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【シリーズ1】ノラ・ジョイの無限の泉 ~みなしごノラの母の教えと盗賊のおかしらイサイアスの知られざる正体~
#2 はじめての街(1)
しおりを挟む断りを入れるまでもないが、ノラは生粋のいも娘。
血統書をつけてもいいくらいの、まさに根っからの田舎者だった。
生まれてこの方、街とか都というものを見たことがない。
母のおかげで、読み書きはできる。
だから道しるべの看板が示す通りに、迷わず町につくことができた。
街の人々の暮らしというのは、村と大きく違いがあるということを聞いてはいたのだが……。
百聞は一見にしかず。
現実の迫力を前に、ノラはひとり立ちすくんでいた。
縦横無尽に走り抜ける馬車。
村で見るような使い古した荷馬車などではない。
立派な幌のついた大型馬車や、宝石箱のようなぴかぴかの箱馬車。
まるで人形のような美しいドレスを着たレディを乗せた、天蓋付きの軽馬車。
遠目に見たときは街の広さに驚いたが、近くで見るとその街並みもすごい。
粗末な木造以外の家をノラが見たのはこれが初めてだった。
赤や黄色のレンガの建物。
複数階建ての青や灰色の石造の立派な外壁。
アーチや、植物を模した装飾のついた門扉。
ノラはため息をつきながら考える。
この家に住む人たちは、一体どんな人たちなんだろう……。
街では誰も彼もが足早で、左右前後どこを見ても、人、人、人。
彼らはなんの秩序やルールもなく、ひたすら思い思いにしゃべったり、客引きをしたりしている。
あるいは不機嫌そうに下を向き、あるいはなにかいいたげにどこかしらを睨みつけている。
騒々しい音、音の嵐。
街の人は、しゃべるのもとても速いらしい。
ノラは始め、客引きがなにをいっているのか聞き取れなかった。
単なる騒音か、まるで家畜の鳴き声ではないかとさえ思われた。
世間知らずの少女は、一瞬あらぬ不安にも襲われた。
びっくりした、言葉の通じない国に来てしまったのかと思ったわ……。
石畳が敷かれた貴族たちが住んでいると思わしき大通りに来ると、足元はひんやりとして、靴音はカツカツと騒がしい。
ノラには貴族と裕福な商人との見分けがつかないが、とにかく今まで見たこともないくらい艶やかな、光沢のある緻密な衣装を着ていた。
以前村で一度だけ遊歴の軽芸師が見たことがある。
そのときの衣装を彷彿とさせたが、比べ物にならないくらい多彩で豪華なものに見えた。
ひどいのは臭いだ。
里山の自然の中でのどかに暮らしてきたノラにとって、それは毒にも等しいくらいだ。
通りにもよるが、いろいろに入り混じってなんの臭いかはっきりないが、とにかく悪臭がひどい。
市場の真ん中で平気で家畜をさばいていたり、吐き気を催しそうな激しい匂い排水が垂れ流されていたり、生の魚が並んでいたり、そうかと思うとそれらのすぐそばに洗濯ものが干されていたりする。
じっと目を凝らしていると、それだけで涙が出て来る。
ここで深呼吸した日には、一瞬にして胸が毒に侵されて、そのままぽっくり逝ってしまうのではないだろうか。
一方では、しごくもまともな匂いもあって、食堂の脇を通ると煮込み料理や焼いた肉の匂い、パン屋のそばでは香ばしい匂いに誘われて、ノラのお腹は激しくうずいた。
もちろんそれだけでなく、市場には家具、日用品、生地、陶器、鋳物、薬や化粧品などなんでもあった。
見たこともない物品の量。多彩な品ぞろえ。
これだけたくさんの人がいるのだから、これだけ大きな市場があり、品物が行きかうのは当然なのだろう。
お金のないノラには手も足も届かないものばかりだったが、初めて見る街の様子にノラは当惑しながらも、やはりわくわくさせられた。
「すごいわ、これが街なのね……」
ノラは手近にいる通行人に声を掛けようとした。
異文化の中に飛び込んだノラの行動は、街の民からすれば、いかにも世の中を知らない田舎娘の極みだったのだろう。
「あの、すみません……」
素通りしていく人。人。人。……
「あの、ちょっとお聞きしたいのですが……」
ちらりと目線を向けて、すぐに無視を決め込む人。人。人。……
「あ、あの……」
外路地には曇った目をした子どもたちが、ホルン村の民よりも粗末なぼろをまとってうろついていた。
ノラよりも年下の小さな子もいる。
「……あの……」
浮浪児にも相手にされず、背を向けられた。
ふと脇を見ると、あばら骨の浮いた野良犬がいたが、なにも与えてくれそうにないノラにはその犬ですら寄ってこようともしなかった。
驚きとともに、ノラは焦りを感じていた。
(ど、どうしてみんな、わたしを無視するの……?)
ホルン村ではこんなことは一度もなかった。
あのいじわるなフィーナでさえ、ふんといってから無視するのだ。
無視してやるをいう意思表示がある分だけ、こちらにも受け止める余地がある。
だが街の人たちの反応は冷たく、まるでノラがいること自体を否定するかのようだった。
意を決してノラは大声を上げた。
「あのっ! 誰か話を聞いてくださいっ!」
その瞬間、ノラに注がれたのは。……
なんという色のない目。感情がひとかけらもない。
――なんだ、あれ。
――浮浪児がまた増えたんだろう。
――なににせよ、俺には――。
――私には。
ーー関係ない。
その冷ややかな視線でさえ、ごく短い時間しか興味を示さなかった。
一瞬ののちには、なにごともなかったかのように人々は己のすべき事柄に戻っていった。
雑踏、音の嵐。
淀んだ空気、ひどい臭い。
こんなにたくさん人がいるのに、ノラはひとりだった。
(な、なぜ……?)
背筋がぞっとした。
本当にひとり……。
誰も知らない街で本当にひとりきりなのだ。
誰からも相手にもされない。
己の存在が認知されないという不安。
少女の小さな胸は、味わったことのない孤独に打ちのめされていた。
孤立という恐怖。
街という未知への不安と恐れが、幼いながらも強い気持ちで一心に奮い立たせてきたを意思を急速に冷たく凍えさせた。
(いや……!)
とてもその場に立ってはいられなかった。
絡みつくような恐怖を振りほどいて街を飛び出たノラは、来た道を駆け戻っていた。
知らないうちに涙が零れんばかりにたまっていた。
「う……ひっく……ひくっ……」
街を背に、今はもうはるか遠い故郷へと続く道の真ん中で立ち止まった。
思い起こされるのは、草木の香るの草原に、波打つ麦畑。
澄んだ空気に、渡る風。遠くで鳴く山羊の声と鍬の音。
優しいけれど気の弱いスター、懐の深いマリエルおばさん、貧しいけれどもお互いがお互いを気遣い支え合って暮らすホルンの村人。
毎日のようにじゃれあい、笑いあった友だち。
年上も下も関係なかった。
いじわるフィーナの思い出さえ、今のノラには優しいものに思える。
「お、お母さぁん……」
情けない声をこぼしていた。
母ディアナは、役に立つときが来るだろうから、と知っていることはなんでもノラに教えてくれた。
小さな粗末な家の中で、森の中で、草原の中で、小川のほとりで。
ディアナはいつでも、温かく優しい保護と、あらゆる知恵を授けてくれた。
ノラにとって唯一無二の存在で、救いであり、光であり、最高の存在だった。
帰りたい……。
だが、帰ったところでどうなるものでもなかった。
もはや帰る場所などないのだ。
のろのろと道を外れ、川に降りて、ノラは顔を洗った。
この川の水は故郷に続いている。
春の冷たい水の中に、ふるさとの景色を探す。
もしも今魚になれたなら、きっと川を登って村に帰るに違いなかった。
鳥でもいい。きっとこの空を渡って村に帰るに違いない。
それに魚や鳥なら、着るものにも住むところにも食べるものにも困りはしない。
ノラはかすかなため息をつく。
そんな空想で気が晴れるはずもない。
しかたなく、マントを外してこの旅で汚れた前掛けエプロンを洗うことにした。
川辺に転がっていた棒きれを拾い、平たい石に打ち付けて洗う。
ムラサキアワ草が咲いていたのを見つけ、花びらをむしって細かくすりつぶした。
ムラサキアワ草は、別名セッケン草ともいい、花の汁に発泡性があって洗濯に使うと汚れがよく落ちる。
しかも、花の淡い香りもつくので、一石二鳥なのだ。
エプロンを洗い終わっても、ノラはまだ町に行く気にはなれなかった。
マントを羽織って、こっそりワンピースや下着を脱ぐと、それらもせっせと洗った。
ワンピースはこの二か月一度も洗っていなかったため、ごっそりと汚れた水が出た。
ワンピースと下着とエプロンを川辺に広げると、乾くのを待ちながら膝を抱えた。
「どうしよう……」
光る川面を見つめながら途方に暮れる。
食べ物はもうない。
今太陽は東から南へ刻々と登りつつある。
その太陽もいずれ西へ向かって沈んでいくだろう。
朝晩は冷えるとはいえ、春。
野宿でやり過ごせないこともない。
だが、いつまでもそんな生活ができるわけがない。
脳裏に町の陰間をうろつく浮浪児の姿がよみがえった。
ノラは今、あの子ども達と同じ未来をたどろうとしているのだ。
このままなにもしなければ、それは避けようのない道だ。
同じ国に暮らす人の集まりだというのに、どうしてこうも世界が違うのだろう。
頼れる人もおらず、先行きも見えず、どうすればいいのかさっぱりわからない。
ひたすら切なく、尽きない悩みを抱えながら、川辺に佇んでいた。
いつの間にか洗濯物が乾いていた。
それでも足は町へと向かない。
代わりに今度はエプロンのほころびを縫うことにした。
鞄から針と糸を取り出す。
針仕事をしていると、母の面影が思い出される。
「いい? ノラ、縫物は丁寧にゆっくりやれば誰でもうまくできるのよ。慣れたら勝手に速くなっていくわ」
ディアナは、裁縫が大層得意だった。
昔、貴族の屋敷に仕えていたことがあって、針仕事を任されていたのだという。
おかげでノラも洋裁はお手の物だった。
「お母さん、どうしてお屋敷の仕事を辞めてしまったの?」
母にそう尋ねたとき、ノラは母の手仕事を真似ながらレース編みを習っていた。
母のレースは、村の若い娘のために編んでいるものだった。
糸目を確かめながら、ディアナは娘に静かに語りかけた。
「そこにいるべきでないと思ったからよ。そこにいても、誰かの人のお役に立てそうにないと思ったの」
幼いノラには意図がわからず、きょとんとした。
「人のためになりなさい、ノラ。そうすれば、おのずと道はひらけますよ」
「人のため?」
「そうよ。お母さんは、この村に来てはじめはうまくなじめなかったの。だけど、村の人のために薬草を取って薬を作ったり、こうしてレースを編んだり、刺繍をしたり、繕い物をした。人のためにできることはなんでもしたわ。その結果、今はどう?」
母に向かって、娘はにこりと笑った。
「お母さんは、この村のお医者さんだわ! それに、結婚式のベールを村中の人から頼まれてる!」
「そうよ。人のためにできることを行えば、必ず居場所は見つかるものよ」
はっとして、ノラは顔を上げた。
「人のため……人のためにわたしができること……」
ひらめきが星のように振ってきた。
前へ進み出すきっかけをつかんで、沈んでいたノラの気分はようやく立ち上がり始めた。
太陽は真南をそれて、目算で時刻は午後三時。
うまくすれば、今日の夕食代くらいは稼げるかもしれない。
***
マントをたたんで鞄の中へしまい身支度を改めると、真っ白になったエプロンに、これ以上持ちきれないというほどの野花を包んだ。
まず始めに向かったのは、露店の化粧屋だ。
「なにい? セッケン草だって? これを使えば服がきれいに洗えるって? 馬鹿なことを言うんじゃないよ。こんなの売り出したら、うちの石鹸がひとつも売れなくなるじゃないか。帰んな、帰んな!」
もう一件あった化粧屋にも行ってみたが、同じことを言われて追い返されてしまった。
初っ端から目算が狂ってしまった。
「この街の人たちはセッケン草を使わないのかしら……」
しょんぼりとノラはつぶやいた。
しかし、ここで足を止めてはいられない。
キイロメブキ草とモモツメ草も摘んできていたので、今度は占いの店に行ってみた。
占い師はハーブを使うと母から聞いたことがあったからだ。
「おやあ? キイロメブキ草とモモツメ草を買ってくれっだってぇ? お前、この花の効用を知っていってるのかい?」
鼻の曲がったまさに魔女のような老婆がノラの顔をじいっと見つめてきた。
「キイロメブキ草は二日酔いに効きます。モモツメ草は煎じて飲めば喉の痛みに効きます」
母から教わった薬草の知識を披露すると、老婆は眉を上げた。
「ほぉう、お前、なかなか賢い子だねぇ。だが、どちらの草も充分あるからうちには必要ないよ。それに、乾燥させてないと保存が利かないからねぇ。悪いけど、それは買い取れそうにないよ」
再びしょぼんと肩を落とした。
途方に暮れかけたノラだったが、老婆がささやかな助言を与えて励ましてくれた。
「その花は、広場で売ったらいい。お前はなかないい相が出でとるよ」
占い師にお礼をいうと、ノラは広場に向かった。
半信半疑ながらも、他に有効な手があるわけでもない。
とにかくやってみよう。
広場にやってくると、市場で売り場をもらえないような小さな露店商や、車輪まわしをして遊ぶ子供たち、お使いに来ている使用人らしき人々や午後の日向で休憩する人々などでたむろしている。
その中には、ノラのように花を抱えて立っているみすぼらしい格好の少女もいた。
「あの子も、わたしとおんなじだわ」
同じ境遇の少女に親しみを感じたノラが近寄ろうとすると、花売りの少女はじろりとノラを睨みつけてきた。
商売敵に安穏と良い顔はできないからだった。
むき出しの敵意にびっくりしたノラだったが、それとなく意図を察することができた。
むやみに関わらずに、彼女と離れた広場の端に立った。
するとどうだろうか……。
野花の需要はそう多いものではないはずで、買うほうも施し同然の客ばかりのようだ。
だが、新顔への物珍しさなのかなんなのか、客はノラの方にばかり集まるではないか。
「あんた、この町に来たばかりかい? それにしては、身ぎれいな子だね。これいくらだい?」
「はい。あの、……ええと、一〇ロニーです」
「やけに安いねぇ、あんた。これじゃあいくら売っても、今日のパン代にもなりゃしないだろうに」
「え……、そうなんですか?」
元はだだの川辺の野花。
いくらをつければいいのかノラにはわからなかった。
そのうえ街の物価についてもまだいまいちよくわかっていないのだった。
「それにいっぺんにこんなにたくさん売ってちゃ、いくら花摘みしてもおっつかないだろう?」
「でも……、セッケン草はだいたい左右の手の中指と親指で作る輪ひとつ分が、洗濯するのにちょうどいい量なので……」
「セッケン草? なんだいそりゃ。この花はムラサキアワ草だろ?」
「わたしの村ではこの花びらを洗濯に使うんです。花の汁が泡になって、汚れがよく落ちるんです」
「へえぇっ! そりゃあ知らなかったよ。こりゃあ石鹸を買うより安いじゃないか。じゃあもうひと束いただくよ」
「あ……、ありがとうございます!」
女はセッケン草二束を受取ると、二〇ロニーをノラの手に握らせた。
「それから、ちょっと忠告しとくけどね、この町の一番安いパンは、デュランデル通りのパン屋で、一個二三〇ロニーだよ。あんた、もうちっと値上げしてもいいかもね」
それは、いいことを聞いた!
助言に従って、ひと束四〇ロニーで売ることにした。六束売って、パン一つが買える計算だ。
これなら手元にある花を全部売り切れば、五つのパンが買えそうだ。
見通しが立ったことで、ようやく気分が明るくなってきた。
呼びかけの声にも張りが出て来るというものだ。
「お花はいりませんか? セッケン草に、キイロメブキ草、モモツメ草。キイロメブキ草は二日酔いに利きます。モモツメ草は煎じて飲めばのどの痛みに効きます」
呼びかけが功を奏し、ノラの花は次々と売れた。
縄張りの客を持って行かれた少女が黙っているわけがなかった。
「ちょっと、あんた!」
ノラよりも一つか二つ歳上の少女が、狐の如く目を吊り上げた。
「そんなにたくさんの花をそんなに安く売ったら、あたしの花が売れなくなるでしょ! だいたい勝手にあたしの売り場に乗り込んできてなんなのよ! しかもそんなにきれいな服着てさ! あんたほんとにみなし子なわけ?」
「あ、あの……」
「さっきなじみのお客さんから聞いたわよ! ひと束四〇ロニーなんて安すぎる! この町の花売りはみんな、ひと束一〇〇ロニーって決めているの! それから花はひと束五本までよ! いい? ここで商売したいなら、ちゃんと決まりを守ってちょうだい!」
「ごめんなさい……。わたし、知らなくて……」
「まったく、これだから田舎者は困るわっ!」
子どもの花売りにさえ協定があったとは、ノラにとっては新たなる驚きだった。
しかし、いわれてみれば、なるほどだ。
彼女たちは仲間内で決めた決まりの下、市場を分け合い、価格を管理して商売を成り立たせていたのだろう。
小さくても、立派な共存の仕組みなのだ。
だが、困ったことになった。
キイロメブキ草やモモツメ草は数本で効き目が十分にあるから差し支えないが、セッケン草は一度の洗濯に、おおよそ二〇本以上は必要だ。
これでは洗濯一回分に四〇〇ロニー以上もかかってしまう。
これまでの客の口ぶりから察するに、これでは到底売れると思えなかった。
案の定、夕暮れ迫るころには先輩の花売り少女は手元の花をすべて売り切ったが、ノラのエプロンには花束が残ってしまった。
花売り組合と同じ条件になったはいいが、それゆえに当然薄利多売のうまみも薄くなってしまったのだ。
それでもノラのポケットには今、七二〇ロニーがある。
パンが三つ買える金額だ。
ぐううう、とお腹の虫があまりにも切なく鳴くので、ノラはここで店じまいすることにした。
「おいお前、新入りだな」
ノラの前に立ちはだかったのは、浮浪児の少年たちだった。
背の高い低いをあわせて七名。
真ん中のリーダー格の少年がいった。
「俺はこの町の浮浪児たちの元締めだ。今日の取り分を出しな」
「取り分?」
「今日の売り上げの三割を渡せっていってるんだよ! 俺たちはお前らがここで商売するのを見逃してやってるんだ。その見返りに取り分をよこせってことだ」
「え、そんな……!」
ノラがエプロンのすそをつまんだまま両手がふさがっていることをいいことに、手下の少年がノラのポケットから小銭奪い取った。
「あっ!」
「この町に住むための入居料も頂いて行くぜ!」
少年たちは、あっという間にノラの前から姿を消してしまった。
ポケットを検めると、たったの十六ロニーしか残っていなかった。
「う……うそ……」
ショックと空腹とで泣きそうになった。
人影もまばらになり夜闇が刻々と迫ってくる。
町の家々には、ぽつぽつと窓明かりが灯り始めている。
じわっとにじんでくる涙を袖で拭いた。
ここで泣いていても仕方がない。
こうなってしまった以上、手元に花が残っていたのが幸いだ。
せめて、パン一つ買えるまで花を売ろう。
そうと決めたノラは、あたりを見渡して考えた。
「人のためになりなさい……。人のために……」
今から洗濯をしようという人はいないだろう。
一戸一戸、のどが痛くはないですかと訪ねるのも難しい。ならば。
ノラは煌々と灯りのついた一軒の酒屋のドアを開けた。
「いらっしゃい!」
威勢のいい声の店主は、入口に立っている少女を見つけて顔をしかめた。
「あの……すみません……」
「なんだい、お前さん。物乞いは困るよ。こちとら今からが稼ぎ時なんだ」
店主の男は追い払うようにしぐさした。
「物乞いじゃありません。二日酔いに効くお花はいりませんか?」
店主はノラの少し染まった目と、エプロンの中の花を見ると、事情を察したらしく哀れに思って無言で店内を顎で指した。
客の間を回ってよい、という意味のようだ。
「ありがとうございます」
ノラはお礼をいって、店のテーブルを回った。
「二日酔いに効くキイロメブキ草はいりませんか? ひとつ、一〇〇ロニーです」
物珍しげに見ていた客たちだったが、ノラのけなげな姿に動かされ、初老の男が声をかけた。
「嬢ちゃん、キイロメブキ草が二日酔いに効くって?」
「はい。この花を一口噛んで飲み込めば、大抵のお酒は次の日に残りません」
その席の男たちが笑い声をあげる。
「そりゃ本当かね。聞いたことないぜ」
「本当です。わたしの村ではみんなお酒を飲む前に必ずこの草を噛みます」
「そういうんなら、一本買ってやろうじゃねえか」
初老の男はノラに一〇〇ロニーを手渡した。
「あ、ありがとうございます!」
「ところで嬢ちゃん、見ねえ顔だがこの町は初めてか?」
「はい、今日着いたばかりです」
「その様子じゃ、まだなにも食べてねえだろう?」
ノラはもらったばかりのロニーを握りしめて笑った。
「でも、あと一一四ロニーでパンがひとつ買えます」
「あっはっはっ! 残念だがパン屋はこんな遅くまでやってねぇよ! 誰より早く起きて誰より早く寝るのがパン屋ってもんだ!」
「そ、そうなんですか……」
そんなこと思いも寄らなかった。
花がしおれるかのように、しゅんと少女の肩を落ちた。
これで夕食抜きは決定だ。
「そういや、嬢ちゃん、今日広場に立って花売りしてたな。けっこう繁盛してる様子だったが」
「町の子どもたちの元締めに、今日の取り分と入居料を取られてしまったんです……」
店内の男たちが、おのおのの顔に同情を浮かべた。
「あいつらも生きるのに必死だからなぁ……」
「ガキはなんでも大人の真似ごとしやがる。今日も明日も働きゃあ搾り取られる。俺たちも搾り取られるために働いてるようなもんよ」
「そうなんですか?」
驚いたようにノラが顔を上げた。
男たちはため息交じりに渋い顔で頭を振り、口々にいった。
「まったくだぜ。俺も田舎から出稼ぎに来たんだけどよ、確かにちったあ稼ぎは良くなったけども、その分税金で吸い取られちまう。これじゃあ田舎にいたときの方がまだよかったってもんだぜ」
「国が荒れてるとき、しわ寄せを食うのはいつだって俺たちだ。麦を作ったって、下働きしたって、ちっとも豊かになりゃしねぇ。この街の奴ら全員生きるのに必死だよ」
「みんな自分のことで精一杯さ。他人のことなんかかまやしねぇ。それでみんな孤独のうちに死んでいくのさ。働くだけ働いて、搾り取られるだけ搾られて、残るものはなにもありゃしねぇ。ひとり身ひとつで、死ぬまでひとり、死んでもひとりよ……」
男たちの嘆きの言葉に、店全体はまるで水を打ったように静まり返った。
ノラはまるでさっきまでの自分を見ているような気がした。
自分がこの街で感じた孤独ややるせなさを、彼らもまた同じように感じているのだ。
認められないさみしさや不安。
努力によって得たものを奪われるせつなさ。
ノラの脳裏に、母親の言葉が蘇った。
「つらいときほど、相手を思いやりなさい」
母ディアナはフィーナから理不尽にいじめられるノラに、ことあるごとにそう言い聞かせた。
「これからの人生で、どんなにつらく悲しいことが起こっても、相手を思いやる心を忘れてはだめよ。あなたにつらい仕打ちや、にくしみをぶつけて来る人がいたとすれば、その人はそうしなければいられないほど苦しかったのだから」
幼いノラは首を左右に振った。
「でも、フィーナはわたしから、お人形を取り上げたのよ。フィーナも自分のを持ってるのに……」
「あなたよりも、フィーナの方がそれを必要としていたのでしょう。そうしなければいられなかったのよ」
「でも……、でも……」
幼い日のノラは泣きながら訴えた。
小さな少女には到底納得できる説明ではなかった。
それでも、ディアナはノラの涙を丁寧に拭いて、優しい言葉で語りかけた。
「あなたの心の中には、無限の泉があるわ。つらいときでも悲しいときでも、泉の水は果てしなく湧き出ているのだから、周りに与えてやりなさい。そうしていると、いずれ自分が癒されていることに気がつくでしょう」
その思い出に突き動かされるかのように、ノラは手元に残っていた花束を解いて、客一人ひとりに手渡していった。
「元気を出して」
「ひとりじゃないわ。元気を出してね」
「はい、どうぞ」
心を込めて一輪ずつ丁寧に花を手渡していった。
初老の男は驚いたようにノラを見つめた。
「いいのかい、嬢ちゃん。この花はお前さんの売り物だろう」
「いいんです。この花は二日酔いにも、こっちの花は洗濯するときにも役に立つけれど、今は心を慰めるのに役に立ちそうですから。それにパン屋さんは明日にならないと開かないみたいだし」
少女が肩をすくめて笑って見せると、店の空気が和んだ。
テーブルのひとりひとりの手元に咲いた花が、沈んでいた空気を一掃したようだった。
花を配り終えたノラが店を出ようとすると、店主が紙袋を差し出した。
店主は初老の男を指して、彼からだといった。
袋の中には、パンとソーダが入っていた。
「また売れ残ったときには訪ねておいで」
思いもしなかった優しさに目をまん丸くしたノラは、少し泣きそうになりながらも、とびきりの笑顔でお礼をいった。
***
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