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柒/紛らす世界とその想像
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◇
体を起こそうとしたけれど、そのための力はわずかにしか入らなかった。無理に体を起こすことも悪くはなかったが、そこまでするほどでもないかもしれない。結局、俺は無駄に力を入れたり緩めたりだけを繰り返して、布団だけをのけて横になる。
起き上がるための理由が見つからなかった。頭の回転はとうに始まっていて、自身の状況についても省みることができている。どうせもう仕事は始まっており、俺はそれを休んでいる。皐はアルバイトに向かって出かけており、ここには俺と愛莉しかいないという状況。
そこに失望感が宿る。これは世界に対してのものでもなく、自分自身に対してのもの。どこまでいっても、自分は解け落ちた氷の残骸でしかないというもどかしさ。いつも通りの日常を、それも定められており、送らなければいけない日常を送ることができていない自分に対して、どこまでもやる気をなくしてしまう。
諦観が心を支配する。日常というものはこの瞬間にも始まっている。いや、とうに始まっている。愛している皐は日常のままに、定められたとおりに働きに行った。愛莉はここに家出をしているという理由があるから、特には考えない。恭平はきっと俺がいないまま仕事をしているのだろう。伊万里はどうだろう、紗良は。いろいろな人の顔が思い浮かぶが、瞼の中に投影されてもやる気だけがそがれていく。
俺は日常から外れたのだ。それを取り返すことはできやしない。時間は逆行しない。刻んだ分だけ目の前で進み、握ることも触れることもかなわない。
傍らに視線をやれば、そんなどうしようもない俺に対して寄り添うように、愛莉がすぐそばにいる。
彼女は俺の視線を特に気にする様子もなく、ただ部屋の壁にもたれながら、静かに携帯をいじっている。いじっている、というか、画面をずっと凝視しているようにも感じる。何を見ているのか気になった。だから、瞳を覗いて反射する画面を想像しようと思ったけれど、それと同時に目が合ってしまう。俺は気まずくなって、それから視線を逸らすと、「むふー」とよくわからない声なのか息を吐いて、彼女はニヤニヤと俺の顔を見つめるようにした。
またこれだ、と思った。ここ最近でしか彼女とのかかわりは存在しないが、いつも彼女に揶揄われているような気がする。昨日の夜、寝る間際にはその逆襲として都市伝説の動画を見るに至ったけれど、その逆襲は朝になればすべて無為に還元されていく。ズルいな、という率直な感想を抱くけれど、そんな感想を彼女は知る由もなく「どーしたんですか翔也さんや」と老婆のように皴がかった声で話しかけてくる。
「いや」と返答した。それ以上の返事については思いつかなかった。
「それならなんで目が合ったんでしょう」
「……たまたま、かな」
「……もしかして、私のことが気になっちゃったり?」
「もう気になるほど知り合っていないわけじゃないだろ、幼馴染なんだし」
「……それもそっか」
一瞬の揶揄うような笑顔は気づきを得たように納得した表情を浮かべる。だが、そうしたかと思えば「でも、それでも私を見たんだねぇ」とくすぐるような声音で話してくる。俺は面倒くさくなって、愛莉に身体を向けることをやめた。
そこから、会話は生まれない。話すことがないからかもしれない。話すことがあっても、特に意味はない。俺たちは大概のことを話し終えている。幼馴染だから。
そう、幼馴染だから。
趣味、思考、関係、感情、俺たちは幼いころからそれらを共有するように生活してきていた。具体的に言語化することはなく、抽象的に、なんとなくでだいたいのことが伝わるから、会話の必要性などがそもそもない。だから、ここで会話は必要ない。彼女が言葉を出さないのならば、ここで俺が言葉を出す意味もない。
──本当に?
心の裏側で、熱に呆けている意識の裏側で、一筋の闇のような思考が頭をよぎる。
──幼馴染だからと言って、何を知っているというのだろう。幼馴染だからといって、何を共有できているというのだろう。
愛莉とは関わらなかった期間がある。その間に、俺たちはあまりにも変わり果てたような気がする。
身体性、精神性、関係性。もともとあったそれらは、過去のものと同一ではない。時間が経過するごとに、あらゆるものは変質を繰り返す。同一は存在しない、だから、本物も存在しない。
俺は彼女に語れないことがある。隠していることがある。禁忌の関係性を抱えていることを告白することはできない。
彼女もきっと、何かしらの変化があったはずだ。そうでなければ、数週間ほど前に出会った時、彼女に対して冷たさを覚えることなんてなかったはずだ。
ここ最近は冷たさに囚われている。
あらゆる人間が氷を抱えているのだ。そんな氷のような冷たさを、振る舞いから、視線から、言動から、態度から、声音から、身なりから、すべてから感じてしまう。
愛莉には、そんな冷たさがある。過去の彼女からは考えられないほどの、特異的な冷たさが。
それなのに、俺はまだ彼女を幼馴染だと呼称することを許されるのだろうか。
知らない側面があるのに、幼いころから馴染めている関係性だと、本当にいうことができるのだろうか。
体を起こそうとしたけれど、そのための力はわずかにしか入らなかった。無理に体を起こすことも悪くはなかったが、そこまでするほどでもないかもしれない。結局、俺は無駄に力を入れたり緩めたりだけを繰り返して、布団だけをのけて横になる。
起き上がるための理由が見つからなかった。頭の回転はとうに始まっていて、自身の状況についても省みることができている。どうせもう仕事は始まっており、俺はそれを休んでいる。皐はアルバイトに向かって出かけており、ここには俺と愛莉しかいないという状況。
そこに失望感が宿る。これは世界に対してのものでもなく、自分自身に対してのもの。どこまでいっても、自分は解け落ちた氷の残骸でしかないというもどかしさ。いつも通りの日常を、それも定められており、送らなければいけない日常を送ることができていない自分に対して、どこまでもやる気をなくしてしまう。
諦観が心を支配する。日常というものはこの瞬間にも始まっている。いや、とうに始まっている。愛している皐は日常のままに、定められたとおりに働きに行った。愛莉はここに家出をしているという理由があるから、特には考えない。恭平はきっと俺がいないまま仕事をしているのだろう。伊万里はどうだろう、紗良は。いろいろな人の顔が思い浮かぶが、瞼の中に投影されてもやる気だけがそがれていく。
俺は日常から外れたのだ。それを取り返すことはできやしない。時間は逆行しない。刻んだ分だけ目の前で進み、握ることも触れることもかなわない。
傍らに視線をやれば、そんなどうしようもない俺に対して寄り添うように、愛莉がすぐそばにいる。
彼女は俺の視線を特に気にする様子もなく、ただ部屋の壁にもたれながら、静かに携帯をいじっている。いじっている、というか、画面をずっと凝視しているようにも感じる。何を見ているのか気になった。だから、瞳を覗いて反射する画面を想像しようと思ったけれど、それと同時に目が合ってしまう。俺は気まずくなって、それから視線を逸らすと、「むふー」とよくわからない声なのか息を吐いて、彼女はニヤニヤと俺の顔を見つめるようにした。
またこれだ、と思った。ここ最近でしか彼女とのかかわりは存在しないが、いつも彼女に揶揄われているような気がする。昨日の夜、寝る間際にはその逆襲として都市伝説の動画を見るに至ったけれど、その逆襲は朝になればすべて無為に還元されていく。ズルいな、という率直な感想を抱くけれど、そんな感想を彼女は知る由もなく「どーしたんですか翔也さんや」と老婆のように皴がかった声で話しかけてくる。
「いや」と返答した。それ以上の返事については思いつかなかった。
「それならなんで目が合ったんでしょう」
「……たまたま、かな」
「……もしかして、私のことが気になっちゃったり?」
「もう気になるほど知り合っていないわけじゃないだろ、幼馴染なんだし」
「……それもそっか」
一瞬の揶揄うような笑顔は気づきを得たように納得した表情を浮かべる。だが、そうしたかと思えば「でも、それでも私を見たんだねぇ」とくすぐるような声音で話してくる。俺は面倒くさくなって、愛莉に身体を向けることをやめた。
そこから、会話は生まれない。話すことがないからかもしれない。話すことがあっても、特に意味はない。俺たちは大概のことを話し終えている。幼馴染だから。
そう、幼馴染だから。
趣味、思考、関係、感情、俺たちは幼いころからそれらを共有するように生活してきていた。具体的に言語化することはなく、抽象的に、なんとなくでだいたいのことが伝わるから、会話の必要性などがそもそもない。だから、ここで会話は必要ない。彼女が言葉を出さないのならば、ここで俺が言葉を出す意味もない。
──本当に?
心の裏側で、熱に呆けている意識の裏側で、一筋の闇のような思考が頭をよぎる。
──幼馴染だからと言って、何を知っているというのだろう。幼馴染だからといって、何を共有できているというのだろう。
愛莉とは関わらなかった期間がある。その間に、俺たちはあまりにも変わり果てたような気がする。
身体性、精神性、関係性。もともとあったそれらは、過去のものと同一ではない。時間が経過するごとに、あらゆるものは変質を繰り返す。同一は存在しない、だから、本物も存在しない。
俺は彼女に語れないことがある。隠していることがある。禁忌の関係性を抱えていることを告白することはできない。
彼女もきっと、何かしらの変化があったはずだ。そうでなければ、数週間ほど前に出会った時、彼女に対して冷たさを覚えることなんてなかったはずだ。
ここ最近は冷たさに囚われている。
あらゆる人間が氷を抱えているのだ。そんな氷のような冷たさを、振る舞いから、視線から、言動から、態度から、声音から、身なりから、すべてから感じてしまう。
愛莉には、そんな冷たさがある。過去の彼女からは考えられないほどの、特異的な冷たさが。
それなのに、俺はまだ彼女を幼馴染だと呼称することを許されるのだろうか。
知らない側面があるのに、幼いころから馴染めている関係性だと、本当にいうことができるのだろうか。
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