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柒/紛らす世界とその想像
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◇
「昔から翔也は体調悪くなりやすいよね」
うだる意識に溶けるように呟く皐の声が聞こえてくる。額には熱を冷ますように置かれた布の感触。嫌に潤いを認識してしまう。それに対して違和感を覚えるけれど、それを払いのけることはできない。
瞳を開くことはできず、どこまでも暗闇の世界の中に佇んでいる。そういった億劫さがある。まどろみの中で呆けていたいという欲望。そうすることが許されるのならばそうしていたい。深夜に眠れなかったというのもあるけれど、どこまでも重力は俺の背中を引きずり続け、体を起こすことはどこまでもできない。それを心地がいいといえば心地がいいのだろう。だが、起きなければいけないという焦燥感がある分、一種の地獄のような状況であるとも捉えることができてしまう。
仕事に行かなければならない。
ここ最近、あまりにも仕事を休むことが多すぎた。一週間ほど前までは高校との生活の両立で体調を崩した。この前は精神的な不安定が祟ってしまった結果、恭平に家に帰されることになってしまった。それでなくとも、昨日は紗良と会うためだけに早くに仕事を抜け出してしまっている。本当に今の仕事に対して向き合うことができていない。
こんな調子で良いわけがない。リズムが狂い始めていることを自覚する。すべての過程が傾くことで、その結末がすべて倒れるようなすべてを連想する。三半規管がぶれてしまう圧迫感。
なんとか体を起こそうとする。手に力が入らないから、肘を支点にして、背中を起き上がらせようと努力をする。だが「寝てなさい」という皐の声と共に、無理に床に、というか布団に押し付けられて、抵抗する間もなく俺は重力に従ってしまった。
「具合が悪いなら休むべき」と皐。
「そーだそーだ」とガヤのように言葉を繰り返す愛莉。
「恭平さんには連絡しておくから。翔也はそのまま寝ててよ」
「そーだそーだ」
皐の声に俺は頷くしかできない。便乗する愛莉の声に文句の一つもぶつけたくなるが、そうした気力は俺の中に残っていない。無駄に彼女らの息が合っていることに苦笑を浮かべるだけ浮かべて、俺は皐の言葉に甘えることにした。
いや、甘える他に選択肢はないのだ。それほどまでに身体は言うことを聞いてくれなかったから。
◆
どれくらいの時間、俺はそうしていたのだろうか。
時間を感じる感覚はすべて解けている。一瞬のようにも感じるし、長時間の間そうしていたようにも思う。
夢の中で過ごしているように、すべてがあやふやで現実感がない。
あらゆるすべてが俺に対して関心を持ち、そうして語りかけているような気がする。もしくは俺を無視して、世界は勝手に進行しているような気がする。
俺は主役であり、観客である。
観客という名の主役かもしれないし、主役という名の巻きゃっくかもしれない。それならば、誰かが話しかけてきてもおかしくはないし、誰かが話しかけてこないこともおかしいことではない。そのすべてがおかしいし、おかしくないとも思った。
「そろそろ行くから、きちんと休んでね」
心に馴染む声が聴こえてくる。その声を聞くだけで心に火がつくような熱を覚える。あやふやな意識で、それが誰なのかを考えることはできるが、把握することは難しい。
その声は「翔也をお願いね」と言葉を吐いた。それに返すように、ひとりの女性が「あいあいさー」と間延びした元気な声を出す。どれも馴染みのある声だ。安心感を覚える。こんな安定した心地を覚える夢はいつ以来だろうか。
「ありがとう」と言葉を吐きたくなった。何に対しての感謝なのかはわからない。久しぶりの、正しい意味での夢見心地にそんな言葉を選びたくなった。
俺には素直な感受性がない。それならば、夢の中でくらい、素直な言葉を吐くのは許されるような気がする。俺自身が俺を許すことができる。
「うん、行ってきます」
誰かは俺に対してそう声を吐いた。いってらっしゃい、と女性の声。俺もそれに重なりたかったが、意識は遠ざかっていく。つかんでいたすべてを手放す感覚を覚える。
そうして、世界は静かになった。
◆
静かな世界にたたずんでいる。どこまでも沈黙が重なり、自分の呼吸だけが鮮明になる。喘鳴が重なる、そのもどかしさが肺にとどまっていく。それを吐き出したい気持ちになって、無理に咳を出してみる。心地の悪さを反芻した。咳をした後、喉の奥にある乾いたスポンジに穴が空くような感覚に陥る。呼吸はままならず、一度出した咳に呼応するように、また咳を複数回と繰り返す。ごほごほと息苦しい感覚が続いていく。
苦しい感覚に嫌悪感を覚える。先ほどまで見ていた心地のいい夢は終わったようで、体の感覚がはっきりしている。体の中にある熱を反芻する。暑いような、寒いような。布団の中の温もりにとどまっていたいような気がするし、くぐもっているその空気から逃れたいような気もする。
絆されている熱から逃れるために、俺はかぶさっていた布団をのけるようにする。すっとしたさわやかな涼しさを感じるとともに、一気に寒くなった世界のせいで、身体全体に鳥肌が立つ。どちらにせよ心地が悪い感覚になるという事実に嫌気がさす。どうせならと、けだるさをまとった身体を起こそうと試みる、が。
「まだ寝てなよ」
そんな、声が聞こえてくる。
耳に馴染んでいる声。だが、皐のものではなく、幼馴染である愛莉のもの。
「起き上がりたい気分なんだ」
「寝言は寝て言いなさい」
俺は彼女の言葉に苦笑した。
「昔から翔也は体調悪くなりやすいよね」
うだる意識に溶けるように呟く皐の声が聞こえてくる。額には熱を冷ますように置かれた布の感触。嫌に潤いを認識してしまう。それに対して違和感を覚えるけれど、それを払いのけることはできない。
瞳を開くことはできず、どこまでも暗闇の世界の中に佇んでいる。そういった億劫さがある。まどろみの中で呆けていたいという欲望。そうすることが許されるのならばそうしていたい。深夜に眠れなかったというのもあるけれど、どこまでも重力は俺の背中を引きずり続け、体を起こすことはどこまでもできない。それを心地がいいといえば心地がいいのだろう。だが、起きなければいけないという焦燥感がある分、一種の地獄のような状況であるとも捉えることができてしまう。
仕事に行かなければならない。
ここ最近、あまりにも仕事を休むことが多すぎた。一週間ほど前までは高校との生活の両立で体調を崩した。この前は精神的な不安定が祟ってしまった結果、恭平に家に帰されることになってしまった。それでなくとも、昨日は紗良と会うためだけに早くに仕事を抜け出してしまっている。本当に今の仕事に対して向き合うことができていない。
こんな調子で良いわけがない。リズムが狂い始めていることを自覚する。すべての過程が傾くことで、その結末がすべて倒れるようなすべてを連想する。三半規管がぶれてしまう圧迫感。
なんとか体を起こそうとする。手に力が入らないから、肘を支点にして、背中を起き上がらせようと努力をする。だが「寝てなさい」という皐の声と共に、無理に床に、というか布団に押し付けられて、抵抗する間もなく俺は重力に従ってしまった。
「具合が悪いなら休むべき」と皐。
「そーだそーだ」とガヤのように言葉を繰り返す愛莉。
「恭平さんには連絡しておくから。翔也はそのまま寝ててよ」
「そーだそーだ」
皐の声に俺は頷くしかできない。便乗する愛莉の声に文句の一つもぶつけたくなるが、そうした気力は俺の中に残っていない。無駄に彼女らの息が合っていることに苦笑を浮かべるだけ浮かべて、俺は皐の言葉に甘えることにした。
いや、甘える他に選択肢はないのだ。それほどまでに身体は言うことを聞いてくれなかったから。
◆
どれくらいの時間、俺はそうしていたのだろうか。
時間を感じる感覚はすべて解けている。一瞬のようにも感じるし、長時間の間そうしていたようにも思う。
夢の中で過ごしているように、すべてがあやふやで現実感がない。
あらゆるすべてが俺に対して関心を持ち、そうして語りかけているような気がする。もしくは俺を無視して、世界は勝手に進行しているような気がする。
俺は主役であり、観客である。
観客という名の主役かもしれないし、主役という名の巻きゃっくかもしれない。それならば、誰かが話しかけてきてもおかしくはないし、誰かが話しかけてこないこともおかしいことではない。そのすべてがおかしいし、おかしくないとも思った。
「そろそろ行くから、きちんと休んでね」
心に馴染む声が聴こえてくる。その声を聞くだけで心に火がつくような熱を覚える。あやふやな意識で、それが誰なのかを考えることはできるが、把握することは難しい。
その声は「翔也をお願いね」と言葉を吐いた。それに返すように、ひとりの女性が「あいあいさー」と間延びした元気な声を出す。どれも馴染みのある声だ。安心感を覚える。こんな安定した心地を覚える夢はいつ以来だろうか。
「ありがとう」と言葉を吐きたくなった。何に対しての感謝なのかはわからない。久しぶりの、正しい意味での夢見心地にそんな言葉を選びたくなった。
俺には素直な感受性がない。それならば、夢の中でくらい、素直な言葉を吐くのは許されるような気がする。俺自身が俺を許すことができる。
「うん、行ってきます」
誰かは俺に対してそう声を吐いた。いってらっしゃい、と女性の声。俺もそれに重なりたかったが、意識は遠ざかっていく。つかんでいたすべてを手放す感覚を覚える。
そうして、世界は静かになった。
◆
静かな世界にたたずんでいる。どこまでも沈黙が重なり、自分の呼吸だけが鮮明になる。喘鳴が重なる、そのもどかしさが肺にとどまっていく。それを吐き出したい気持ちになって、無理に咳を出してみる。心地の悪さを反芻した。咳をした後、喉の奥にある乾いたスポンジに穴が空くような感覚に陥る。呼吸はままならず、一度出した咳に呼応するように、また咳を複数回と繰り返す。ごほごほと息苦しい感覚が続いていく。
苦しい感覚に嫌悪感を覚える。先ほどまで見ていた心地のいい夢は終わったようで、体の感覚がはっきりしている。体の中にある熱を反芻する。暑いような、寒いような。布団の中の温もりにとどまっていたいような気がするし、くぐもっているその空気から逃れたいような気もする。
絆されている熱から逃れるために、俺はかぶさっていた布団をのけるようにする。すっとしたさわやかな涼しさを感じるとともに、一気に寒くなった世界のせいで、身体全体に鳥肌が立つ。どちらにせよ心地が悪い感覚になるという事実に嫌気がさす。どうせならと、けだるさをまとった身体を起こそうと試みる、が。
「まだ寝てなよ」
そんな、声が聞こえてくる。
耳に馴染んでいる声。だが、皐のものではなく、幼馴染である愛莉のもの。
「起き上がりたい気分なんだ」
「寝言は寝て言いなさい」
俺は彼女の言葉に苦笑した。
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