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【勝利の予感】
しおりを挟む日が落ちて古本屋へ帰る途中、黒猫のゴダンは素振りの音を耳にした。音のする方を見ると、庭先で坊主頭の青年がバットを振っていた。
「百……十五……っ、百……十六……っ!」
その青年を見守るように、縁側には女の子が座っていた。甲子園を目指す高校二年のヨウタと、彼を応援する妹エミリは中学一年だ。
「お兄ちゃん、腰浮いてきてるよ」
「おう……っ、百……十七!」
ゴダンは生垣のすき間からそっと庭に入ってしばらく様子を見ていた。
「……百……二十四っ、百……二十五……っ!」
「あと二十五回! 肘の高さ気を付けて!」
「おおっ、百……二十六っ!」
そのとき、奥から母親のルリコがエプロンで手を拭きふき、縁側へやってきた。
「エミリ、すっかり指導がお父さんみたいね」
「うん、お父さんが見てるところ、私も見てたから」
数か月前、ふたりの父親ツネオは急な病で入院をしていた。子ども時代から野球一筋だったツネオは、ヨウタが甲子園を目指して練習に励む姿に自分の若いころを重ねて、熱心に応援していた。父の熱意に応えたいヨウタは、入院した父を元気づけたくて、よりいっそう練習に力を入れていた。エミリもそんな兄の気持ちに呼応するように、進んで応援するようになっていた。
通りに腰掛けたルリコにエミリがつぶやく。
「お父さん、明日大丈夫だよね……?」
「大丈夫。手術すれば助かるって言ってたでしょ」
「うん……」
バットを振りながらヨウタが力強く言った。
「次の試合は無理でも、決勝戦には必ず応援に行くって、父さんが言ってた。だから、百……三十一っ! 俺は絶対、百……三十二……っ! 勝つっ!」
「そうよ、お父さんは病気に負けない」
「うん、そうだよね!」
ゴダンは「にゃお」と声をかけた。突然の鳴き声と光る猫の目に、ヨウタがギョッとしてよろめいた。
「うわっ、くっ、黒猫!」
「あら、やだわぁ……。縁起が悪い」
「あっ、ゴダンだよ。ほら、古本屋の」
「な、なんだ……」
「あら……」
サンダルをつっかけてエミリがゴダンを迎えに行った。抱き上げると大人しく可愛がられるゴダンを見て、ヨウタもルリコもほっとした。知らない黒猫なら不吉がって、知っている猫だというだけで安心するのだから、人間と言うのは不思議なものだとゴダンは思う。もちろん、これまでのゴダンの行いが良いからに決まっているが。
「ねぇゴダン、ゴダンもお父さんとお兄ちゃんのこと、応援してくれるでしょ?」
「にゃあお」
「ふふっ、ほら、応援してくれるって」
「ゴダン、お前びっくりさせんなよ」
「お兄ちゃん、すごいビビってたよね」
「ビビッてねぇし!」
「けっこうよろけてたよ」
「うふふ、そうね。ちょっと驚きすぎよねぇ」
「し、集中してたんだよ……!」
「うん、それはそうね」
三人にしっかり可愛がられてから、ゴダンはこの家を後にした。ゴダンにはわかっている。猫には人にはない第六感というものがあるのをご存じだろうか。髭の周りと耳としっぽ、そしてふんわりすべすべした毛並みには見えないアンテナがあって、目では見えないものを感じ取ることができるようになっている。
この家に、死の匂いはしない。だから、きっとツネオは元気になってこの家に戻ってくるだろう。
「にゃお」
「じゃあな、ゴダン」
「またきてね」
「お休み、ゴダン」
ゴダンが庭を出ると、再び素振りと数を数える声が聞こえ始めた。ここでも第六感が効くかって? ゴダンが人間の言葉をしゃべれたらこう答える。ヨウタはちょっとビビりすぎ。だけど、チームワークで勝利を掴むだろう。
予感が当たったかどうか、確認しにまたここへ来てみようと思うゴダンだった。
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