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第30話 拉致

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 薄暗い廃屋で、優奈は意識を取り戻した。
 途端、鼻を突いた埃っぽい空気に眉を顰めつつ、瞼を開ける。

「あぁ目を覚ましましたか」

 同時に耳朶を打ったのは、聞き覚えのある声だった。

「気分はどうですか? 全然目を覚まさないから、殺しちゃったのかなって少し不安になりました」

 反射的に、声の方を見る。

「ま、真垣さん……?」
「やだなぁ、下の名前で呼んで下さいって、前から言ってるじゃないですか。名字だと、妻と区別が付かないでしょう?」

 そこにいたのは仕立てのいいスーツを身に纏った、野々宮法律事務所の依頼人――真垣陽一だった。古びたオフィスチェアに腰掛けて、いつも通りのにこやかな笑みを優奈に向けている。

「……ここは……」

 震えながら、辺りを窺う。吸血鬼になったせいか、不思議と夜目が利くようになった瞳は、暗い室内を鮮明に捉える。

 どこかの廃工場――いや、倉庫だろうか。その中に設けられた、小さな事務所スペースのようだった。

 倉庫の巨大な窓から差し込むのは、煌々とした月明かり。その光は事務所の窓を通り、室内を仄かに照らしている。灯りらしい灯りはそれだけで、目に入る範囲に人工的な灯りはない。

 人間の目では捉えられない、暗闇の中。
 優奈はその雑然としたオフィスの、埃っぽいソファに横たえられていた。

「うちの会社で借りている倉庫の一つです。ほとんど使っていなかったのでそろそろ手放した方がいいかなと思ったんですけど、優奈さんと愛し合うのに、あの家はあまりのもあの男の気配があるから相応しくないかなって。……と言って、ここが相応しいかというと微妙ですが」

 身じろぎして気付く。荒縄で両腕を後ろ手に縛られていた。足は自由だが、不自由な体勢のせいで立ち上がることが出来ない。

「本当は夜景の見える素敵な素敵を手配したかったのですが、なにぶん、警察を攪乱させるのも最近は厳しくなってきて」
「あ、新さんは……」

 困ったなぁというような、邪気のない表情を浮かべる真垣に、優奈は咄嗟に尋ねていた。

「こんな時まであの男の心配ですか? 妬けるなぁ……でも優しい。優奈さんらしい。安心して下さい。殺して、殴って、ちゃんと、あの綺麗な顔がぐちゃぐちゃになるまで潰してやりましたよ」

 サァと、優奈の顔から血が引いていく。事務所で見たあの新は、嘘ではなかったのだ。
 まさか、本当に、真垣が、一連の殺人事件を――

「なんで、どうして、そんな……」
「どうして?」

 うーんと少し考える素振りをしてから、真垣は言った。

「僕、捕まりそうなんですよね」

 唐突な答えだった。

「だから味方になって欲しい。捕まらないように協力して欲しいし、もし捕まったら僕の弁護をして欲しいってお願いしに行ったんです。多分、僕はもう人間ではない……優奈さんの新しい事務所は、人間以外専門なんですよね? なのにあの男、あろうことか断ったんですよ。なんて言ったと思います?」

 分からない。けれど想像はつく。

「『人外だろうと客を選ぶ権利はある』ですよ。だからムカついて、咄嗟に殴ったんです。あとは瓶とか包丁とか、その辺りのものをお借りしました。灰皿ぐらいあると思ったんで、何を使おうかちょっと悩みましたよ」

 笑顔を浮かべて、世間話でもするかのように。
 そんな真垣に、優奈はただただ驚愕と恐怖の視線を向けることしかできない。

「うーん、でもなぁ……どうしてかって言ったらやっぱり、嫉妬したからかなぁ」
「嫉妬……?」

 えぇ、と立ち上がった真垣が、優奈に近づく。咄嗟に後退りをするが、逃げ場がない。

「だってあの男、優奈さんにキスしたでしょう?」

 優奈の顎を掴んで、指で唇をなぞる。その触感に、ゾワリと肌が粟立った。

 なんで――どうしてそのことを知っている?

 そもそも新の法律事務所の場所だって、どうやって真垣は知った?

「酷い裏切りですよ。キスも、それからお泊まりも。あぁでもキスは無理矢理みたいでしたし、優奈さんに非はないのかな? お泊まりも何もされなかったみたいで安心しましたが、気が気じゃありませんでした。本当に酷いなぁ。僕はこんなにもあなたを想っているのに」

「な、なんで、知って、全部……」

「? 好きな女性の全てを知りたいと思うのは当然じゃないですか。GPSや盗聴器ぐらい仕掛けますよね?」

 小首を傾げて、さも当然のように。
 真垣は答えた。

「女性の鞄って、装飾が多いじゃないですか。外側とか、明らかにデザインのためのようなポケットがたくさん付いていて。だから野々宮先生のところに行っていた時に、こっそり優奈さんの鞄に入れておいたんです。外側の、側面の小さなポケットに。野々宮先生の事務所に居た頃ですね」

 確かに、女性の服や小物には、ほぼデザインの都合で付けられたようなポケットがある。優奈はそこに何も入れる物がなかったため、チェックする習慣もなかった。

「まさか、今も……」
「間抜けな話ですよね。あの男、僕が犯人だと最初から知りつつ、その情報が僕に筒抜けだなんて気付いてなかったんですから」

 合点がいった。

 新の事務所を知っていたこと。優奈が人気のない場所で殺害されたこと。
 優奈の現在位置と周囲の音は、常に真垣に筒抜けだったのだ。

「まぁ、万が一優奈さんに気付かれても、それはそれで嬉しいなって。だってそうしたら、僕の存在を少しは気に掛けて貰えるかなって――」
「……どうして」

 震える優奈の唇が、微かな問いを紡ぎ出す。

「どうしました?」
「どうして、私なんですか?」

 何故、優奈なんかをターゲットにしたのか。
 そう尋ねる優奈に真垣は、どうしてどうしてそんなことを聞くのか――と。そう言わんばかりに目を丸くし、

「だって、あんなに優しく接してくれたじゃないですか」

 満面の笑みを、浮かべた。

「え……?」
「嬉しかったんです。妻に見限られて、浮気されるようなダメ男に、こんなに優しく微笑んでくれる人がいるんだって……」

 たった、それだけ。

 ――たったそれだけだった。

 確かに優奈は、初めて野々宮法律事務所を訪れた真垣に笑顔で応対した。でもそれはあくまで接客――やってきたお客に、少しでも居心地良く過ごしてもらうためだ。

「それだけで……?」
「いけませんか?」

 やっぱり不思議そうに、真垣は首を傾げる。

「だって、真垣さんは、奥さんもいるのに――」
「愛する人は一人じゃなきゃダメなんですか?」

 真垣のその論説に、優奈は口を噤んだ。

「妻や子供や親や友人、誰だって色んな人を同時に愛してるじゃないですか」

 それは理論として成立しているようで、どこか破綻していた。

「でも、僕としては十分だったんです。事務所で少し話して、帰り道はひっそりと見守る。それだけで――でも、野々宮先生はそれを許してくれなかったんです。……どこで気付いたのかな。やっぱり事務所を出てすぐに後を追ったのがよくなかったのかな……」

 優奈から手を離し、室内を彷徨きながら、ぶつぶつと真垣は考え込む。優奈は真垣に悟られぬよう、静かに爪で縄をひっかき始めた。

 どうやっていたっけ。あの人は、新は――

「まさか、それで……先生を?」
「えぇそうですよ」

 やはり真垣は、当然のように肯定する。

「四月二十九日……野々宮先生に事務所まで呼ばれましてね。話を聞くと、優奈さんへの付きまといを止めろと言われたんです。酷いですよね、付きまといなんて……遠くから見守ってるだけなのに。それで、止めなければ法的手段を取ると言われて……ついかっとなって、近くにあった灰皿で殴ってしまいました」

 あははと、困ったように、照れ笑いを隠すように真垣は笑う。そこには悪意もなければ、反省の色もない。

「焦りました。野々宮先生が死んだなんて分かったら、優しい優奈さんはきっと悲しんじゃうじゃないですか。それは嫌だなって。だから、夜逃げってことにならないかと自分なりに考えたんですけど、ダメでしたね」

 ――そんな。

(そんなことで?)

 野々宮は、あの優しい弁護士は――

「死んだんですか……? 野々宮先生は、そんなことで……?」
「そんなこと? そんなことですか?」

 真垣は怪訝な顔をする

「愛する人への愛を邪魔されることが?」

 愛だって?

 思わず優奈は、そう聞き返しそうになった。
 抱えたこともないような激情が、優奈の中に渦巻く。

 それはまるで、激しく燃え上がる炎のようだった。恐怖に燻っていた小さな火が、薪をくべられて一気に燃え上がり、身のうちから優奈を焦がしている。

(こんな人に、こんな奴に――)

 優奈は砕けそうなほどに強く、歯を噛み締めた。

(こんな奴に、野々宮先生や他の人は殺されたっていうの!?)

 優奈の爪が鋭利なナイフのように伸びたのは、その瞬間だった。

 研いだ包丁が肉を裂くように、両手首を縛っていた縄が滑らかに切れ、優奈の手が自由になる。間髪入れず、弾かれたように優奈は立ち上がり、オフィスの出口に向かって駆け出した。

 その腕を真垣が掴む。けれど優奈は、振り返りざまに強い意志を込めて叫んだ。

「離して下さい!」

 その一言に、真垣の手がするりと離れる。
 優奈は一目散に、その場から逃げ出した。




 そうして優奈が去って、数秒後――

「あれ……? おかしいな」

 頭を振って、真垣は自分の手を見た。

 確かに優奈を捕まえたはずなのに、どうして自分は手放してしまったんだろう。そう思わざるを得なかった。それから思い当たる。

「あぁ、あれが『魔眼』か」

 真垣自身は使えないから、すっかり失念していた。優奈は真垣にはない、不思議な能力を会得していたのだ。

「追わなきゃ」

 そう呟くと、するりと、物陰から一つ、人影が現れる。
 それは、愛しい愛しい妻だった。

「あぁ綾子。君も手伝ってくれるのかい? ありがとう、助かるよ」

 そう言って、寄り添うようにやってきた彼女の頭を撫でれば、『綾子』は幸せそうに微笑み返す。その笑みに、真垣もまた笑顔になる。

「もっともっと、幸せになろう」

 いつも通りの笑みを浮かべ、真垣は優奈の後を追った。
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