じ、イサイアスは考える。どうしてノラは泣いていたのだろう。
 
 昨日、カトレアとノラの間になにがあったのか、ある程度は想像ができる。カトレアがノラに突っかかったのだろう。

「あの子があたしの首飾りに触ろうとしたのよ。だから頬をぶってやったの!」

 ノラは気を失っていたのだから、なんとでも言える。それより聞き捨てならなかったのは次の言葉だった。

「乞食の分際で、王宮へ来ること自体大間違いよ!」

 それはイサイアスが宣伝のためにオーバーにいった台詞だ。事実とは違う。ノラの詳しい事情は知らないが、使用人として働いていたこともあったようだし、アンディとケスに連れ去られる前は、行くべき場所もあったはずだ。

 ノラの立場を貶めてしまったのはまぎれもないイサイアスだった。ノラは自分がけなされたりしても、それに激情したりしない。ぼさぼさの恰好で宝石店を回らせたあのときでさえ、ノラはイサイアスを責めたことはなかった。イサイアスは試していたのではなかったか。どんなことをしても、ノラは裏切らないという、確信が欲しかったのではなかったか。馬車の中でノラの体調がすぐれないとわかったときも、ノラなら文句も言わず、ついてきてくれると甘えていたのではなかったか。ノラが自分にどこまで与えてくれるのか、それを推し量ろうとしていたのではなかったのか。
 本当にノラを信用してもいいのか、どこまで自分の無理や横暴を受け入れてくれるのか、本当に裏切らないかどうか。イサイアスはその確信が欲しかっただけではないのか。今までノラは、イサイアスになんの確信も求めてこなかったというのに。

 「あなたは幸せになるの。わたしはそう信じるわ」

 ノラにあるのは、イサイアスの幸せに対する確信だけだった。そんな目に見えないものだけノラは信頼していた。そんな目で自分を見てくれた人を、ノラのほかにはたった一人しか知らない。今は亡き母シーラ。母も泣くときはひとり、ひっそりと泣く人だった。イサイアスはいま降りたばかりの階段を振り返り仰いだ。再びノラの部屋のドアを開けると、ノラの苦しそうな息が聞こえた。薬はちゃんと飲んだようだ。イサイアスはもう一度ノラのおでこに手をやった。ノラは、はっとしたようにまどろんだ瞳を開いた。

「起こしてごめん」
「イサイアス……?」

 その頬はやはり涙の跡があった。イサイアスはそれを指で拭いた。

 「なにか……、欲しいものはないか? 水枕とか……」 

 するとノラは少し笑った。

「急に、へんなの……」
「へん?」
「急にやさしくなって……」
「急にって……」

 といいかけたがイサイアスは口を閉じた。確かにそうだ。弁明の余地があるなら、自分だって聞いてみたい。

「……それより、なにかあるか? 欲しいもの……」

 ノラは弱弱しくいった。

「ハニージンジャー……」
「ハニージンジャーだな」
「つくってくれるの……?」
「……ああ。どうやって作るんだ」

 そういえば、イサイアスはノラのことをなにも知らない。


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