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陸/傾き始める過程の線上
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◇
伊万里のか細くて震えた声は、周囲の喧騒に紛れて消えていく。だが、それにより紗良の動きは止まり、彼女の視線が伊万里に留まる。俺も吐かれた伊万里の言葉に注目して、紗良と同様に視線を移すけれど、二つの視線に動揺した彼女は、びくりと背筋を弾ませた後、怯えるように背中を縮こまらせた。
無茶だ、そう思ってしまう。
紗良のお願いについて、伊万里はそれを達成することができるか。それを考えるたびに無茶な事柄でしかないという思考が働いてしまう。最近は少しはマシになった吃りについて、新しく出会った人間に対しては改善されずに言葉が止まり、間延びをしてしまう。それでなくとも、この前まではコンビニでなにかを購入するということさえできなかった彼女が、大人数を前にして歌というパフォーマンスができるかと言われれば、やはり無茶だという思考がよぎる。
学校の中で、ある程度の人数というのであれば、きっとそれもかなうのかもしれない。十数人、もしくは数十人というハードルであれば、いずれ彼女は乗り越えることができるだろうと思う。時間を重ねれば、それに到達することはできるはずだと信じることができる。
ライブハウスにどれくらいの人間が入るのかは知らない。もしくは俺の創造よりも人数が少ないかもしれないし、多いのかもしれない。でも、ここで問題になるのは、初対面で動揺してしまう彼女が、初対面の人間でしかない客に対して、バンドメンバーとして行動できるか否かである。
無茶だ、無茶でしかない。俺にだってできないようなことだ。それを伊万里がやるなんて想像は、俺にはできない。
しばらくの沈黙が漂う。立ち上がろうとする紗良の静止した姿は、少し窮屈になったようで、諦めたようにまた椅子に座る。だが、彼女から言葉は生まれることはなく、ただ伊万里の言葉を待ち望んでいる。その瞳には期待も失望もなく、何も感じていない風景を見ているような視線。俺はそれに焦燥感似た気持ちを覚えてしまう。
この焦燥感は紗良に対してのものか、それとも伊万里に対してのものなのか、わからない。ただ、この場には結局沈黙しか生まれない。息を吐くのも躊躇うほどの真空の空気に、俺が介在して閑話をしたいという気持ちもあるものの、それをすることは許されない。
だって、言葉を吐いたのは伊万里だから。
その責任は彼女にあるのだから。
その責任を取るのは、きっと配慮でもなんでもなく、自己満足でしかないから。
「……待ってください」
「……いや、待ってるし」
吃ることなく、伊万里は言葉を吐き、それに紗良は淡々と言葉を吐く。
周囲の視線がこちらに注目しているような気もする。それで後ろを振り向きたい気持ちにも駆られる。でも、ここで伊万里から視線を逸らすのは、違うような気がする。
「え、ええと」
伊万里は沈黙を咀嚼して、そうして言葉を吐こうとする。躊躇っているのか、緊張をしているのかはわからない。でも、そこには吃りのような、彼女の性質のある言葉を感じない。極めて冷静に考えて言葉を吐いているような、そんな雰囲気がある。
「……私、正直、歌には自信があります」
伊万里は言葉を吐いた。
「ずっと、家で歌っていました。人前に見せたのは、この前の加登谷くんと高原さんが初めてでしたけれど、曲をずっと聴いてきたから、それについて音を合わせる技量もあると思います。きっと、私の歌唱力というものは素人同然のものかもしれません。でも、歌が上手いという自信があるからこそ、少し夢みたいなことも考えたことがあります」
「……夢?」と紗良は伊万里に言葉をつぶやく。
「すごく途方もない夢です。人に言えば馬鹿らしいと笑われる夢だと思います。加登谷君だって、私の夢……、というか絵空事を聞いたら、笑いはしないかもしれませんが、びっくりするかもしれません。それほどまでに突拍子はないし、現実性がないものです。きっと、それは本当に絵空事って感じのものだと思っています」
饒舌に、止まることなく、淡々と。
「私、人と話すことが苦手です。初対面の紗良さんも気づいたかもしれませんが、私には吃音症があります。人とかかわることが怖くて、去年から染みついてしまったものです。これを悪癖だと言ってしまえば、他の同じような人を馬鹿にするような、そんな言い方になるかもしれませんが、私はこれを悪癖だと思っています。毎日、眠るときに考えてしまいます。自分が今日関わった中で失敗はないか、なにか誤りがあったのではないか。そのたびに、そのたびに心が苦しくなります」
伊万里は、語り続ける。
「そんな時、音楽を、歌を聴くと救われた気分になります。……いえ、きっと救われた、というよりかは、目を逸らして気持ちだけ楽になっているんだと思います。どうしてコンビニで店員さんと話せなかったのだろう、どうして私は人に気持ちを伝えることができないのだろう、どうして私は家族とこうなってしまったのだろう。そんな後悔も、歌で全部見過ごしてきました。歌が上手いという自信は、見過ごした物事の数とも比例すると思います」
紗良は視線を伊万里に向け続ける。先ほどの風景を見るようなものではなく、個人として伊万里を視界に入れ続けている。俯瞰ではなく、当人を、当人自身が見ている。
「そんな歌の上手さを誇示するなんて、正直恥ずかしいじゃないですか。今まで目を逸らしてきたことを誇示するような、そんな歌唱力を人前で披露することは抵抗があります。……でも」
伊万里は言葉をつづけた。
「こんな私の歌声を綺麗だ、上手だ、と加登谷さんと高原さんは言ってくれました。その言葉を、私は嘘だと思いたくないです。思いたくはないんです」
だから、と伊万里は言葉を吐く。
「私でよければ、どうでしょうか。きっと、人前に出れば、いつもみたいに吃ってしまうだろうし、歌えなくなって逃げるかもしれませんし、何があるのか自分自身でもよくわかっていません。だから、保証はできないです。でも、そんな私でいいなら、お願いしても、いいですか」
伊万里は、地面を見ながら、そう言葉を吐いたのだった。
伊万里のか細くて震えた声は、周囲の喧騒に紛れて消えていく。だが、それにより紗良の動きは止まり、彼女の視線が伊万里に留まる。俺も吐かれた伊万里の言葉に注目して、紗良と同様に視線を移すけれど、二つの視線に動揺した彼女は、びくりと背筋を弾ませた後、怯えるように背中を縮こまらせた。
無茶だ、そう思ってしまう。
紗良のお願いについて、伊万里はそれを達成することができるか。それを考えるたびに無茶な事柄でしかないという思考が働いてしまう。最近は少しはマシになった吃りについて、新しく出会った人間に対しては改善されずに言葉が止まり、間延びをしてしまう。それでなくとも、この前まではコンビニでなにかを購入するということさえできなかった彼女が、大人数を前にして歌というパフォーマンスができるかと言われれば、やはり無茶だという思考がよぎる。
学校の中で、ある程度の人数というのであれば、きっとそれもかなうのかもしれない。十数人、もしくは数十人というハードルであれば、いずれ彼女は乗り越えることができるだろうと思う。時間を重ねれば、それに到達することはできるはずだと信じることができる。
ライブハウスにどれくらいの人間が入るのかは知らない。もしくは俺の創造よりも人数が少ないかもしれないし、多いのかもしれない。でも、ここで問題になるのは、初対面で動揺してしまう彼女が、初対面の人間でしかない客に対して、バンドメンバーとして行動できるか否かである。
無茶だ、無茶でしかない。俺にだってできないようなことだ。それを伊万里がやるなんて想像は、俺にはできない。
しばらくの沈黙が漂う。立ち上がろうとする紗良の静止した姿は、少し窮屈になったようで、諦めたようにまた椅子に座る。だが、彼女から言葉は生まれることはなく、ただ伊万里の言葉を待ち望んでいる。その瞳には期待も失望もなく、何も感じていない風景を見ているような視線。俺はそれに焦燥感似た気持ちを覚えてしまう。
この焦燥感は紗良に対してのものか、それとも伊万里に対してのものなのか、わからない。ただ、この場には結局沈黙しか生まれない。息を吐くのも躊躇うほどの真空の空気に、俺が介在して閑話をしたいという気持ちもあるものの、それをすることは許されない。
だって、言葉を吐いたのは伊万里だから。
その責任は彼女にあるのだから。
その責任を取るのは、きっと配慮でもなんでもなく、自己満足でしかないから。
「……待ってください」
「……いや、待ってるし」
吃ることなく、伊万里は言葉を吐き、それに紗良は淡々と言葉を吐く。
周囲の視線がこちらに注目しているような気もする。それで後ろを振り向きたい気持ちにも駆られる。でも、ここで伊万里から視線を逸らすのは、違うような気がする。
「え、ええと」
伊万里は沈黙を咀嚼して、そうして言葉を吐こうとする。躊躇っているのか、緊張をしているのかはわからない。でも、そこには吃りのような、彼女の性質のある言葉を感じない。極めて冷静に考えて言葉を吐いているような、そんな雰囲気がある。
「……私、正直、歌には自信があります」
伊万里は言葉を吐いた。
「ずっと、家で歌っていました。人前に見せたのは、この前の加登谷くんと高原さんが初めてでしたけれど、曲をずっと聴いてきたから、それについて音を合わせる技量もあると思います。きっと、私の歌唱力というものは素人同然のものかもしれません。でも、歌が上手いという自信があるからこそ、少し夢みたいなことも考えたことがあります」
「……夢?」と紗良は伊万里に言葉をつぶやく。
「すごく途方もない夢です。人に言えば馬鹿らしいと笑われる夢だと思います。加登谷君だって、私の夢……、というか絵空事を聞いたら、笑いはしないかもしれませんが、びっくりするかもしれません。それほどまでに突拍子はないし、現実性がないものです。きっと、それは本当に絵空事って感じのものだと思っています」
饒舌に、止まることなく、淡々と。
「私、人と話すことが苦手です。初対面の紗良さんも気づいたかもしれませんが、私には吃音症があります。人とかかわることが怖くて、去年から染みついてしまったものです。これを悪癖だと言ってしまえば、他の同じような人を馬鹿にするような、そんな言い方になるかもしれませんが、私はこれを悪癖だと思っています。毎日、眠るときに考えてしまいます。自分が今日関わった中で失敗はないか、なにか誤りがあったのではないか。そのたびに、そのたびに心が苦しくなります」
伊万里は、語り続ける。
「そんな時、音楽を、歌を聴くと救われた気分になります。……いえ、きっと救われた、というよりかは、目を逸らして気持ちだけ楽になっているんだと思います。どうしてコンビニで店員さんと話せなかったのだろう、どうして私は人に気持ちを伝えることができないのだろう、どうして私は家族とこうなってしまったのだろう。そんな後悔も、歌で全部見過ごしてきました。歌が上手いという自信は、見過ごした物事の数とも比例すると思います」
紗良は視線を伊万里に向け続ける。先ほどの風景を見るようなものではなく、個人として伊万里を視界に入れ続けている。俯瞰ではなく、当人を、当人自身が見ている。
「そんな歌の上手さを誇示するなんて、正直恥ずかしいじゃないですか。今まで目を逸らしてきたことを誇示するような、そんな歌唱力を人前で披露することは抵抗があります。……でも」
伊万里は言葉をつづけた。
「こんな私の歌声を綺麗だ、上手だ、と加登谷さんと高原さんは言ってくれました。その言葉を、私は嘘だと思いたくないです。思いたくはないんです」
だから、と伊万里は言葉を吐く。
「私でよければ、どうでしょうか。きっと、人前に出れば、いつもみたいに吃ってしまうだろうし、歌えなくなって逃げるかもしれませんし、何があるのか自分自身でもよくわかっていません。だから、保証はできないです。でも、そんな私でいいなら、お願いしても、いいですか」
伊万里は、地面を見ながら、そう言葉を吐いたのだった。
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