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#3 漂流者たち(1)

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 次の日の朝、右舷の浜辺を三人は西の入り江に向かって歩いていた。

「大丈夫ですか、旦那様」
「うう……、しゃ、灼熱地獄だ。くそう……」

 マイナードは真夏にフード付きのコートに遮光マントをはおってすでに息を切らせている。
 すでに黒く染まった偏光サングラスをふたつ重ね掛けて、黒革の手袋とつばの広いキャプリング、口元にはUV加工のスカーフを何重にも巻いている。
 青天の澄み渡るさわやかな風の吹く浜辺で、マイナードはひとりだけすっかりわけのわからないいでたちをしている。
 形容するとしたら、大きな黒いミノムシだろうか。
 とにかくここが孤島でなければ即刻不審者として通報されているだろう。

「マイナード! あれなあに?」

 かなり先でルーナが入り江を指さしている。

「ルーナ、そんなに先に行くでない。エンゲルバード、早く傘を持たんか!」
「ハイ、旦那様」

 大型パラソルを差すエンゲルバードを急がせて、二人はルーナの後を追った。

「ねえ、マイナード、あそこにあるの、なあに?」

 マイナードは大して興味もなさげ入り江をちらりと見た。

「嵐で打ち上げられたんだろう。流木か死んだ魚だ」
「いえ、少なくとも死んではいないようです」
「なに?」

 入り江を見つめると小さな影がひょろひょろと起き上がった。
 その影は三人に気づくと、おおいと叫んで手を振った。

「漂流者か……、面倒なことになったな」
「ひょうりゅうしゃ」

 ルーナはオウム返しをしてこちらへ向かってくる人影を見つめた。

「流れてきた人間だ。彼らに私が吸血人とばれたら困るのだ」

 そういいながらマイナードは漂流者に向かって背を向けた。
 ルーナは、はっと顔色を改めた。
 マイナードの言わんとしたことはこうだ。
 はるか昔、吸血人には人間から受けたと言う迫害、弾圧、そして虐殺の歴史があった。
 吸血人一族は長年抵抗を試みてきたが、結局散り散りになった。
 今となっては正体を隠して人間社会のなかで暮らすか、あるいはマイナードのように人から遠ざかって暮らしている。
 だがそれも、マイナードの知る限りその数は片手を数えるほどだ。
 そうした吸血人の非業の歴史はマイナードの口からルーナに極めて偏った歴史として伝えられた。
 それは、ほぼ九~十の割合で吸血人の利権と立場から見たものだった。
 だが、外界から閉ざされたルーナにそれを疑うきっかけは万に一つもない。
 ルーナはマイナードがかつて語った通りに、自分以外の人間にはマイナードの正体を悟られてはいけないのだと思い出した。
 そして、ルーナはしっかと口を閉じた。
 その顔はマイナードが怪しまれるようなことを言わないようにと、真剣な表情だ。
 ちなみに、マイナードが自分のことを吸血人と言うのは、マイナードは鬼と言うほど自分を非道だと思っていないからだった。

「おおい、この島の人ですか! よかった、助かった!」

 漂流の男は、ふらふらとおぼつかない足取りで枯れた声を上げた。

「妻と息子がいるんです。まだ目を覚ましませんが……。どこか休めるところを……、あ、あと、水を分けてくれませんか?」

 男は生死の瀬戸際から舞い戻って来た興奮でいくらか洞察力に欠けていたのだろう。
 彼は三人の前に立つとようやく「あっ」と声を上げた。
 大男と言うにはでかすぎる継ぎはぎの男。
 全身真っ黒な衣服に身を包んだミノムシのような男。
 そしてあどけない小さな女の子。
 男は判断しかねた。
 彼は常識的な思考力を持った男だったが、この三人に対しては何者なのか皆目見当が付かなかった。
 離れ小島で行われる仮装パーティかなにかだろうか。
 それともやっぱりここは天国だろうか。
 異様な二人の男は見るからに天使というよりは死神に近いように見える。
 これは頼っていい人間なのだろうか。
 男の中で大きな迷いが生じたが、かといってこんな小さな島で他にどれほどの人が住んでいるものか知れている。
 唯一男を安心させたのは、白い襟の付いたワンピースを着た少女がいたことだ。
 こどもと一緒なら悪い人ではないだろうと言う希望的観測によるが、最悪ここがあの世であっても三人の中では彼女が一番天使らしい。
 マイナードはじろじろと無遠慮な視線を向ける男を肩越しに見ていたが、ぷいと顔をそむけた。

「エンゲルバード、その男性と家族を屋敷まで案内しろ。帰るぞ、ルーナ」
「ハイ、旦那様」
「もうかえるの?」

 ルーナは小さく非難の声を上げた。
 マイナードはルーナの後ろ髪に触れて、あやすような声音を使った。

「とにかく今日はだめだ。屋敷のそばなら外で遊んでもいいから」
「うん……」

 ルーナの手を握ってマイナードは屋敷への道を戻った。
 エンゲルバードは直径三メートルはあろうかと言うパラソルをたたんで、男の妻子を抱きかかえた。

「どうぞこちらです」
「あ、ありがとうございます……」

 エンゲルバードの驚くべき怪力を前に信じられない気持ちながら、男はからからの喉から声を振り絞った。

「こ、ここは……一体……」
「ここは、九尾仮島です」
「くびかり……島……。するとあの嵐で二〇〇キロ近く流されてしまったのか……」
「どちらにおいでに?」
「宮古島です。ちょっと沖へ出て石垣島へ行こうと思ったら急に天候が悪くなって」
「昨日の嵐はひどかったですから。よくぞご無事に流れ着かれました」
「ま、まったくです……」

 男は不気味な仮装大男がどうやら良識のある人間らしいことにほっとした。
 それと同時に本当に命を落としていたかも知れない昨晩の悪夢に改めてぞっとした。

 大股の怪男の後を追って辿り着いたのは、見事な洋館だった。

「どうぞ」

 館の扉を押し開けて、エンゲルバードは漂流者の男を促した。
 男が一歩足を踏み入れるとそこは恐ろしく古風な西洋式の造りになっていた。
 驚きを禁じえない。
 こんな屋敷が南西諸島の小島にあるなんて誰が想像できただろう。
 しかもどことなく不気味である。
 外はあれほど太陽がまぶしくてきらめいていた砂浜も、この屋敷に入ったとたん色から空気から質感までががらりと変わっている。
 カーテンと言うカーテンはぴっちり閉ざされて薄暗いというよりはさらに暗く、おまけに真夏とは思えないほどひんやりとしていた。

(外観から見てどうも石造りらしいし、だとしたら夏でもこれぐらい涼しいのかも知れない……)

 男は常識で考えられる範囲で自分を納得させた。
 しかしこの屋敷と言いこの使用人と言い、あの主人はいったい何者だろう?
 この島を所有しているのだろうか。
 だとしたらいつから? 
 古すぎるこの洋館はいつからここに建っていたというのだろう。
 次から次へと沸いてくる疑問に、男は持ち合わせの常識だけでは対応できそうになかった。

「この部屋をお使いください。今飲み物をお持ちしましょう」

 天蓋付きのキングサイズのベッドに、優美なシャンデリア。
 年代を感じさせる化粧台に、火の入っていない暖炉。
 この南国で使うことがあるのだろうか。疑問は増える一方だ。
 マントルピースの上には西洋の古美術品。壁には大きな鏡、主人らしき男の肖像画。
 ベッドサイドには植物の緻密な絵が描かれたランプシェード。
 しかしカーテンはやはりきっちりと閉ざされている。
 エンゲルバードは担いできた二人をベッドに寝かすとカーテンを開けた。
 すると、そこからは右舷の浜が広々と見渡せる。
 なんという豪華な眺めなのだろう。
 思わず男は目を見張った。
 男は東京で妻と共に開業医をしていた。
 それなりに自分たち家族は裕福だと言う自負があった。
 一等地の高級マンション、高級車、年に数回の家族旅行、趣味は船舶と乗馬。
 自慢のクルーザーはつい昨日の嵐と共にどこかへ消えてしまったのだが……。
 しかし桁が違う。やはりきっとこの屋敷の主人はこの島を所有しているのだ。
 屋敷から見渡す敷地に、屋敷以外の住居は他にない。
 屋敷は島全体を見渡すがごとく建てられている。
 そして、日本のような地震が多い国で石造りの建物はほとんど建てられない。
 建築基準法が制定されて以来このような洋館を建てることは不可能だ。
 つまりこれは明治とか大正とかそういう時代の遺物なのではなかろうか。
 男はあの黒ずくめの主人を思い返す。
 顔を隠していたためよくわからないがどちらかと言えば彼は姿も声も若く見えた。
 時代が時代なら彼は襲爵の若君と言う者ではなかろうか。

「旦那様は日光に弱いので、この部屋の他にはカーテンを開けられませんようにお願いします」
「は、はい……」

 エンゲルバードが部屋を出て行くと男は思わず、ふーっとため息をついた。
 息を吐くとあらゆる思いや記憶が交錯する。
 難破と漂流の危機からの脱却。
 南西諸島の離れ小島。
 奇妙な島の住人。
 嵐に失われた体力。
 家族が全員無事だということが何よりもの救いだが……。
 すうすうと寝息を立てる妻と息子の顔を見ながら男は猛烈な眠気に襲われた。
 あまりの疲労に男はベッドに倒れこむと、エンゲルバードが飲み物を運んでくる前に眠ってしまった。

 しばらくの時が過ぎ、目覚めたのは彼の息子だった。
 名前を昭太と言う。
 昭太は見知らぬ環境の中で目覚めたところで、昨晩の出来事から一転、どうやら自分たち家族は助かったらしいと言うことはすぐに理解できた。

(ああ、生きてた……、お父さんも、お母さんも助かったんだ!)

 安心したところで、激しいのどの渇きを覚えた。
 昭太は置かれていたピッチャーの水をむさぼるように飲んだ。

(甘い……!)

 真水がこれほどおいしいと感じるのは初めてだった。
 あわや飲み干しそうになるのを、父と母のために残しておこうと思い留まった。

「どこだろう、ここ……」

 死んだように眠りこける父と母を起こすのがかわいそうな気がして、そっとしておこうと思った。
 昭太は一二歳。大人とは言えないが、まったくのこどもでもない。
 窓から外を見てみると、そこは宮古島でも石垣島でもない見知らぬ浜辺が広がっていた。
 ふとその窓の下にこどもがいるのが見つけた。
 白い服を着た女の子だ。
 昭太はひとりで部屋を出てみることにした。
 身体は塩でべたべたしていたけれど、なにをどうしたら着替えられるのか勝手がわからなかった。
 そして、死ぬか生きるかの瀬戸際の後、昭太にはそれなりの度胸が芽生え、安心感はそのまま好奇心へと変わっていた。
 一晩嵐の海でもがき苦しむのに比べたら、見知らぬ家、あるいはそのとき昭太はホテルかしらと思ったが、そんな場所をうろうろすることなど大したことはないと思った。
 加えて、昭太は両親の教育のかいあって良識ある少年だった。
 たいていの物事は礼節正しい態度で臨めば、期待するものが得られることを知っていた。
 昭太はこの世の中は常識さえ踏まえておけば怖いものなどないと、そのときまではそう思っていた。……
 昭太が部屋を出て吹き抜けの玄関ホールに降り立つと、そこはもはや古典映画の世界だった。
 ぴったりと閉ざされたカーテンの薄闇はやけに物々しく、なぜかひどく寒い気がした。
 臭いも湿っぽく、音さえもしっとりと反響まで鈍いような。

「起きられましたか」

 その低い響きに振り向いた瞬間、昭太は自分でも驚くほどの悲鳴を上げていた。

「うわああ――っ!」

 昭太が見たのは、言うまでもなくエンゲルバードだった。
 薄闇にぼやっと立っているぬりかべほどに大きい怪物相手では、いくら良識ある恐れを知らないこどもでも生命の危機を禁じえなかっただろう。
 のちに昭太はこのときのことを振り返って、やや強がりに、ちょっとびっくりしただけだったと弁明している。
 そのちょっとびっくりしただけの昭太は、親のことも忘れ一目散に屋敷を飛び出した。
 扉を開けた瞬間、暗闇に慣れていた目がさんさんと降る光にくらみ、ものの数歩で転んでしまった。
 鈍い痛みと、嵐で体力を消耗した身体、それに化け物に追われると言う恐怖感が一気に昭太に押し寄せた。
 昭太は言うことを聞かない体を引きずりながら激しく動揺した。

「うわああっ、ああっ」

 そのとき、ふと舌足らずなこどもの声が昭太を現実に呼び戻した。

「だいじょうぶ?」

 昭太が振り向くと、あの窓の下にいた少女がいつの間にか昭太の隣にひょっこり立っていた。

「え……」

 少女は目に眩しい白いレースのワンピースに、くりりとした大きな眼で昭太の顔を見つめている。
 昭太はとたんに恐怖心を忘れて答えていた。

「だ、大丈夫……」

 すると少女は朗らかにこりと笑った。
 少女は昭太をじっと見つめている。
 昭太の頬が矢庭に赤く染まった。
 ひとりで叫んで転んで這いつくばっているわが身が急に恥ずかしくなったのだ。
 昭太は急いで立ち上がると居住まいを正した。

「あの、名前……。僕、昭太」
「わたしルーナ」
「ルーナ?」昭太は思わず聞き返した。

 だって、少女は明かに日本人と言う容姿をしている。
 昭太の脳裏に、この子はハーフかもしくは日系何世かも知れないという考えがよぎった。
 あるいは親の趣向かもしれない。

「いくつ?」
「じゅういち」
「十一?」

 昭太は再びおうむ返しした。もっと年下だと思ったのだ。

「……てことは、もしかして僕と同じ? 何年生?」
「なんねんせいって?」

 昭太は思わずルーナをまじまじと見つめた。

「学校は、行ってないの?」
「がっこう」
「そうか、島に学校、ないんだ……」
「うん」
「この島で暮らしてるの?」
「うん」
「もしかして、島から出たことがないの?」
「うん」
「そうなんだ……」
「昭太はがっこう行ってるの?」
「うん。東京でね」
「とうきょう?」
「うん」
「とうきょうって、がっこうのこと?」
「え?」

 昭太はぽかんとした。
 なんだか話がかみ合ってない。

「えっと、つまり、東京都にある小学校って意味なんだけど」
「とうきょうと……」
「うん、そう」
「にある?」
「うん」
「ニアルしょうがっこう」
「ん?」
「ニアルしょうがっこうと、とうきょうと、りょうほう行ってるの?」
「……ち、違うよ! 東京都にある、小学校だよ」
「……」

 今度はルーナがぽかんとした。

「え、えっと、あれぇ……?」

 そう言いながら昭太は首をかしげた。

(ニアル小学校だなんて、本気で言ってるのかな……)

 しかしルーナと話がかみ合わないのは無理もない話なのである。
 それは、ルーナの教育に関して、保護者であるマイナードの態度はまったくの無頓着だったからだ。
 伯爵自身は長い時を生きてきただけあって、知識も経験も豊富だ。
 ゲーム機の種類が多少わからなくても、エンゲルバードをつくることなど訳はないくらいに。
 実は、マイナードは歴史の変遷の中で埋もれてしまったあらゆる研究や開発に通じてしているらしく、現代テクノロジーとはまた違った意味でのそれは素晴らしい知識と技術を持っているらしいのだ。……
 しかし、マイナードはそれらの知識についてはもちろんのこと、それ以外のことにおいてもルーナに教育らしい教育をしたためしがない。
 はなからルーナには必要のないものだと決めつけている。
 だから、ルーナはいまだにひとりで本を読むこともできなかった。
 ひらがなばかりの絵本ならルーナにも読めるのだが、ふりがなのない本はだめなのだ。

 だいたいマイナードが日本語を習得したのは比較的最近のことで、しかも人と接触しないで言語を習得するために使ったのは主に時代劇のDVDだったらしい。
 幸いにもルーナがそれを踏襲しなかったのは、エンゲルバードがこども用の教育DVDなどをルーナに見せたからだった。
 マイナードは意思疎通さえできれば十分とばかりに、それ以上のものをルーナに与えようとはしなかった。
 さらにいえば、マイナードが古くから読み貯めていた古書の多くは、ほとんどが外国語で書かれていて、アルファベットすら教えてもらえないルーナには読みようがなく、ルーナは自発的に何かを学ぶということも知らずに過ごしてきていた。
 それでも、時がたつにつれてルーナは自分には知らないことが多いということに気づく機会が訪れる。
 例えば、半年に一回やってくる島に物資を運ぶ船の乗組員に出くわすと、彼らの質問は必ずといっていいほど毎回ルーナを困惑させた。

「勉強はどうしてるの?」
「学校は?」
「へえ、君ルーナって言うの? 親が外国の人なの?」

 べんきょう。がっこう。がいこく。
 ルーナは決まって答えられなかった。
 人間社会と切り離された孤島で暮らすルーナには知らない言葉が多すぎた。
 屋敷に帰った後、マイナードにその言葉の意味を聞く、すると決まってそんなことも知らないのか、と言われるのだ。
 そんな経験が繰り返されてルーナは幼いなりに、自分がどうやら世間を知らずに、狭い世界で生きているということを少しずつ感じてはいたのだ。

「ルーナ、君ってそれ本気で聞いてるの?」

 昭太がためらいながらも口にすると、ルーナは急に肩を落とした。

「……」

 少女のしょげた様子に、昭太はすぐにまずい言い方をしたことを察した。
 ルーナはぽつんと言った。

「がっこうって、どんなところ?」

 ルーナの貧しい経験則では、教育DVDよろしく自分と同じような子どもたちが集まってお歌を歌ったりお遊戯をするものだと推測しているが、実際のところまったくわからないのと同じだったのだ。
 初めて会った子なのに、その頼りないような困ったような顔を見ると、昭太はなぜか無性にルーナをかばってあげたくなった。

「た、大したことないよ! ここに比べたら、ぜんぜん。海もないし、空も見えないんだ。ここのほうがずっといいとこだよ」

 するとルーナはなにか安心でもしたように、昭太ににこっと笑いかけた。
 その笑顔がなんだかとてもかわいくて、昭太はつられて笑っていた。
 歳はほとんど変わらないのに、小学校の同じクラスの女子とは全然感じが違う。
 思春期に差しかかり始めた年頃のある種の違和感とでもいうのだろうか、そういうてらいがまったくない。
 あるいは、自我の確立とともに生まれ始めるなにかしらの壁、とでも言うか。

(もし僕に妹がいたらこんな感じなんだろうか)

 漠然と(この子は僕がみてあげなきゃ)と言うような年上ぶった気持ちになっていた。

「ねぇ、この島のことなんだけど」
「うん」
「ここはなんていうところなの?」
「クビカリ島」
「首狩り……?」

 昭太は思わず不吉な想像をしてぎょっとしてしまった。
 恐らくは単に同音異語と言うだけだろう。
 だが、昭太は先ほど感じたあの戦慄がその肌に再び蘇ってくるのような気がした。

「ルーナはこの屋敷に住んでるの?」
「うん」
「もしかしてこの島に怪物とか住んでないよね?」
「かいぶつ?」

 そのときだ。

「ご一緒でしたか」

 屋敷の扉から出てきたのは巨漢の怪物エンゲルバードだ。
 昭太は思わずひっと息を吸い、顔からはさあっと血の気が引いた。

(ど、どう、どうしようっ……)

 たった今わが胸の内に先輩風を吹かせたばかりの昭太はルーナを置いて逃げるわけにもいかなかった。
 ところがルーナは怪物になんのためらいもなく返事をした。

「エンゲルバード」
「ルーナ様、お食事の時間でございます」
「うん。昭太もいっしょに行こ?」

 すると怪物はルーナから昭太に視線を移した。

「昭太様とおっしゃるのですね」
「……」
「ご一緒にとうぞ」
「……」

 想像していたのとはかなり違った展開に、昭太は大きな使用人と小さな少女を交互に見つめた。

「昭太様、それから」

 はるか上空から落とされた視線に、昭太は息が詰まる思いだった。

「ご両親が目を覚まされましたよ」
(こ、この人、いったい何者なんだろう?)

 声ならぬ声が昭太の頭の中を駆け巡る。

「いこう、昭太」

 ルーナが昭太に手を差し伸べた。
 手をつなごうという意図らしい。
 昭太は戸惑いながらもその白い手を取り、エンゲルバードなる怪物のような執事の後をついて行った。
 歩きながら昭太は恐る恐る、真昼の太陽にさらされた怪奇な男を盗み見た。
 見れば見るほど不気味である。
 不自然に縫い合わされたちぐはぐの色の肌。
 灰色の左目と茶色の右目。
 身体の比率からすると腕が妙に長く、手のひらは多分昭太の頭を掴めるほどに大きい。

「あ、あの、ルーナ……」

 昭太は声を落として言った。

「なあに?」
「あの人、ほ、ほんとに人間……?」

 ルーナが答える前にエンゲルバードがその巨漢の踵を返した。

「私は昔大きな事故に遭い、旦那様に救っていただいたのです。お見苦しい姿で申し訳ありません」

 丁寧にこうべを垂れたエンゲルバードに、昭太は気まずい表情を浮かべた。

「す、すみません、僕……」

 昭太は医師である父母から腕脚や皮膚の大部分をなくした人のことを聞き及ぶことがあった。
 あるいは筋肉が衰えて成長できなかったり麻痺をして不自由な生活を強いられている人のことをテレビなどでも見知っていた。

(それなのにエンゲルバードさんを見るなり怪物と思ってしまったなんて……)

 ルーナが昭太とエンゲルバードの間を取り持った。

「エンゲルバードは気にしないわ。ね、エンゲルバード?」
「ハイ。昭太様、お気になさらずに」

 昭太はぎこちなくうなずいた。
 その昭太を横目に見ているルーナはもちろん知っていた。
 エンゲルバードはマイナードが長年の研究の末に作り出した紛れもない人造人間、すなわち正真正銘のモンスターであることを。
 しかしそれはマイナードから人前では口にしないように言い含められていたのだった。

 三人が屋敷への中へ入ると、相変わらずその中は薄暗くひやりと涼しかった。

「食堂へどうぞ。みなさんお揃いですよ」

 食堂の窓はやはりカーテンで閉ざされ、燭台にはロウソクの火が怪しく灯っていた。

「昭太!」

 席から立ち上がったのは昭太の母、佐江であった。
 その顔には張り詰めた緊張と息子が無事だと分かったことにへの安堵が両方見てとれた。

「昭太、急にいなくなったから心配していたんだぞ。さあ、ここへ来てご挨拶しなさい」

 父親の丈一郎は昭太に自分の隣の席を示した。
 薄ぼんやりと白いクロスが浮かび上がる二四人掛けの長テーブル。
 その先にいるのは、青白い顔のマイナードだった。
 見た目にはなんの不自然さもない青い顔の西洋人が、昭太にはなぜかエンゲルバード以上に言いようのない不穏を感じさせた。

「あ、青山昭太と言います……」

 マイナードは昭太の挨拶にはひんやりとしたその瞳をくれた。

「娘とはもう会ったようだね」
「は、はい……」

 すると、テーブルの反対側からつたない声が響いた。

「おともだちになったの」

 マイナードの対面に座ったルーナの声。
 その声だけが、やけに朗らかに聞こえた。
 ろうそくのせいかルーナの姿は余計に遠くに見えた。

「そうか、それはよかったな、ルーナ」

 マイナードは笑い、そして昭太を見た。

「ルーナと仲良くしてやってくれ」
「はい……」

 マイナードはワイングラスを掲げた。

「我が島へようこそ。諸君を歓迎する」

 丈一郎は妻を促して慌ててグラスを取って掲げた。
 その後、エンゲルバードが食事を運んで来た。
 コーンの甘い香りと浮きみの浮いた温かいスープが出されると、昭太、丈一郎、佐江はいやでも空腹に気がつかされた。
 三者が一様にスープに口をつけると、それは舌から体中にしみわたって、紛れもなく生きていることを実感した。
 ルーナもスープを飲んでいる。
 しかし、屋敷の主人だけはたった今注がれたばかりのスープを下げるよう執事に命じた。

「エンゲルバード、ワインを」
「ハイ、旦那様」

 食事は終始ひっそりと静かに進んでいった。
 ときどき話すルーナの言葉だけが薄暗い雰囲気に似合わず、弾んだように楽し気に響いた。
 丈一郎はややためらいがちに、食事には一切手をつけずワインばかり飲んでいる顔色の悪い主人に話しかけた。

「そ、それで定期船はいつ島に来るんでしょう?」 
「物資配達船は半年に一度来るが、二か月前に来たところだ」
「その他の船が来ることは?」
「この島は私有地だから難破でもしない限りめったに寄船することはない」
「では無線で船を呼んでいただくことはできませんか?」
「しばらく使っていないのでね。うまく交信できるかどうか。どうだったかね、エンゲルバード」
「無線交信機は故障しております」
「では早く取り替えるのだ」
「新しい交信機が届くのは四ヶ月後です」

 マイナードは明らかに不服そうなため息を吐いた。

「そう言うわけだ。気長にゆっくりするのがよろしかろう」

 丈一郎と佐江は顔を見合わせて、お互いにひきつったような苦笑いした。
 四か月もこんな不気味な舘に留まるのか、と言う両親の無言の会話を昭太は聞いた気がした。
 昭太ももれなくそう思った。
 食事が済むとマイナードとルーナはそうそうに席を離れた。
 それからあとは奇怪な執事が漂流者一家の面倒を見てくれた。
 幸いにも通信手段のほかにおいては、不足するようなことはなかった。
 そして、夜も更け三人の親子は入浴と着替えを済ませてこざっぱりとしたていで部屋でくつろいでいた。

「九尾仮島って言ったわね。たしか、石垣島からそう離れていないところでしょう?」

 佐江は用意されたシルクのガウン姿で夫に話しかけた。

「それは船があればの話だよ。これはもう仕方ない。長い休みを取ったと思ってゆっくりするしかないよ」
「ゆっくり!」

 佐江は緩やかなパーマをあてた髪に手をやった。

「だって、医院はどうするのよ! それに昭太だって学校があるのよ!」
「そうカリカリしたって仕方ない。僕らが戻らなければ、誰かが捜索願を出してくれるよ。そうすれば四か月もここに拘束されると言うことはないはずだ」

 佐江は落ち着かない様子で部屋を行ったり来たりした。

「だって……、だって、なんだか薄気味悪いじゃない。なんだかいやな感じがするのよ……」
 その意見には丈一郎も昭太も同感だった。
「なにか変よ。あの継ぎはぎだらけの執事も、この屋敷も……、それにあのご主人。いったい何者なの……。食事にはなにひとつ手をつけてなかったわ。まさか毒なんて入っていなかったでしょうね!」
「ルーナは食べてたよ」と昭太。

 佐江は息子に少し目をやったあとため息をついた。

「そうなんだけど……、なんて言うか、不安なのよ。あのご主人、名前は確か……」
「マイナード・フォン・ランドマーリ伯爵」
「そう、それよ!」

 夫の口添えに、妻は肩の高さで手を左右に広げた。
 興奮したとき佐江の身ぶり手ぶりは海外ドラマの登場人物ばりに大げさになる。

「伯爵? なに時代の話をしてるの? ここは日本でしょ?」
「彼は日本人じゃない。海外には貴族制が残っている国もあるよ」
「だって、あたしたちがいるのは日本よ! 沖縄よ? なんで外国の貴族様がこんな離島に住んでるの?」
「大富豪なら島の一つや二つ持っててもおかしくないさ……」
「おかしくない……、おかしくない……。そうかしら?」

 佐江の興奮は治まりそうになかった。
 丈一郎だって今日一日でも腑に落ちないことばかりだ。
 佐江を落ち着かせる言葉など簡単に思いつくはずもない。

「こんな小島に彼らだけで? 電話もテレビもラジオもない。定期船は半年に一回、外との連絡は壊れた無線一つですって?」

 丈一郎が見る限り、佐江は島に閉じ込められた不安や不満を島の住人である彼らに向けることで解消しようとしているにすぎなかった。
 その気持ちは確かにわからないでもないが、命があっただけで十分だと丈一郎は思う。
 ひとまず妻を落ち着かせるためには、抱きしめて安心させるのが一番だ。

「佐江、おいで」
「人様の容姿のことをとやかく言うのはよくないことだわ。それはわかってるの。だけど……」

 丈一郎は妻を抱きよせた。

「君の不安もわかるよ。ここは一つ検証してみようじゃないか」
「あなた……」
「伯爵は日光に当たれない。と言うことは、骨髄性プロトポルフィリン症の可能性がある。だとすれば、これまで大変な闘病生活を送ってきたに違いない」

 丈一郎は努めて論理的な口調で話し始めた。
 骨髄性プロトポルフィリン症とは、遺伝的な酵素の欠陥により血液中にプロトポルフィリンが過剰に蓄積されることで、紫外線に当たると皮膚に障害を起こし、肝臓を悪くする。
 また腹痛などを起こし全身麻痺などを引き起こす病である。

「え、ええ、そうかもね……」
「うん。それに執事のエンゲルバードさんだって、あの姿から慮れば相当な事故だったんだろう。ああして回復するまでに多大な苦労をしてこられたに違いないよ」
「そうね……」
「そんな彼らが人目を避けて気ままに離島で暮らしたいと思うのは、そんなにおかしなことだろうか」
「ああ……。それは……、そうね」
「彼らにとって僕らは招かざる客だ。彼らは人目につかない土地で静かに暮らしていたいのに、僕らはその邪魔をしている。彼らにしたらとんだ迷惑かも知れない」
「ええ……」
「それでも彼らは、漂着した僕らをこうして迎えてくれたんだ。彼らのおかげで僕らは今柔らかいベットにきれいな衣服、そして食料や水に困らなくて済むんだよ」
「それはわかっているわ……」

 佐江は夫の腕の中で徐々に落ち着きを取り戻していた。
 しかしその顔は相変わらず不安な色に染まっていた。

「だけど……、でも……」

 佐江は夫の胸元にため息を吐いた。

「なぜか嫌な感じがするのよ……。昭太のことも心配で……」

 女の感は危機察知においてときに優れた能力を発揮する。
 例えば、そう、我が子を守る必要があるときに。

「僕は平気だよ、お母さん」

 母を気遣う昭太を佐江はそばに引き寄せた。

「昭太……」
「ルーナもいるし大丈夫だよ。それに、こんなお城みたいなところに泊れるなんて、めったにないんじゃない?」

 昭太は母の気持ちが少しでも明るくなるように、明るい話題を提供した。

「そうだよ、佐江。ここでは、食事の世話やら洗濯やらで君の手を煩わせることはないんだよ」

 丈一郎も昭太に調子を合わせて明るく言った。
 佐江は二人の言葉に励まされてようやくその顔にほほ笑みを取り戻した。

「そうね……」
「さあ、今日はもう寝よう」

 丈一郎が二人をベッドにいざなう。

「明日から一日中、仕事も学校も行かなくていいんだ! こんなチャンスは滅多にない。楽しまなければ損だぞ!」
「お父さんが一番楽しそう」
「ほんと」

 丈一郎の言葉に妻と息子が笑った。
 佐江はもしもこの島に漂着したのが自分と息子だけだったとしたら、と考えるとうすら寒くなった。
 夫がいてよかった。
 佐江は心底思った。
 こんな状況でも自分と息子を笑わせてくれる丈一郎のことをどれほど頼りにしているか、佐江は改めて実感した。
 佐江と昭太を抱きながら丈一郎は言った。

「僕らは大丈夫。家族みんなが助け合えば怖いものはないさ」

 船が嵐に見舞われた時も丈一郎はそう言って家族の心をまとめた。
 丈一郎は家族三人をロープで結び、波が船を飲み込むその時まで妻子を励まし続けた。

「そうよ、私たち家族に怖いものはないわ。だってあの嵐を生き残ったんだもの」
「そうだよ、僕たち家族って相当すごいよ」

 青山一家はその屋敷へ来て初めて、安心と言う気持ちを味わった。
 それは紛れもなく家族の強いつながりがそう感じさせたのだった。

(お父さんとお母さんと一緒なら、きっと大丈夫)

 昭太はそう思いながらその夜眠りについた。

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