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第31話 対峙

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 優奈は息を切らして、倉庫内を彷徨っていた。

 広い。相当に広い。多くの備品がそのまま放置されていた事務所内と違って、倉庫は比較的がらんどうとしていた。しかし、ところどころにコンテナやそれを積み上げる棚があり、視界と行く手を遮っている。

「っ、は……」

 焦りに息が乱れる。出口はどこだろう。

 おそらく端に行けば扉の一つや二つはあるだろうけど、間違えれば袋の鼠になることは確実だった。たとえ外に出られたとしても、優奈は身一つ。スマホも何も持っていない。どうやって逃げて、助けを呼べばいいのか。

 足が迷う。

 そんな優奈を、背後から何者かが羽交い締めにした。

「あ、綾子さん!?」

 首を半分回して振り返った背後。優奈を捕らえていたのは、真垣陽一の妻・真垣や子だった。

 けれどその顔からは生気が感じられない。青白いを通り越して肌は土気色になり、唇は乾ききってひび割れている。目の焦点は定まっておらず、まるで土か黴のような――到底生きているとは思えない臭いが、鼻孔を掠めた。

「――っ」

 逃れようともがくが、綾子はびくともしない。その細腕からは信じられないような筋力だった。

「ありがとう、綾子」

 カツンカツンと靴音を鳴らし、暗闇の中から月光の下へ、真垣が姿を現す。真垣は慈しむように綾子の頭を撫で、頬を擦った。

 愛しい妻への愛撫。けれどそれは、どこか愛玩動物を愛でる様子に似ていて、だというのに綾子は、死相に化粧を施した顔に穏やかな笑みを浮かべる。

「……なんで、綾子さんをこんな風にしたんですか……」

 堪えきれなかった。気付けば優奈は、呻くようにそう呟いていた。

「今日の優奈さんは知りたがりですね。あぁでもそれって、僕のことを知りたいと思ってくれてるってことなのかな。嬉しいなぁ」

 真垣の笑みが深まる。しかしそれは、瞬時に哀愁へと変わる。

「……殺すつもりなんてなかったんです」

 肩を落として、真垣は吐露した。

「以前からお話ししてたとは思いますが、綾子とは家庭内別居状態が続いていたんです。離婚調停が始まってからは、綾子は外泊することも増えて……でも年も変わってしばらくした頃、偶然、家に帰っていた綾子と鉢合わせしたんです」

「……それで、殺したんですか」

「だって、綾子は、自分は悪くないって言うんです」

 その言葉は、言い訳をする子供のようでもあった。

「仕事が忙しいのを言い訳に家には寄りつかない、なのに自分の行動は全て把握しようとする。『そんなあなたは、もううんざり』だって」

 嘆息が零れる。

「浮気される自分にも原因はあると思っています。でも、それが浮気をしていい免罪符にはならないじゃないですか」

 優奈は、何も言い返せなかった。
 確かに、それは正しいかもしれない。

 けれどそれは、殺していい免罪符にもならない。

「……気付いたら、僕は割れたワインの瓶を握っていて、綾子は、赤いワインの中に沈んで動かなくなっていました。床に広がった赤いワインの中に、じわりと真っ赤な血が流れて……とても『美味しそうだった』んです」

 真垣が愛おしげに優奈を見る。その瞳に宿る恍惚とした光に、優奈は身を強張らせた。

 新の推測は、正しかったのだと確信する。
 その時――綾子を殺した時、真垣は吸血鬼ではなかった。

「甘い甘い、果実酒のような香りが辺りに漂っていました。お酒は一滴も飲んでいないのに、まるで酷く酔ったような気持ちになって……どうしても耐えきれなくて、指でその血を一舐めしたんです。そしたらびっくりしました。この世にこんな美味しいものが存在したのかって。そうしたら急に喉が渇いて――」

 その時を思い出してか、真垣の喉がゴクリと鳴る。

「気付いたら綾子の首元に噛みついて、血を飲み干してました」

 そうして真垣綾子は死んだ。――優奈と同じように。
 そして真垣陽一は、吸血鬼と成った。

「どうしようと思いました。綾子が死んだ。殺してしまった。でも目の前の綾子は、まだみずみずしさを保っていて、ただ眠っているようでした。それで咄嗟に、自分の血を飲ませたんです。そしたらほら、綾子は生き返ったんです」

 心の底から嬉しそうに、真垣は綾子の髪を撫でる。

 死者に血を与える――その行為は、吸血鬼として本能的なものだったのかもしれない。事実、綾子を生かそうとするには正しい選択だった。優奈は新に、同じ行為を施されたのだ。

 けれど――

 優奈は憤りを覚えずにはいられなかった。

「これのどこが生きてるっていうんですか!」、

 とうとう声を張り上げる。

「殺して、不完全に蘇らせて……こんなの、死者を愚弄しているだけですっ!」
「……どうして怒るんですか?」

 真垣はやはり首を傾げる。噛みつくように叫ぶ優奈の言葉を、理解できないという風に。

「だって彼女たちは笑ってるじゃないですか」

 そうして暗がりの中から現れたのは、綾子と同じ臭いを漂わせた女性たちだった。

 ――屍鬼。

「なっ、こんなに……!?」

 四人、五人――綾子も入れれば、六人。

 優奈は完全に囲まれていた。

 いや、でも――そうだ。確かに、被害者の数は『発見された遺体の数』だ。動く死体――屍鬼なら、現場には残らない。

 あとはどこか人目に付かないところに隠すか、あるいは、綾子と同じように人として過ごさせればいい。木を隠すなら森の中という言葉の通り。

「全部……全員、真垣さんが食べたっていうんですか……?」

 愕然とする優奈を前に、真垣は悠然とガラクタの上に腰掛けて答えた。その黒い瞳が、月明かりを受けて僅かに光る。

「――食べたくなるんです」

 と、真垣は言った。

「美しい人を見ると、可愛らしい人を見ると、愛しさが胸にこみ上げてくると、確かめたくなるんです。その血の甘さを、命の味を。啜って啜って、食べ尽くして、自分のものにしたい。綾子を食べたあの日から、そう思うように、僕は成ってしまったんです」

 それで、こんなに食べたというのか。
 優奈は絶句する。

 ――新が見たら、なんて言うだろう。

「でも愛すれば愛するほど、愛したいと思うと、誰も動かなくなってしまうんです」
「だから……自分の血を与えて屍鬼にしたんですか?」

 静かに、優奈は激昂した。

「そんなの愛じゃない……! あなたのやってることは、一方的に自分の気持ちを押しつけてるだけです。私への付きまといも、綾子さんへの束縛も! 挙げ句、こんなの……こんなの、人形遊びをしている子供と一緒です!」

 真垣は、すぐには応えなかった。
 綾子に拘束されながら歯を食いしばる優奈を見て、悲しげな顔をして、

「そう……ですよね」

 やがてそう、零した。

 同時に、綾子を除く周囲の屍鬼たちがその場に崩れ落ちる。

「僕だって本当は分かってるんです。僕が彼女たちを愛しても、彼女たちは僕を愛してくれない。微笑み返してはくれるけど、それは僕の望みに従っているだけ」

 分かってくれた、のだろうか。
 そんな一抹の希望が優奈の中に芽生え、

「でももう、彼女たちも要らなくなります。だって、優奈さんがいてくれるんですから」
「――っ!?」

 笑んだ真垣に、優奈は全身が粟立つのを感じた。
 光の消えた目が優奈を映す。薄い笑みの隙間からは、鋭い犬歯が覗いている。

 反射的に逃げようと暴れるが、綾子の拘束はびくともしない。冷や汗が噴き出す。真垣が、ゆっくりと近づいてくる。

「優奈さんが野々宮先生のことを調べ始めた時は、本当の本当に焦りました。全部バレて、優奈さんに嫌われるぐらいなら、その前に愛したい……食べたいって思って、これが最後だと思って、あなたに近づいたんです」

 真垣が爪を鋭く尖らせる。

「ちょっともったいないなとは思ったんです。でも抵抗されても困るから、こう、喉を掻ききって……辺り一面に満ちる芳しい香りの中、流れ出るあなたの血を飲み下すのは、本当に極上でした」

 幸せな思い出に浸る。だがその顔が急に表情を失う。

「……なのに、あの男がやってきた」

 両手で顔を覆い、苦々しそうに吐き捨てる。指の隙間から、怒りに燃える瞳が覗く。

「僕と優奈さんの最高の時間を邪魔したんだ……! 憎くて憎くて殺してやりたかった……! でも――」

 コロリとまた笑顔になって、優奈に手を伸ばす。

「あの男のおかげで優奈さんが生きてるなら、少しは感謝しないといけませんね」
「痛っ……!」

 優奈の首筋を、真垣の爪が薄く切り裂いた。赤い血がぷっくりと浮かび、しかし傷はすぐに塞がる。

「あぁ、やっぱり」

 その血を親指の平で、優奈の肌に塗りたくるように伸ばしながら、真垣は嬉しそうに言った。

「優奈さんが生きてると知った時、思ったんです。もしかしたら優奈さんとなら、永遠に愛し合えるかもしれないって」
「永遠って、何言って――」
「だって優奈さんも、吸血鬼なんでしょう?」

 その問いに、固まった。

「僕と同じ、吸血鬼――何年でしたっけ? 三百年? 僕たちは人よりずっと長く生きるんでしょう? だったらぴったりじゃないですか」
「や、やめ……」

 真垣がブラウスのボタンに手を掛けながら、優奈の首筋に顔を寄せる。生温い息が肌を撫で、粘性を帯びた液体のように纏わり付いてくる。

「ずっとずっと、大切にします。何十年も何百年も、ずっと」

 それはまるで愛の告白のようだった。事実、真垣にとっては愛の告白なのかもしれない。けれどその言葉の先に待っているのは、幸せな婚姻マリアージュなんかではない。

「だから、僕に優奈さんを愛させて食べさせてください」

 牙が肌に触れ――優奈はぎゅっと目を瞑った。その端から、透明な雫が溢れそうになる。
 そうして真垣の牙が、優奈を穿つ――その瞬間だった。

「――てめぇ、誰の眷属に手ぇ出してんだ」

 ガラスの割れる音と共に、不機嫌な一言が、降ってきた。
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