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伍/見えない道先の概算
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◇
解決できない気持ちを抱えながら、それでも帰路につくことしかできない。どこかの分かれ道で伊万里と別れ、皐と二人きりになる。
寄り道をしたい気分だった。皐と、というよりも、自分だけで。独りだけで。
でも、俺がこんなことを考えていることを悟られたくない。特に、皐に対してだけは。それをすることを選択したくない。だから、いつも通りを装うように、俺は彼女と歩幅を合わせながら家に向かう。
どうしようもない。やり場のない気持ち。それでも、俺たちは帰るしかない。そうして歩けば、数分ほどで家にたどり着く。違和感を覚えてしまうのは、遠くから見える社宅の姿。いつもだったら電灯はついていないはずの部屋に明るさが灯っていること。
よぎる現実感。夢であってほしいような、そんな幻想は些細なことで打ち壊される。それでも俺たちは気にしないように意識して、もしくは特に何も意識しないままに歩みを進めて、玄関の前までたどり着く。
いつもであれば、俺が先に部屋に入るはずだが、今日に限っては皐が扉を開けた。俺は扉の前で呆然としてしまわないように、家にたどり着いた瞬間に彼女へと鍵を渡した。皐は特に何か言及することはなく自然に受け取って、軋む扉の音が耳に届く。
「ただいまー」と皐は間延びした声をあげて家の中に入る。俺は数度ほど呼吸を整えてから、家を決して家の中に侵入する。
自分の家なのに、自分の家ではないような感覚。どこか、違うものが入っているというか、かすかに過ごしているいつもの匂いに混じっている空気が、頭にしみわたっていく。
皐の声に合わせて挨拶をしようと思った。だが、部屋の奥のほうにいた愛莉の「おかえりなさい」にかき消されて、俺は言葉を抑えることしかできない。
皐はそそくさと鞄をおろして中のほうへと入っていく。俺はいつもならしないのに、いちいち靴を整えたりして、時間を稼ぐように過ごす。中に入って時間が経過することが、俺にとっては恐怖でしかなかった。
ごそごそ、と居間のほうで物音が聞こえる。気にしなくていいことなのに、そういうことばかりが目について仕方がなくなる。
「なにやってたの?」
皐は愛莉にそう声をかけている。俺はいまだに中の様子を見ることができていない。ごそごそと音が聞こえるのは勝手に皐のものだと思っていたけれど、そうではないらしい。
パタン、という音が聞こえた。それは聞きなじみのある音だった。何かを閉じる音だった。
「んーん、なんにも!」
妙に含みのある声音だと思った。俺はその音と声が気になり、結局時間稼ぎにもならない行動をすぐにやめて、居間のほうへと向かう。数歩で居間について彼女らを視界に入れると、愛莉の傍らに置いてあったノートパソコンが目に入る。
俺の、ノートパソコン。
途端に嫌な予感が重なる。
俺の言葉が連なっているパソコン。その中に吐き出した言葉はどれだけ存在するだろう。今日だって吐き出した言葉がある。ここ最近はそれをすることはなかったけれど、去年一年で数えきれないほどの文章を書いていたはずだ。
吐き出すときに、何かしらの事実も語っているはずだ。
途端に心臓がきしむ。
今日はこんなことの連続だ。それが連続して、心臓が加速する感覚を覚えて仕方がない。耳鳴りを感じるような気もしてくる。それをどうにかすることができればいいが、人間の機能は容易ではない。俺は息を吐くことしかできなかった。
その息を聞いて、あっ、と愛莉は息を漏らす。
「違うんだよ? 携帯とかなくて暇だったから、なんか暇つぶし……、じゃなくて、お片付けとかして、このおうちに貢献しようかな、とか、そう思ってね? ほら、私、泊めてもらうわけだしさ! だから、部屋をお片付けしてたら、このパソコンが出てきたから、ついつい、みたいな?」
しどろもどろ、という雰囲気ではあるものの、そこに本当の彼女の焦りは見えてこない。どこか彼女の声音の中には、俺をからかうような意思も含有しているような気がする。俺がそう演出しているだけかもしれないが。
頭に過るのは嫌な想像ばかり。彼女が俺の文章を見たのではないか。そんなことに気を取られて仕方ない。
見たのか、と問いたい気持ちになる。だが、そうしてしまえば答えは明白になる。だから聞くことはできない。
「というか不用心過ぎない? 今時、パスワードもかけないなんて」
「……だって、私と翔也しか使わないし」
皐は愛莉の言葉にそう答えた。
きっと、他の、それも普通の人間であるのならばパスワードくらいはかけるのだろう。見られたくない秘密があるときにはかけておくべきなんだろう。共同している生活のなかで、見られたくないものがあるのならば、そうするのだろう。
だが、俺はそうしない。皐に対して、何か隠すようなことはしたくない。秘密なんてものがあっても、皐に対しては抱えたくないから、そうすることをしない。
……今日に限っては、そんな心情もボロボロではあるが。
だが、それでパスワードをかけなかったことが、今日については災いしてしまったような気がする。俺は静かに愛莉をにらみつけると、彼女は、うっ、と声を漏らしながら言葉を続ける。
「あ、あれだから! 健全な男子高校生のブックマークとか、履歴とかが気になっただけだから!」
「……それで、成果はあったのか?」
「……正直、健全過ぎて、なんか拍子抜けしました」
皐はそんな愛莉の言葉を聞いて、俺に対してニヤニヤとした視線を送り付ける。意味深長、というような表情。俺はそれから視線を逸らすことしかできなかった。
解決できない気持ちを抱えながら、それでも帰路につくことしかできない。どこかの分かれ道で伊万里と別れ、皐と二人きりになる。
寄り道をしたい気分だった。皐と、というよりも、自分だけで。独りだけで。
でも、俺がこんなことを考えていることを悟られたくない。特に、皐に対してだけは。それをすることを選択したくない。だから、いつも通りを装うように、俺は彼女と歩幅を合わせながら家に向かう。
どうしようもない。やり場のない気持ち。それでも、俺たちは帰るしかない。そうして歩けば、数分ほどで家にたどり着く。違和感を覚えてしまうのは、遠くから見える社宅の姿。いつもだったら電灯はついていないはずの部屋に明るさが灯っていること。
よぎる現実感。夢であってほしいような、そんな幻想は些細なことで打ち壊される。それでも俺たちは気にしないように意識して、もしくは特に何も意識しないままに歩みを進めて、玄関の前までたどり着く。
いつもであれば、俺が先に部屋に入るはずだが、今日に限っては皐が扉を開けた。俺は扉の前で呆然としてしまわないように、家にたどり着いた瞬間に彼女へと鍵を渡した。皐は特に何か言及することはなく自然に受け取って、軋む扉の音が耳に届く。
「ただいまー」と皐は間延びした声をあげて家の中に入る。俺は数度ほど呼吸を整えてから、家を決して家の中に侵入する。
自分の家なのに、自分の家ではないような感覚。どこか、違うものが入っているというか、かすかに過ごしているいつもの匂いに混じっている空気が、頭にしみわたっていく。
皐の声に合わせて挨拶をしようと思った。だが、部屋の奥のほうにいた愛莉の「おかえりなさい」にかき消されて、俺は言葉を抑えることしかできない。
皐はそそくさと鞄をおろして中のほうへと入っていく。俺はいつもならしないのに、いちいち靴を整えたりして、時間を稼ぐように過ごす。中に入って時間が経過することが、俺にとっては恐怖でしかなかった。
ごそごそ、と居間のほうで物音が聞こえる。気にしなくていいことなのに、そういうことばかりが目について仕方がなくなる。
「なにやってたの?」
皐は愛莉にそう声をかけている。俺はいまだに中の様子を見ることができていない。ごそごそと音が聞こえるのは勝手に皐のものだと思っていたけれど、そうではないらしい。
パタン、という音が聞こえた。それは聞きなじみのある音だった。何かを閉じる音だった。
「んーん、なんにも!」
妙に含みのある声音だと思った。俺はその音と声が気になり、結局時間稼ぎにもならない行動をすぐにやめて、居間のほうへと向かう。数歩で居間について彼女らを視界に入れると、愛莉の傍らに置いてあったノートパソコンが目に入る。
俺の、ノートパソコン。
途端に嫌な予感が重なる。
俺の言葉が連なっているパソコン。その中に吐き出した言葉はどれだけ存在するだろう。今日だって吐き出した言葉がある。ここ最近はそれをすることはなかったけれど、去年一年で数えきれないほどの文章を書いていたはずだ。
吐き出すときに、何かしらの事実も語っているはずだ。
途端に心臓がきしむ。
今日はこんなことの連続だ。それが連続して、心臓が加速する感覚を覚えて仕方がない。耳鳴りを感じるような気もしてくる。それをどうにかすることができればいいが、人間の機能は容易ではない。俺は息を吐くことしかできなかった。
その息を聞いて、あっ、と愛莉は息を漏らす。
「違うんだよ? 携帯とかなくて暇だったから、なんか暇つぶし……、じゃなくて、お片付けとかして、このおうちに貢献しようかな、とか、そう思ってね? ほら、私、泊めてもらうわけだしさ! だから、部屋をお片付けしてたら、このパソコンが出てきたから、ついつい、みたいな?」
しどろもどろ、という雰囲気ではあるものの、そこに本当の彼女の焦りは見えてこない。どこか彼女の声音の中には、俺をからかうような意思も含有しているような気がする。俺がそう演出しているだけかもしれないが。
頭に過るのは嫌な想像ばかり。彼女が俺の文章を見たのではないか。そんなことに気を取られて仕方ない。
見たのか、と問いたい気持ちになる。だが、そうしてしまえば答えは明白になる。だから聞くことはできない。
「というか不用心過ぎない? 今時、パスワードもかけないなんて」
「……だって、私と翔也しか使わないし」
皐は愛莉の言葉にそう答えた。
きっと、他の、それも普通の人間であるのならばパスワードくらいはかけるのだろう。見られたくない秘密があるときにはかけておくべきなんだろう。共同している生活のなかで、見られたくないものがあるのならば、そうするのだろう。
だが、俺はそうしない。皐に対して、何か隠すようなことはしたくない。秘密なんてものがあっても、皐に対しては抱えたくないから、そうすることをしない。
……今日に限っては、そんな心情もボロボロではあるが。
だが、それでパスワードをかけなかったことが、今日については災いしてしまったような気がする。俺は静かに愛莉をにらみつけると、彼女は、うっ、と声を漏らしながら言葉を続ける。
「あ、あれだから! 健全な男子高校生のブックマークとか、履歴とかが気になっただけだから!」
「……それで、成果はあったのか?」
「……正直、健全過ぎて、なんか拍子抜けしました」
皐はそんな愛莉の言葉を聞いて、俺に対してニヤニヤとした視線を送り付ける。意味深長、というような表情。俺はそれから視線を逸らすことしかできなかった。
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