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第10話 夫、来訪

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(どうしよう……)

 朝八時過ぎ。いつも通りに出勤するはずだった優奈は、事務所手前の曲がり角に身を隠し、逡巡していた。

 塀からこそりと顔を出せば、事務所の入り口が見える。その前を、目深にフードを被った男が一人、彷徨いていた。

 スマホを片手に、門の前でうろうろうろうろ。時折スマホの画面を見て、事務所の方を見て、またスマホの画面を見て。かれこれ十分以上そうしていた。

 明らかに挙動が怪しい。最初、男の姿を遠目に確認した時は優奈もお客様かと思い声を掛けようとしたのだが、それにしては入る気配がない。近づくにつれ、何やら不審な動きをしていることに気付き、咄嗟に曲がり角に身を隠してしまったのだ。

(どうしよう、どうしよう)

 と何度目か分からぬ当惑の言葉が脳裏をよぎった時だった。

「な~にをしておる」
「る~!」
「うわひゃあ!」

 ぽんっくるりっと。ファンシーな妖精さながらの可愛らしさで突然目の前に現れた狛犬兄弟――コロとマロに、優奈は思わず悲鳴を上げた。慌てて口を押さえる。

「コロマロ、驚かさないでよ!」
「仕方なかろう。神社の隅に張り付いてこそこそしておれば、そりゃ気になりもするて」
「て~」

 コロとマロは挨拶代わりとばかりに、優奈の頬に顔を押しつけてくる。優奈はそのもふもふノ顎を両手で撫でながら応えた。

「だって、事務所の前に怪しい人がいて……」
「怪しい」
「人ぉ~?」

 優奈は先程と同じく、曲がり顔から顔を出す。その頭の上に、マロ、コロが乗っかるように続けて顔を出す。

「珍しい。人間じゃのう」
「人間じゃの~、珍しい」
「人間?」

 男を一目見るなり言い切った狛犬兄弟に、優奈は鸚鵡返しに尋ねた。首を僅かに持ち上げて頭上の二匹を仰ぎ見る。

「あの事務所って人外専門でしょ? どうして人間が?」
「さぁのう。さりとて、人間が訪れておるのは目の前の事実」

 優奈の中の男への懐疑心が、ますます強まる。

 妖崎あやかし法律事務所は、その住所を公には公開していない。名前はあれだがれっきとした法律事務所であるため、登記を調べれば情報は出てくるが、ホームページも開いていないし、広告看板なども当然出していない。一般の人が事務所の存在を知る機会など、まずない。

 ではどうやって妖たちが事務所を訪れるのかというと、『口コミ』だ。

 妖から妖へ。妖崎新という存在が、人ならざる者たちのコミュニティの中で連綿と語り継がれ、その噂を耳にした者が助けを求めてやってくる。妖崎あやかし法律事務所は、そういう立ち位置だ。齢千年を生きているというのは、伊達ではないらしい。

 そんな状況で、ただの人間がどうやって事務所の存在を知ったのかも気になるところだった。

 その時、鞄の中のスマホが着信を告げた。慌てて電話に出る。

『おい、どうした。生理痛か?』

 新だった。

(開口一番それなんだから、この男はほんっと……!)

 マグマのごとく噴き出そうとする怒りを握り拳で何とか堪え、優奈は粛々と返した。

「それが本当だったとしてもうちょっと聞き方ってものがないんです? あとちゃんと出勤してます。ただ事務所の前に怪しい人間がうろついてて……」
『人間?』

 ちらりと事務所前を伺えば、そこにはやはり謎の男の姿がある。

 弁護士は恨みを買うこともある職業だ。過去の依頼者がなんらかの報復に訪れたという話だって、皆無ではない。新が今まで人間とどう関わってきたのか優奈は知らないが、男がよからぬ思想を持っているのは十分に考えられた。

 このまま放置は、できない。
 意を決して、優奈は新に提案した。

「新さん、今なら私が通行人のフリをして背後を取れます。そこで一撃を食らわせるので、すかさず玄関を開けて捕まえて下さい。ダブル不意打ち作戦でいきましょう」
『おい、ユウ。待て、そいつは――』

 言うが早いか、優奈は歩き出した。なるべく足音を消して、スマホを見るフリをして、いかにも通りすがりの通行人ですという顔で近づき――

「そこだ!」

 思いっきり通勤鞄を振りかぶった。フルスイングされた鞄は、ガッと鈍い音を立てて、男の側頭部にクリーンヒット。男が門の中へ倒れ込む。玄関が開いて、いつも通り寝間着浴衣姿の新が現れたのは同時だった。

 男が立ち上がろうとする。優奈は反射的に、立ち上がろうとする男の背に押しかかり、その背に膝をめり込ませるように体重を掛けた。

「い、いた! いたたたたた!」
「観念しなさい! さっきからずっと事務所の前を彷徨いて……一体何が目的なんですか!」
「も、ももも目的……?」

 悲鳴を上げる男が、困惑したように背に乗る優奈を振り返ろうとする。

「そうです!」

 優奈は足で必死に男を押さえつけた。

「そもそも人間がこの家に何の用で――」
「ユウ、そこまで」

 瞬間、ピタリと優奈は動きを止めた。

「離してやれ。そいつは関係者だ」
「関係者?」

 優奈は怪訝な顔で、玄関先に立つ新を見上げた。しかし、

「ユウ」

 新が静かに優奈を呼ぶ。そう呼ばれると、どうしてか彼の言葉に逆らう気持ちが薄れていき、優奈はしぶしぶ男の上から身をどかした。それでも男からは視線を外さず、そろりそろりと忍び足で新の傍らに移動する。

 背中をさすりながら身を起こそうとする男に、新が声を掛ける。

「小間使いが悪いことしたな」
「誰が小間使いですか」
「お前」

 優奈は言葉の代わりに肘で新の脇腹をつついた。鞄で殴らなかっただけ偉いと思う。

「須崎慎吾だな?」

 唐突に新は言った。

 優奈は思わずビックリして新を見て、それから未だ地べたに座り込む男を見る。
 驚いたのは男も同じだったらしく、立ち上がった彼は、黒縁眼鏡の奥で見開いた目で新を見上げた。

「あ、えっ、は、はい。自分は須崎慎吾ですが……どうして、名前を……?」
「微かに鬼娘の匂いがするからな」
「えっ!?」

 今度こそ驚きの声を上げて、男――須崎莉奈の伴侶・須崎慎吾は咄嗟にスンスンと自分の服の匂いを嗅ぐ。だが当然、それは物理的に人間が嗅ぎ分けられるものではない。

 驚く優奈と慎吾を放置して、新は踵を返す。

「ま、とりあえず話は朝のコーヒーでも飲みながら聞くとするか。ユウ、コーヒー」
「……小間使いじゃないんですけど」

 そうは文句を言うものの、客に茶を出すのは事務員である優奈の仕事だ。本当はお茶汲みなんかじゃなく、もっと弁護士に近い仕事を多くこなしたいけれど、資格がないものは仕方ない。せめて新のは熱湯で淹れてやろうと決意し、中へ入る。

 そんな二人を、慎吾は何故だか呆気にとられたようにぽかんと口を開けて眺めていた。

「どうした。入らないのか?」
「は、入ります! お、お邪魔します……」

 慎吾はきょろきょろと周囲を見回しながら、おそるおそる玄関へ入ってくる。
 そんな慎吾を見て、新は楽しげに喉の奥で笑った。

「ようこそ、人ならざるモノの領域へ、人間」
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