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柒/紛らす世界とその想像
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◇
愛莉から身体を逸らして、独りの思索に耽るものの、なにか視線を感じて仕方がなかった。
息遣い、というかこちらの動向をうかがうような無音の何かがあるような気がする。気配というべきものかもしれない。もちろん、この部屋には俺と愛莉の二人しかいないので、今感じているすべても、愛莉からのものでしかないのだが。
俺は気になるままに視線を向ける。当然だけれど、彼女と目が合う。先ほどの揶揄いを思い出して視線を外したくなる衝動に駆られる。だが、そうすれば先ほど以上に揶揄われ、悪戯のような笑みを浮かべるかもしれない。そんな想像をすると、少しばかりムカッとするから、あえて俺は彼女を呆然と見つめる。
沈黙、沈黙、沈黙。
気まずさは存在しない、ただの沈黙。気まずさは存在しないだけで、それ以外のものも特にはない虚無でしかない沈黙。たがいに視線が合っている状況で、呼吸だけが耳に響くような気がする。風景のような世界観。俺はそれでも彼女に視線を向け続けた。
そのまま彼女を見つめていると、不意に彼女が視線を逸らす。ぷいっというように、あからさまに俺の瞳から視線を外して、部屋からのぞける窓のほうへと視界をおいやっているようだった。俺は特に何も感じなかったけれど、愛莉は何かしらの気まずさを覚えたのかもしれない。もしくは、窓から通して見える世界に、何かを見つけたのかもしれない。俺は彼女の視線に寄り添うように、同じく窓の外を見つめようとするけれど、そんな時に「はい」と声が聞こえてくる。
視線を一瞬で彼女のほうへと移す。愛莉の手元には先ほどは見受けられなかった体温計があった。はい、というのはこれを差し出した時の声らしく、彼女はそれを俺に対してつきつけるように差し出している。
確かに身体の熱はとれていない。仕事に行く前よりは冷めているような気もするが、具体的な数値の把握はしていないことを思い出して、俺はそのまま差し出されている体温計に手を伸ばす。手を伸ばそうとして、視界がぐらぐらとすることにようやく気付いた。
手を伸ばして、彼女が持っている体温計を手に取ろうと頑張る。だが、指先の操作が容易ではない、どこかあいまいだ。いつもなら容易にできる行動のはずなのに、それがどうにもうまく──。
「……おい」
俺は気づいて声を出す。自然と低くなってしまった声に、彼女はくすくすと笑うような声をあげる。
俺が手を伸ばして体温計を取ろうとするたびに、愛莉が躱すようにひょいひょいと腕を動かしていることに俺は気づいた。とれない理由はそれでしかなかった。
はあ、と大きなため息をついて、俺は手を引っ込めた。手を外に出したことで、外の冷気を吸い込んだように、指先が冷たくなる感覚を覚える。少し鈍くなった指の先端を温めるように、のけた布団を取り戻して温めようとする。指先にとっては心地のいい温もりだったが、身体全体で見れば、やはりどうしても布団の温もりは熱いように感じる。だが、不快感はまだないので、そのまま呆然とするように。
「いらないの?」と愛莉は体温計をちらつかせながらそう言った。
「それならさっさと渡してくれよ」
「ほら、弱ってる翔也を見るのは久々だなぁって。あと、昨日のホラーのお返しです」
……もともとは彼女が揶揄ってくるから、という理由を名目にホラー(もとい都市伝説)を見たはずだったが、愛莉は愛莉でそれに恨みを持っているらしい。揶揄うような笑みの裏には、少し陰湿な笑みが含まれている……、ような気がする。俺がそう演出しているだけかもしれない。
「というか、ぶっちゃけあれ怖くなかっただろうに」
「……人には人の乳酸菌、人には人の恐怖体験」
名言を一つ吐いたかのように愛莉は、えっへん、と偉そうな態度で胸を張る。その言動に対しては威厳も何も感じないことによるギャップがあって、俺は少し面白く感じた。それに笑みを浮かべていると、彼女は改めて俺に体温計を差し出してくる。
「ほら、さっさと体温はかりなよ」
彼女の言葉に、あいあい、と適当な返事をして受け取る。受け取ったあとは、通常の使用方法と同じように電源を入れて、そのあとは腋に挟むようにして過ごす。布団の熱が含まれないかが不安になり、一応上半身は布団から出して、それらが測り終えるまで、静かに過ごす。
愛莉は俺から興味を失くしたように、携帯の画面を見つめる作業に戻った。それを眺めていると、後で恭平や皐、伊万里にも連絡しなければなぁ、とかぼんやり思いつく。どうせ、それくらいしか俺にはできないのだから。
ピピピッ、と連続した電子音が体温計から聞こえてきて、俺はそれを取り出してみる。身体の熱に取り込まれた温い体温計に表示されている温度を覗いてみて、俺は声を吐く。
「三十八度二分……」
「わ、病人だ」
俺はそれに返事をすることはしなかった。
愛莉から身体を逸らして、独りの思索に耽るものの、なにか視線を感じて仕方がなかった。
息遣い、というかこちらの動向をうかがうような無音の何かがあるような気がする。気配というべきものかもしれない。もちろん、この部屋には俺と愛莉の二人しかいないので、今感じているすべても、愛莉からのものでしかないのだが。
俺は気になるままに視線を向ける。当然だけれど、彼女と目が合う。先ほどの揶揄いを思い出して視線を外したくなる衝動に駆られる。だが、そうすれば先ほど以上に揶揄われ、悪戯のような笑みを浮かべるかもしれない。そんな想像をすると、少しばかりムカッとするから、あえて俺は彼女を呆然と見つめる。
沈黙、沈黙、沈黙。
気まずさは存在しない、ただの沈黙。気まずさは存在しないだけで、それ以外のものも特にはない虚無でしかない沈黙。たがいに視線が合っている状況で、呼吸だけが耳に響くような気がする。風景のような世界観。俺はそれでも彼女に視線を向け続けた。
そのまま彼女を見つめていると、不意に彼女が視線を逸らす。ぷいっというように、あからさまに俺の瞳から視線を外して、部屋からのぞける窓のほうへと視界をおいやっているようだった。俺は特に何も感じなかったけれど、愛莉は何かしらの気まずさを覚えたのかもしれない。もしくは、窓から通して見える世界に、何かを見つけたのかもしれない。俺は彼女の視線に寄り添うように、同じく窓の外を見つめようとするけれど、そんな時に「はい」と声が聞こえてくる。
視線を一瞬で彼女のほうへと移す。愛莉の手元には先ほどは見受けられなかった体温計があった。はい、というのはこれを差し出した時の声らしく、彼女はそれを俺に対してつきつけるように差し出している。
確かに身体の熱はとれていない。仕事に行く前よりは冷めているような気もするが、具体的な数値の把握はしていないことを思い出して、俺はそのまま差し出されている体温計に手を伸ばす。手を伸ばそうとして、視界がぐらぐらとすることにようやく気付いた。
手を伸ばして、彼女が持っている体温計を手に取ろうと頑張る。だが、指先の操作が容易ではない、どこかあいまいだ。いつもなら容易にできる行動のはずなのに、それがどうにもうまく──。
「……おい」
俺は気づいて声を出す。自然と低くなってしまった声に、彼女はくすくすと笑うような声をあげる。
俺が手を伸ばして体温計を取ろうとするたびに、愛莉が躱すようにひょいひょいと腕を動かしていることに俺は気づいた。とれない理由はそれでしかなかった。
はあ、と大きなため息をついて、俺は手を引っ込めた。手を外に出したことで、外の冷気を吸い込んだように、指先が冷たくなる感覚を覚える。少し鈍くなった指の先端を温めるように、のけた布団を取り戻して温めようとする。指先にとっては心地のいい温もりだったが、身体全体で見れば、やはりどうしても布団の温もりは熱いように感じる。だが、不快感はまだないので、そのまま呆然とするように。
「いらないの?」と愛莉は体温計をちらつかせながらそう言った。
「それならさっさと渡してくれよ」
「ほら、弱ってる翔也を見るのは久々だなぁって。あと、昨日のホラーのお返しです」
……もともとは彼女が揶揄ってくるから、という理由を名目にホラー(もとい都市伝説)を見たはずだったが、愛莉は愛莉でそれに恨みを持っているらしい。揶揄うような笑みの裏には、少し陰湿な笑みが含まれている……、ような気がする。俺がそう演出しているだけかもしれない。
「というか、ぶっちゃけあれ怖くなかっただろうに」
「……人には人の乳酸菌、人には人の恐怖体験」
名言を一つ吐いたかのように愛莉は、えっへん、と偉そうな態度で胸を張る。その言動に対しては威厳も何も感じないことによるギャップがあって、俺は少し面白く感じた。それに笑みを浮かべていると、彼女は改めて俺に体温計を差し出してくる。
「ほら、さっさと体温はかりなよ」
彼女の言葉に、あいあい、と適当な返事をして受け取る。受け取ったあとは、通常の使用方法と同じように電源を入れて、そのあとは腋に挟むようにして過ごす。布団の熱が含まれないかが不安になり、一応上半身は布団から出して、それらが測り終えるまで、静かに過ごす。
愛莉は俺から興味を失くしたように、携帯の画面を見つめる作業に戻った。それを眺めていると、後で恭平や皐、伊万里にも連絡しなければなぁ、とかぼんやり思いつく。どうせ、それくらいしか俺にはできないのだから。
ピピピッ、と連続した電子音が体温計から聞こえてきて、俺はそれを取り出してみる。身体の熱に取り込まれた温い体温計に表示されている温度を覗いてみて、俺は声を吐く。
「三十八度二分……」
「わ、病人だ」
俺はそれに返事をすることはしなかった。
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