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【シリーズ1】ノラ・ジョイの無限の泉 ~みなしごノラの母の教えと盗賊のおかしらイサイアスの知られざる正体~
#6 珊瑚のレディ(1)
しおりを挟む次の日からノラが中心になって、みんなに文字と計算を教えた。
商売の拠点となる土地や品物の名称、通貨や物価、そして基本的な算数と分数や小数点の計算。
もともと縁のある土地のことだ。
男たちは必要最低限のことは比較的すぐに身に着けた。
意外にも計算に一番苦戦したのはパルスで、分数の掛け算、割り算が全く理解できなかった。
そこで、ノラがまとめた九九や基本的な分数の計算表が役立った。
苦手な分数や小数点が出てきたら、表を見れば計算をできなくても答えを導き出せるようになった。
一番早く文字を覚えたのはこちらも意外なケスだった。
文字の書き取りの間、歌になぞらえて練習していたのが効果的だったらしい。
ケスのやり方を真似たステルスも、同様に覚えが早かった。
他の者は、文字やつづりを完全に理解したわけではなかったが、ここでイサイアスの描いた絵が大いに役立った。
地図や商品伝票にイサイアスが絵を描き、ノラはその一つ一つ名称を書き込んだ。
それから、イサイアスは商会の規約を作った。
盗賊稼業からはきっぱり足を洗うのだから、当然よこしまな考えや取引などは一切を禁じた。
ディビーはコルネットの街で手ごろな店を買うための準備と、仕入れのための資金を計算して割り振った。
アイビスはせっせと荷馬車を作り、コルドーは一層馬の世話に励んだ。
ノラはイサイアス商会の証文を作り、彼らがれっきとした商人に見えるように新しいコートと帽子を作った。
準備は着々と進み、ついにアジトを後にするそのときが来た。
「よし、お前ら、準備は抜かりないな?」
「へい」
「もちろんでさぁ」
「ばっちりなんだよう」
ノラはそれぞれの土地へ向かって旅立とうとしている男たちを見た。
男たちのコートの襟には、もれなくイサイアス商会の頭文字のEの字を展開した装飾が刺繍されている。
「みんな、気をつけてね。何度もいったけれど、思うような結果が得られなくても、必ず帰ってきてね」
「わかってるよ、ノラ!」
パルスはウインクを投げ、ステルスとともにピッコロ地方へと旅立っていった。
「商売のコツははじめから儲けようとしないことだ。多少買いたたかれたり、値を吊り上げられても、いつもみたいに切れるんじゃないぞ。俺たちはなんてったって、イサイアス商会なんだからな!」
コバドーンは商売人の心得を大声で各々の道に向かう仲間たちに向かって授けた。
「おう! それじゃあな!」
「先に行くぜ!」
男たちはめいめいに馬に鞭を打った。
「気をつけてね! いってらっしゃい!」
「さあ、ノラ。俺たちも行こう」
コバドーンがイサイアス商会と名前の入った箱馬車のドアを開けてくれた。
その仕草がとても様になっていて、しかもコバドーンは新しいコートがことのほかよく似合っている。
一時期だが、彼も貴族の家に仕えていたことがあるのだという。
「ありがとう、コバドーン。午後は席を代わるわね」
箱馬車は四人乗りだが、荷物もあってふたりしか座れない。
ひとまずイサイアスとノラが中に乗り、御車席にはディビーとコバドーンが座ることになっていた。
コバドーンは人当たりのいい顔でにっこり笑って見せた。
「あんたような子を御者に座らせておいたら、街に着くまでに何度盗賊に襲われるかわからないよ。大人しく中にいるのが賢明だね」
ノラは、あらと気がついたように頷いた。
「そうよね。確かに盗賊が御者をしているわたしを見たら、剣で脅して簡単に馬車や荷物を奪えるものだと思ってしまうかもしれないわね。でも、馬車の中にも外にも座っているのが元盗賊だなんて知った日には、きっと青ざめちゃうでしょうね」
コバドーンは苦笑した。
それもそうだが、ノラのような年頃のそれも愛らしい娘が表にいては、悪漢でなくともちょっかいを出したくなってしまうものだ。
ノラが馬車に乗り込むのを見守って、コバドーンは隣のディビーに向かってつぶやいた。
「ノラが売り子に立ったら、店は繁盛すると思わないか?」
めずらしくディビーは一言だけいった。
「むろんそうだろうよ」
***
ディビーの言葉はまさにその通りになった。
明るく気立てもよく、くるくるとよく働き、細かいことまで気がつくノラは、あっという間にイサイアス商会の看板娘となった。
「やあ、ノラ。ゴールデンビンズをいつもの倍頼むよ」
「はい、ありがとうございます!」
ノラが豆を包む間に、ディビーが素早く計算した。
「二四〇〇〇ロニーだよ」
「はいよ。いつ来てもイサイアス商会は繁盛しているなあ」」
「いつもありがとうございます。ケンビスさん。はい、ちょうどですね」
「ありがとう、ノラ。それで、ちょっと聞きたいんだが、休みはいつなんだい?」
すかさずケンビスとノラの間に、コバドーンが得意の営業スマイルで割り込んだ。
「ケンビスさん、うちの看板娘を連れて行かれちゃ困りますよ。ノラがいるといないじゃ、売上が倍も違うんですから。ケンビスさんがその分買ってくださるっていうんなら話は別ですがね」
「や、まあ、そういうことなら仕方ないか。じゃあまた来るよ」
コバドーンにかかれば、客もこんなふうに穏便に帰って行く。
街の一角に店を構えるイサイアス商会は、今やなかなかの評判を上げていた。
これまで店売りなどしたことがなかったコバドーンとディビーだったが、今やすっかり商店街の一員として街になじんでいる。
三人が客の対応にしていると、店の奥からイサイアスが出てきた。
オーボエの街から戻ってきたばかりのアンディとケスも一緒だ。
「ノラ、オーボエの街の珊瑚のピアスとネックレスが入った。かなりの上ものだ。宝石店を回るからついて来い」
ノラはきょとんとした。
高価な商品を運ぶときはいつもはコバドーンに頼むはずだ。
「どうして? わたしは店番があるし、それにアンディとケスの食事とベッドも作らなきゃ……」
アンディとケスは久々のノラの食事を楽しみにしている。
「そう、プディングが……」
「とにかく来い」
いいかけたケスを遮って、イサイアスはノラの腕をとると、強引に店から連れ出した。
元が高貴な生まれなのもあって、イサイアスはどこからどうみてもすっかり品のいい紳士に納まっていた。
襟の高いコートも羽帽子も、まるで貴公子のごとく似合っている。
そんな容姿と品格が相まって、イサイアスは街のちょっとした噂の的でもあった。
突如として現れたイサイアス商会の若き頭取。
女たちが色目を使うのも当たり前だ。
「まあ、イサイアスじゃない。今日はどちらへ?」
ウインクを投げるは、腰が締まった色気溢れるの美女だ。
「やあ、カトレアさん。今日もいつになく素敵ですね。すばらしい宝石が入りましてね。ぜひあなたにも一度ご覧いただきたい。きっと気に入ると思いますよ」
「ええ、近いうちに寄らせてもらうわ」
女のあしらいもそつがない。
「イサイアスがこの街の女性たちに人気なのがわかる気がするわ」
感心してノラは褒め言葉のつもりでそういった。
だが、イサイアスは気分を害したように眉をひそめた。
「あの手の人間は、相手が利用できそうかどうかをうかがっているだけだ」
「そんなこと……」
イサイアスはくるりと振り向いた。
「今でも俺は、自分しか信じない」
「……」
ノラはイサイアスの瞳になにかがこごっているのを見た。
「でも、イサイアス。わたしたちの店はうまく行ってるわ。家具はかなりの数の受注をもらえたし、商会で取り扱う品物も日を追うごとに増えてきているわ」
ノラは確かめるようにいった。
アイビスたちの担当する家具は、主力取引商品になっていた。
先日も教会の椅子をそっくり全部入れ替えるという大きな仕事を取ってきた。
アイビスによれば、その教会に飾られていた聖母の絵が素晴らしかったそうで、太陽のもとで真面目に働く者にはちゃんと加護があるみたいだ、なんて話しさえしていた。
ステルスには思わぬ才能があったのか、イサイアスから手ほどきを受けると絵も描けるようになった。
今では品目管理台帳に商品の絵と説明書きをまとめるのはステルスの役目になっている。
さらにこの台帳を複製することで、各地域での取引拡大に大きく役立っている。
「これはあなたを含めた、みんなの力よ。そうでしょう?」
ノラの言葉は正しかった。
それなのに、イサイアスはふいと顔を逸らして歩き出した。
その背中を慌てて追いながら、ノラは思わずにはいられない。
いったいなにが彼を苦しめているのだろう。
現実はいい方向に変わってきている。
かつての盗賊団は、今ではすっかりイサイアス商会としてうまく世の中に溶け込んでいる。
仕事が軌道に乗れば、イサイアスの心はもっと穏やかになると思っていたのだが……。
どうやら、そう簡単ではないらしい。
「イサイアス。わたしにできることがあれば、話して欲しいわ……」
背中越しのノラの声に、イサイアスは足をとめた。
開きかけた口をすぐにつぐんだ。
なにがこんなに自分自身を苛立たせるのだろう。
不安にさせるのだろう。
イサイアス自信それをうまく言葉にできない。
それがまた余計にイサイアスをイライラとさせていた。
「……行くぞ!」
大股で行くイサイアスの後をノラは追った。
***
イサイアスがやってきたのは街で一番の仕立屋だった。
貴族や裕福な商人が出入りするような店だ。
イサイアスは一息つくと、しかめ面を営業用の顔に切り替えた。
「イサイアス商会のイサイアスです。こんにちは」
「やあ、これは。噂のイサイアス殿ではありませんか。今日はどういったご用向きで」
「うちの看板娘に、一着ドレスをお願いしたいのです」
ノラはびっくりしてイサイアスの横顔を見た。
寝耳に水だ。
一体なんのためにドレスが必要なのだろう。
「色は赤がいいですね。仕上がりはいつになりますか?」
「そうですね、二週間後には出来上がるかと」
「無理をいって申し訳ないのですが、そこを一週間でお願いします。お代はこれでいかがでしょう」
イサイアスの渡した代金に、店主は目を丸くして突き返した。
「こ、こんなにいだけませんよ。いくらなんでも多すぎます」
「かまいません。その分いいものを作って下さい。一週間後出来上がったものがいい加減なものでしたら、三分の二を返していただきますよ」
「そこまでいわれるのでしたら、承知しました。決して後悔はさせないとお約束しますよ。さあ、看板娘のお嬢さん、採寸いたしますので、こちらへどうぞ」
わけがわからないまま、ノラは店の奥へ案内された。
街で一番の仕立屋だというだけあって、手慣れたお針子たちが四人がかりでノラの採寸をした。
「仮縫いができたらご連絡いたしますわ」
「はい……」
終わって店を出ると、イサイアスは公園の孤児にパンを配っているところだった。
イサイアスは今でもたまにこうして浮浪児に施しを与えているのだ。
「おまたせ、イサイアス」
「できることがあるなら話して欲しいといったな」
「ええ……」
ノラがうなづくと同時に、突然イサイアスがノラを突き飛ばした。
「きゃっ! な、なにするの!」
転がされたノラのエプロンは砂埃まみれだ。
次に、ノラを立たせたかと思うと、今度はノラの髪をぐしゃぐしゃにかきまわした。
ノラの非難など、右から左だった。
「イ、イサイアス! なんなの!?」
「よし、これから宝石店を回るぞ」
「じょ、冗談でしょう!」
宝石店といえば、仕立屋以上に金持ちや貴族たちに所縁のある店だ。
普段着で尋ねることさえはばかられるのに、服は汚れ、髪はぼさぼさ。
こんな格好で行ったら、即座に追い出されるのがおちに決まっている。
「できることがあるなら、やってくれるんだろ?」
「で、でも……!」
「来いっ!」
強引に手を引かれながら、されるががままに宝石店へ来てしまった。
「こんにちは、イサイアス商会です」
宝石店の店主の顔といったらない。
店の中にいあわせた金持ちそうな客が明らかに不快に顔をしかめている。
「突然のご無礼をお許しあれ! 我々の商会に大変質の良い華麗な珊瑚の首飾りが入りました。つきましては、一週間後、そのお披露目会を催したいと思っています。ここにいるこの乞食の娘。この娘さえも目を疑うような淑女に変えて見せましょう」
こんな調子でイサイアスとノラは街中の宝石店を回った。
連れまわされている間、ノラはひたすら肩身の狭い思いをしていたが、いつの間にやらイサイアスはうまく話を取りまとめたらしく、歩いて回った宝石店の中の一軒を借りて、珊瑚のお披露目会を一週間後にすることになった。
各店の店主たちや居合わせた客たちは、面白がってさまざまに吹聴して野次馬を呼んでくれることだろう。
イサイアスの考えがわかったので、ノラは黙ってイサイアスについて回った。
まったく、とんでもない客寄せの方法を思いつくものだ。
ようやくそれが終わると、ぼさぼさの髪を撫でつけて、汚れたエプロンを外しながらいった。
「こういうことならそうと先にいって欲しいわ……」
ノラだって年頃の乙女だ。
こんなこと、一度ならまだしも二度は耐えがたい。
少なからず、ノラの自尊心は傷ついた。
イサイアスは平然といった。
「人のためになれ、といったのはお前だろう? 一週間後、大いにためになってもらうとしよう」
***
そして一週間後、仕上がったドレスがイサイアス商会に届けられた。
「ノラ、届いたぞ。着てみろ」
ドレスは、いつか一度だけ着たあのときのように真紅だった。
同じ生地のフリルが華やかに。襟と袖のレースは品よく。
腰がきゅっと締まり、裾はたっぷりと流れるほどに長い。
「こ、こんなの着れないわ」
ノラは迷わず首を振った。
一週間という突貫制作だったせいで、木綿生地の仮縫いのドレスでフィッティングをしたあとは、一度もドレスを見ていなかった。
こんなに派手で主張の強いドレスが出来上がるなんて、ノラには想像もつかなかったのだ。
着こなせる自信など万に一つあるはずない。
こんな豪華なドレスが、まさか自分に似合うとでも?
イサイアスはどうかしている。
「いいから着るんだ。髪は結いあげろ。上品にな」
イサイアスはノラの意向など構わず命令した。
渋々ドレスを受取るしかない。
「これもだ」
唐突に赤い靴をイサイアスが差し出した。
いつの間に用意していたのだろう。
艶々の赤いシルクのドレス、真新しいぴかぴかの赤い靴。
とても現実とは思えない。
自室に入ったノラは恐る恐るドレスを着て、靴をはき、髪を編みこんで結い上げた。
鏡に映る自分がまるで自分ではない。
いつもの自分との違和感が大きすぎて、まともな感覚で判断できない。
出したことのないデコルテや、体のラインがくっきりとして、まるでいきなり大人になったみたいに見える。
だけど、これが自分だと思うとなんだか無性に恥ずかしい。
……これでいいの?
似合っているのかどうか、全然わからない……!
「できたか?」
ドアの外でイサイアスの声がした。
ノラはすかさず「まだだめ」と答えた。
どうしよう。
こんな立派なドレスに、大人っぽいヒール靴。
どれだけお金をかけたのか知れない。
髪を結ったところで、所詮レディでもなんでもない。
田舎娘が身の丈に合わないものを身につけいていると、笑われるに決まっている。
みんなが一生懸命に稼いだお金を無駄にしてしまったに違いない。
ノラは一人で部屋の中を行ったり来たりした。
「まだなのか?」
「あ、あの……、や、やっぱり、わたしには似合わないわ」
待ちくたびれたイサイアスが一言断ってドアを開けた。
その瞬間、イサイアスは立ちくらむような気がした。
真紅のなめらかにシルクに、一点の曇りのない乳白色の肌。
ほっそりとしたウエストから、ふっくらと丸みを帯びてゆったりと流れるスカート。
結い上げて額を出したノラは、あどけなさを残しながらも、いつも以上に女らしさを醸していた。
わずかに上気した頬が、ことのほかいじらしい。
目を見開いたままなにもいわないイサイアスに、ノラは堪らず顔を伏せた。
「や……、やっぱり変よね……」
イサイアスは側によると、その顎を掬ってノラの緑色の瞳を見つめた。
「いつものように堂々としているんだ。お前は美しい」
――う、美しい……?
ノラの頬はドレスに負けないくらいに赤くなった。
今まで誰にもそんなこと、されたことも、いわれたこともなかった。
ノラの胸の中をぐるぐると激しい動揺が巡った。
体中が熱く、なんだか浸かり過ぎた風呂のように頭がのぼせて、自分では制御ができない。
イサイアスは、手に持って来ていた珊瑚のネックレスとイヤリングをノラにつけた。
ノラの白い肌が、ますます引き立った。
「おいで、ノラ。あいつらの驚く顔が見たい」
ノラがなにかをいう前に、イサイアスがノラの手をとった。
まるで、そう。
レディの手を取るかのように。
――ど、どうしよう……!
なぜ、こんなに胸がドキドキするの?
ノラは今まで感じたことのない気持ちに、パニックになっていた。
息がくるしい。
今までどうやって息をしていたんだっけ?
どうしたらいいのかわからない。
「お前たち、見ろ! 珊瑚のレディのお出ましだ!」
コバドーン、ティビー、アンディが喝采の声を上げた。
ケスは口を開けて見とれている。
ノラはそれどころではなかった。
イサイアスの触れる指が熱い。
階段を下りる足にまるで感覚がない。
なんだか宙を浮いているみたいだ。
ノラにはそれが恋だ、まだわからなかった。
***
「さあさ! お集まりの紳士淑女の皆さま。今日は足場の悪い中、イサイアス商会の珊瑚の装飾品のお披露目会にご来訪を頂きましてありがとうございます。今から登場するのは、もとを正せば家もない親もない粗末で哀れなみなしごの娘。珊瑚の首飾りが哀れな娘をどこまで美しく映えさせることができるのか、これは見ものでございましょう。本日我がイサイアス商会は様々な珊瑚の装飾品を取りそろえております。もしお気に召されれば、どうぞ気兼ねなくご試着、ご注文をお申し付けくださいませ」
宝石店の外では雨が降り出している。
それにもかかわらず、店は来場者で大賑わいだった。
店の常連客から冷やかしや野次馬、街の権力者、財界人、豪商人らがつめかけていた。
もちろん、あのカトレアもとある貴族の愛人としてこの席に顔を出していた。
「それでは登場していただきましょう。みなしご娘の華麗な変身をご覧あれ!」
イサイアスの掛け声によって、コバドーンに手をひかれ、ノラは店の奥から来客の前に進み出た。
その瞬間に聞こえる感嘆と驚きの声。
「この娘が乞食だって?」
「なんて美しいのかしら! ドレスと珊瑚がよく合っているわ!」
「あれが、この間の小娘と同一人物? うそだろう?」
ノラは手をひかれるままに、観客の間を優雅に歩き回った。
もちろん、前日までに歩き方や微笑み方をみっちりとイサイアスにしごかれた賜物だった。
ため息と喝采の中、ノラはゆっくりイサイアスのもとへ導かれた。
そして、今度はティビーが商品の並んだカートを運び入れ、観客に見えるように広げていく。
「さあ、本日は数ある珊瑚の中でも選りすぐりのものを取り揃えました。数には限りがございます。ご予約、ご注文はお早めに! 売り切れ完売はどうぞご容赦ください!」
イサイアスの台詞はまるで魔法の言葉のようだった。
来訪客は一斉にノラの周りを取り囲み絶賛した。
そして、何百万ロニーという珊瑚のネックレス、イヤリング、指輪などが次々と飛ぶように売れていった。
目まぐるしいその様を、ノラはどこか夢心地で見ていた。
隣には、紺色のドレスコートを着た凛々しいイサイアスがほほ笑んでいる。
まるで、まるで……。
イサイアスの隣にいると、自分までも貴族のお姫様になったような気分だ。
ひと通り買い物客が引いて行くと、今度は毛色の違った男たちがイサイアスに話しかけてきた。
「やあ、イサイアスといったね。君の手腕は素晴らしい。ぜひ内と取引してくれないかな? 今度じっくり我が家で話をしよう」
「光栄です。サーランギ男爵」
貴族や金持ちを狙う盗賊の元統領が――自分たちだって被害にあったのは一度や二度ではなかろうに――まさか目の前にいるとも知らず、男たちは次々とイサイアスと握手を交わしていった。
イサイアスの狙いはこれだったのだ。
すべては太い客をつかむための大がかりな仕掛けだったのだ。
カトレアが二人の前にやって来た。
「イサイアス、素晴らしいお披露目会だったわ。紹介がまだだったわねぇ、旦那様、こちらイサイアスよ。イサイアス、こちらはペジョーネ子爵よ」
「ペジョーネ子爵、お会いできて光栄でございます。カトレアさん、今日のあなたのドレスは格別ですね」
腹のつき出たペジョーネという男は、妻ではなく愛人を堂々と連れてきているところを見ると、見た目にたがわず顕示欲の強い男のようだ。
「イサイアス。うちのカトレアは、その娘がつけている首飾りと耳飾りが気に入ったそうだ。明日うちに届けてくれるかい」
「いやだわ、旦那様。あたしは今すぐ欲しいのよ。今すぐ、着けていきたいの」
カトレアは、ちらりとノラを見た。
「カトレアさん、ありがとうございます。すぐにでもお渡ししたいところですが、これはたいへん高価な品物です。金物の不具合などをしっかりお調べしてからお届けするのがよろしいかと」
「ねえ、旦那様。あれを着けたところを、あたし、旦那様にお見せしたいの。イサイアス、あなただってこの珊瑚は、その子よりあたしにこそふさわしいと思うでしょう?」
カトレアの態度がペジョーネの顕示欲をうまい具合にくすぐった。
愛人女も心得たものだ。
「君がそこまでいうのなら。イサイアス、構わないからカトレアにつけてやってくれ。代金は明日うちまで取りに来てくれ」
「承知しました」
イサイアスはノラの背後にまわりネックレスを外すと、カトレアの首に着けた。
さらに受け取ったイヤリングを両耳につけたカトレアは、まるで勝ち誇ったかのようにノラを見た。
「見て、旦那様! あの子よりわたしのほうが断然似合っているでしょ?」
「ああ、カトレア。君は最高に美しいよ」
「そうでしょう、イサイアス?」
「全くその通りです」
カトレアはノラに一瞥をくれた。
敵対心とその勝者が誰かを表す無言の視線だった。
ノラは夢が覚める心地がした。
珊瑚のネックレスの魔法は解けた。
ノラは再び、ただの娘に戻ったのだ。
イサイアス商会のお披露目会は盛況のうちに幕を閉じた。外の雨はいつまにやら大降りになっていた。天気とは裏腹にイサイアス商会の面々の顔は明るかった。イサイアスは宝石店の店主に場所代として幾らかを渡した。店主はそれを受取りながら、
「君のところの珊瑚を、うちでも取り扱いたい。価格はこれでどうかね」
「この街一番の老舗宝石店から声をかけていただけるなんて、願ってもない幸運です。こちらこそ、ぜひ」
そのとき店に一人の使用人が入ってきて、ノラを呼んだ。
「カトレア様が、店を出てすぐイヤリングを落とされてしまったそうです。すぐに探して届けてほしいとのことでございます」
「店の前で? さきほどお帰りになったときかしら」
「はい。カトレア様は大変お困りです。あなたに探して持ってきてほしいと言っています。お伝えしましたよ。すぐお願いします」
「は、はい……!」
ノラは店の中を振り返ったが、それぞれ片づけや商談で手がはなせない。ノラはドレスのすそを持ち上げると、意を決して店を出た。
店の外は雨のせいもあってもう薄暗い。これは早いところ見つけ出さなければ、見つからなくなってしまうだろう。ノラはドレスのまま店の前を隅から隅まで探しまわった。肩には冷たい雨が降り注ぎ、真紅のドレスは雨に濡れて一気に重くなり、血のように深い赤に染まった。
「ここには見当たらない……。もっと先かもしれないわ……」
ノラは足を延ばし、通りのあちこちをも探し歩いた。雨はますますひどくなってくる。時々通る馬車の運転手が怪訝な顔でノラを見ていった。
一方、店の中では、商談と片付けを終えた男たちがようやくノラがいないことに気づいた。
「ノラはどこだ?」
「あの子なら、少し前に店の外へ出ていったよ」
店主は言った。イサイアスたちは眉をひそめた。
「この雨の中? そういえは、さっき誰かがノラと話していなかったか?」
男たちは一斉に店を出た。店から離れた通りの先で、ノラはひとりでなにかを探すように地面を見まわしていた。
「ノラ!」
振り向いたノラはびしょぬれだった。。
「イサイアス……! さっきカトレアさんの使いの人が来て、イヤリングを店の前で落としてしまったから、探してすぐに届けてほしいと言ってきたの。通りをくまなく探してみたんだけれど、見つからないの……」
イサイアスはすぐにピンときた。多分、カトレアはイヤリングを落としていない。
「ノラ、もういい。とにかく馬車に乗れ。風邪をひく」
「でも、すぐ持ってきてほしいと頼まれたの。きっと困っているのよ」
きれいに結い上げた髪の芯まで濡らして、ノラはまだ騙されたことに気づいていない。カトレアは雨の中、あるはずのないイヤリングを探させたかったのだ。それを疑いもしないなんて、ノラは、なんてお人よしなのだろう。イサイアスはコートを脱ぐとノラを包んだ。
「明日、俺がいって話してみる。いいから、馬車に乗れ」
「わたしも明日謝りに行くわ……」
正直者は馬鹿を見る、ノラはまさに言葉の通りだ。それなのに、イサイアスは肩を落とすノラに真実を言う気になれなかった。
「早く乗れ、ノラ」
馬車の中で、ノラの体は小さく震えていた。自分たちが気づくまで、ノラはたった一人で雨の中をさまよっていたのだろう。その健気さ。正直がゆえの愚鈍さ。死んだ母の影が重なるようだった。イサイアスは思わず馬車の密室で、凍えるノラを抱き寄せた。
「イサイアス……」
驚きながらも、ノラの頭は瞬時に、かぁっとした。さっきまでカトレアのイヤリングのことを考えていたのに、イサイアスの厚い胸や強い腕がそのすべてを追い払ってしまった。ど、どうしよう……、どうしよう……! ノラは小さな混乱に陥った。 どうしたらいいの? イサイアスはなぜ黙ってるの? わたしはなにか言った方がいいの? だけど、なにを……?
「……あ、あの……ドレス……、汚してごめんなさい……」
「そんなことはどうでもいい」
会話は途切れた。
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クローディアは自らの望む未来を手にすべく、密かに手を回す。
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
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リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
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