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【シリーズ1】ノラ・ジョイの無限の泉 ~みなしごノラの母の教えと盗賊のおかしらイサイアスの知られざる正体~

#3 ジョコラータ邸(1)

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 真新しい使用人服は、深い青緑色。
 エプロンはまっさらの木綿。
 髪を覆い隠す帽子もある。
 それだけでノラの胸は、うきうきした。
 昼にはノラのベッドも到着するという。
 ジョコラータ邸での新しい生活が始まろうとしていた。

「新しい服はどう? サイズはいいようね」
「奥様、おはようございます。はい、ぴったりです」
「リディア、リディア?」
「はい、奥様」
「今日からノラをあなたと同じ部屋に住まわせるわ。面倒を見てやってちょうだい。屋敷を案内して、仕事を与えてやってね」
「かしこまりました、奥様」

 頭を下げて主人を見送り、ノラは先輩に向きなおった。

「リディアさん、よろしくお願いします」

 リディアは二十歳前後で肌の色が白く、はしばみ色の瞳を持った容姿に恵まれた女だった。
 帽子に隠された髪はどんな色をしているのだろう……。

「あんた。馴れ馴れしいのよ。奥様と旦那様に気に入られてるからって、いい気にならないでよね」

 唐突に突きつけられた手厳しい言葉に、ノラは思わず言葉を失った。

「あたしが個室をもらうのに何年かかったと思ってるの? あんたが来てこっちはいい迷惑よ。仕事以外ではあたしに話しかけないで。いいわね?」
「……」
「返事!」

 いつもは百合のように美しい横顔なのに、まるで敵を威嚇する獣のようにぎらりと歯を見えた。

「はっ、はいっ!」

 あまりの迫力にノラは縮み上がってしまった。

「使用人たちを紹介するわ。ついてらっしゃい」
「はい……」

 大股で行くリディアの後ろを、ノラは小走りで追った。
 リディアは調理場や洗濯場、庭や倉庫などに案内をし、屋敷で働く面々と顔合わせをさせた。

「いいこと? 指示されたことはきちんとやること。余計な口を訊かないこと。お客様の前には無暗に顔を出さないこと。わかったわね?」
「はい」
「それじゃあ、ひとまずあんたは庭掃除をしてちょうだい。使用人の食事は八時、昼は四時、夜は十一時。場所はさっきの使用人用の休憩室よ。遅れたらなくなるから注意しなさい」
「はい」
「なに突っ立ってんの! さっさとやりなさい!」
「はっ、はいっ」

 リディアに突き出された箒を委縮しながらも受け取り、すぐに仕事に取り掛かった。
 それを横目につんとして、リディアは屋敷の中へ戻って行った。
 八時までの時間を読んで、ノラはテキパキと庭の掃き掃除をした。
 庭先の洗濯場では、中年の使用人ケティが洗濯物を干している。
 しばらくするとケティは洗濯物を干し終えて屋敷へ戻って行った。
 そのあともノラはせっせっと仕事に精を出した。
 八時過ぎになって、ノラは使用人休憩室に向かった。
 そこにはすっかり食べ終わった皿が、乱雑に置かれていた。

「あら、遅かったわね。あんたの分はもうないわよ」

 リディアがいじわるそうな目つきで立ちあがった。

「後片付け頼むわ」

 そう言い残すと、リディアは再びつんとして休憩室を去った。
 みんな、食べ終わるのがなんて早いのだろう……。
 ノラは食器を洗い場に運び片づけながら、今度は時間ぴったりに来ようと心に決めた。

 そのあと、午前の仕事とジョコラータ夫妻の昼食の給仕の手伝いを終え、そして四時。
 ノラは時間に間に合うように、少し早めに休憩室についた。
 そこにはケティがいて、汚れた皿を片付けているところだった。

「あれ、あんた……」
「あの……お昼ごはん、もうなくなってしまったのですか?」

 さすがのノラも、空腹に耐えかねて切なそうに視線を向けた。
 中年女は、ははんとしたり顔を浮かべた。
 
「あんた、使用人の昼ごはんは三時からだよ」
「えっ? でもリディアさんが……」

 ケティは軽く首を振って去って行った。
 ノラは夕方の仕事を終え、今度はリディアにいわれた時間よりも一時間早く休憩室に向かった。
 すると、休憩室は使用人たちが集まり騒がしく食事をしていた。
 ノラはようやく食事にありつけることにほっとして、そしてスープとパンを受取った。
 ノラが席を探すと、ケティが場所を開けてくれた。

「今度は食いっぱぐれなくてよかったね」
「はい、ありがとうございます、ケティさん」
「ほら、これ」

 ケティは小さな紙包みをノラの前に広げた。
 中には角砂糖が入っている。

「あんたがまた食事にありつけなかったらかわいそうだと思ってさ、ちょっこしくすねて来たんだよ」
「あ……! ありがとうございます」

 ノラがうれしそうに笑ったのを見て、ケティは片目をつぶって見せた。
 その様子を見て穏やかでないのはリディアだった。
 リディアはわざと大きな声を上げてノラを見た。

「ねぇ、知ってる? 新しく入ったあの子、なんにもできないのにあたしたちとおんなじお給金もらってるのよ。あたしなんて三年働いてやっと今の額だっていうのに、不公平だと思わない?」

 リディアのいっていることは出まかせだった。
 だが、他の使用人たちが手放しでそれを信じてしまうのは無理もなかった。
 リディアは使用人頭のヘンリーと出来ているというもっぱらの噂だったからだ。

「なに、それ。ほんと?」
「本当よ。旦那様と奥様のお気に入りだから、うまくとりいったに違いないわ」

 ノラにはそんな覚えはないし、使用人たちの給与の額を知る術もない。
 今日働き始めたばかりの少女には、否定も肯定もしようがなかった。

「そんな……、わたし……」

 いいかけたそのとき、使用人たちの冷たい視線がノラに集まった。
 ケティまでもが、開いたばかりの角砂糖の包みをさっと隠してしまっていた。
 その後、ノラに話しかけるものは誰一人としていなかった。
 食事の片づけが済んで、ノラは違った意味で疲れていた。
 街で花売りや手紙屋をやっていく苦労とはまた違っている。
 やり方が陰険だ。

 その夜、静まり返った屋敷の中で、ノラはのろのろと廊下を歩いていた。
 今日からリディアと同じ部屋で眠るのだ。
 どんな嫌味をいわれるのか、想像しただけで歩幅が狭くなる。
 ようやくそのドアの前にたどりつくと、ノラは小さくノックした。

「リディアさん、ノラです……」

 返事はない。
 ノブに手をかけたが回らない……。
 鍵がかかっていた。
 思わずため息をついた。
 朝起きたときにはあんなにうきうきしていたのに、今日は最期まで思ったようにはいかないようだ。
 それでも、突然の雨を心配することはないし、寝ている間に鞄を盗まれるのではと飛び起きる心配もない。
 それだけでも今は良しとしよう。
 ノラはドアの前で膝を抱え、しばらくすると睡魔に身を任せた。
 明日はもう少しリディアと距離を縮められたらいいのだが。……

      ***

 その朝ノラは誰よりも早く起きた。
 掃除や洗濯、薪の補充や食材の準備。
 できることは進んでやった。

「ケティさん、このじゃがいもはどうするんですか?」

 ケティはちらりとノラを見て、やや投げやりにいった。

「半分は夕食に、半分はこれから使うよ」
「じゃあ、皮抜き手伝います」

 衣服の繕いも、時間を見つけてはちょこちょこと行った。
 それが使用人のものであろうと丁寧に繕った。
 その出来栄えは、母の直伝のおかげで、店に修理に出したかのようにきれいだった。
 ――人のためになりなさい。そうすればおのずと道はひらけます。

 ノラはことあるごとに母の口伝を思い出し、その通りに考え行動した。
 そんなノラが、使用人の間でも認められていくのにはそう時間はかからなかった。

「ノラ、ちょっと庭の木の選定を手伝ってくれるかい」
「はい、ペトスさん」
「ノラ、肉屋に行ってお客様用の鴨とフィレを頼んできておくれ。来週の晩餐会に使うから、上等なのを頼むってね」
「はい、ケティさん」
「ノラ、旦那様の絵具を買ってきてくれるかい。このメモは……。ああ、君は自分で読めたね」
「はい、ヘンリーさん」
「ノラ、ちょっと頼みたいことが……、あら、ノラは?」
「エイブリー、ノラなら今お遣いに出てるわよ」
「あら、やんなっちゃう。あたし計算苦手なのよね。このレシピを十六人前にしたら、エシャロットとニンニクはいくつ剥けばいいのよ?」
 
 そんなノラをいつまでも廊下で寝かせるわけにもいかず、リディアは渋々ノラを部屋の中に入れた。

「あんたはそっちのベットを使いなさい。新品はあたしが使うわ。いいわね?」
「はい、リディアさん」
「あんたの荷物は、ベッドの下にでも入れておきなさい。散らかすんじゃないわよ。あたしのものにはなにひとつ触らないで」
「はい」

 リディアはいつものようにつんとして顔をそむけた。
 さっさとベッドに潜り込むと、ランプの明かりのもとでなにやらぶつぶつといっている。
 どうやら手元にあるのはダイヤ型のペンダントのようだ。
 あれは教会にも飾られている信仰の対象である。

「なによ?」

 ノラの視線に気づいたリディアは、じろりとノラを見た。

「い、いえ……」

 ノラは慌てて顔をそむけた。
 それを見て、リディアはわざと大きく舌打ちした。

 気に入らない――。
 リディアもみなし子同然でこの街にやって来た。
 ジョコラータ邸で働く以前は、遠縁の鍛冶屋の下働きをしていた。
 下働きとはっても、鍛冶場では女のできる仕事はなかった。
 結局役立たずのごくつぶしとして罵られながら、肩身の狭い思いをして暮らしていた。
 屋敷で働くことになったきっかけは、ヘンリーとの出会いから始まりだった。
 リディアの親戚一家は信仰心が薄く、教会は鍛冶屋からほど近いところにあったのだが、家族で教会へ行くということはほとんどなかった。
 日曜日が来るたび、遠巻きに教会とそこに集まる人々を見るだけだった。
 ヘンリーはというと、そもそもは単身画家見習いとして街にやってきた人間だった。
 縁あってしばらくの間エルフェンスの元で修行をしていたのだが、才能がないとわかるや早々に画家の道をあきらめ、そのままエルフェンスの使用人の枠に納まった。
 あるときヘンリーは教会からの帰り道で、ふさぎ込むようにひとり佇む美少女を見初めた。
 自分の持っていたダイヤ型のペンダントとともに信仰による庇護を与えると、次第にヘンリーとリディアは互いの心の距離を縮めていくようになったのだった。
 そして、ヘンリーが使用人頭になると、彼はリディアが屋敷に雇ってもらえるように図らったのだった。
 
 あるとき、ノラへの仕打ちを見かねたヘンリーが諌めた。

「リディア、どうしてあの子につらく当たるんだい?」
「あの子は嫌い! 嫌いよ!」

 激しい感情だった。
 リディアが心を開いてありのままに感情をぶつけられる相手は、ヘンリーだけだった。

「どうして?」
「あの子は、あたしとおんなじ境遇なのよ! 親のいないみなし子だわ。あたしの父は飲んだくれのだめな男で、大した稼ぎもなければあたしになにひとつだって親らしいことはしてくれなかった。そんな父に母はなにもいえずにひたすら耐えていたけど、父が事故に遭って死ぬと、その一週間後に知らない男と出て行ったわ。あたしに少しのお金と、親戚を訪ねろという伝言を残して。
 ろくでもない親よ! あたしはあの人たちのことを親だなんて思ってない。親なんて、子どもの役に立たなきゃ親じゃないわよ。そうでしょう? あの子だってそう。親をなくして、当てもなく、たったひとりで街に来て、苦労してるわ!」
「だったら、どうしてもっと優しくしてやれないんだい。あの子の大変さは君にもわかるだろう?」
「同じじゃないわ!」

 リディアは、キッと睨んだ。

 「だったらどうしてあの子は幸せそうなの? どうしてこんなに苦労しているのに笑ってられるの? わからないわ! だって、全部親のせいじゃない! あの子だって親を失わなければどっかの田舎で幸せに暮らしてたでしょうに。あたしだって、あんな親じゃなかったら、きっと幸せだったわ!」
「リディア、君は今幸せじゃないの?」
「幸せよ、あの子がいること以外はね! あたしはあなたに出会えたおかげで、こうして仕事と住む場所があるわ。いずれはあなたと結婚する。あたしは幸せよ! いつかどこかで父と母が聞いたら、うらやむような愛のある家庭を作るのよ。あたしは、もしも父や母に会う機会があったらいってやるのよ。いってやるわ!
 どう? あんたたちにはできなかった温かな家庭を、あたしは持ったわ。あんたたちみたいに、子どもを不幸にしたりしない。悲しませたりしない。あんたたちのようにはならないわ、ってね!」

 どうしても、親が許せない。
 見捨てられ虐げられ、肩身の狭い心細くみじめな境遇へ追いやった親という存在が、リディアは心底許せないのだ。
 それなのに、同じみなし子だというのに、ノラはどうしてああも素直で明るいのか。
 リディアにはそれが気に食わなかった。
 幸せだといいながら、ちっとも幸せを実感できずにいるリディア。
 いじめられているにもかかわらず、嘆きもせず怒りもせず、けなげで明るいノラ。
 本当に幸せなのはどちらなのだろう。
 リディアにはわからなくなってくる。
 ヘンリーは黙って静かに、美貌の恋人を抱き寄せた。

「わかった。リディア。もうわかったから」

 問題なのはノラではなかった。
 リディアの中に住む親という存在なのだ。
 
 その晩、リディアはノラが寝支度を整えているのを横目に考えていた。
 あの子だって、親を恨んでいるに違いないのに。
 それとも、まさかあの子の中には恨みの気持ちはないのかしら? 
 そんなこと、信じられない……。

 一方のノラは、すっかり寝間着に着替えると首から下げたペンダントを確かめた。
 リディアは目ざとく、みなし子が持つにはとうていふさわしからぬ高価なそれに目を付けた。

「それ、なに?」
「これは、死んだお母さんが残してくれたものです。中にお母さんの絵が入っているんです」

 予想していたとはいえ、かちんとくる。
 リディアには親から残されたものなどなにもない。
 後生大事に親の形見を身につけて、いちいち勘に障るったらない。
 みなし子なら、さっさと売ってパンに変えるべきだ。
 リディアならそうする。
 母親の絵など、なんの役にも立つはずがない。

「へえ、そう、見せて?」

 リディアはぱっと手を差し出した。
 その高圧的な態度に、ノラはためらいを覚えずにはいられなかった。
 その傍らでは母の記憶がよぎる。
 ――欲しければまず与えなさい。
 それは目に見える物質的なものばかりではない。
 心もそう。
 相手の信頼を得たいのなら、まず自分が信頼すること。
 愛情や友情を得たいのなら、まずは自分が示すこと。
 ノラは首から鎖を外すと、リディアに渡した。

 「へえ、あんたのお母さんって、美人なのね」 

 リディアはベッドから出ると、立ち上がってそれを窓辺の月明かりに照らした。
 リディアの言葉にノラは素直にうれしくなった。
 母のことを褒められるととかくうれしい。
 ――ノラのお母さんって、レース編みがうまいのね。
 ――ディアナさんのお薬のおかげで、病気が治ったよ。
 ――ノラのお母さん、やさしくて美人でいいわね。
 ――それに頭もよくて……。 

「窓を開けた方がもっと良く見えるかも」

 リディアが窓を開けた。
 次の瞬間、リディアは外に向かってペンダントを投げ捨てた。

「あーら、ごめんなさい。手が滑ったわ」

 しゃあしゃあといってのけて、リディアは雑に窓を閉めた。
 ノラは声も出せず驚き、動揺した。
 リディアに悲しみの視線を投げたが、リディアは冷たく顎を上げて見せるだけだった。
 ノラは羽織も取らずに、部屋を飛び出していった。
 ノラが出て行った後、リディアはそっと袖からペンダントを取り出した。
 投げ捨てるふりだけして、実はこっそり袖の中へ隠したのだ。

「ふん、必死に探せばいいわ。いい気味!」

 リディアはペンダントを見つめた。
 おそらくは銀製だ。
 随分と厚みがあり重さもある。

 売ったらかなりの値段になるだろう。
 中を開くと、清楚でまっすぐな、まるでノラと同じ目をした女性がいた。
 苛立ちまぎれに、リディアは美しい婦人の顔に指をぎゅっと押しあてた。
 そのとき、カチリとペンダントが小さな音を立てた。
 見ると、ペンダントは二重開き細工になっており、婦人の奥には若い男が描かれていた。
 ノラの父親だろうか? 
 さっきノラは父のことについてはなにもいっていなかったが……。

「ふん。まあどうでもいいわ。売ってヘンリーに新しいジャケットでも作ってあげましょ」

 意地悪く笑った。
 ペンダントを枕の下に隠して毛布にもぐると、ノラの帰りを待つことなくランプの火を消した。
 一方のノラは、寝間着姿のまま月夜の庭を探し歩いた。
 探し物がリディアの枕の下にあるなどとは露とも思わず、必死に探し続けた。
 泣きそうになるのを堪えながら、母の口伝を胸の中で繰り返した。
 どれだけ探しても、ノラにペンダントを見つけることはできなかった。

      ***
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