妹とゆるゆる二人で同棲生活しています 〜解け落ちた氷のその行方〜

若椿 柳阿(わかつばき りゅうあ)

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伍/見えない道先の概算

5-1

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 登校する道中、俺は皐と会話をすることができなかった。俺に会話する気がないことを、彼女には悟られているのかもしれない。愛莉と会うまでに抱いていた会話したいという衝動は、すれ違ったという事実を抱えたことから、俺の中からすっかりと抜け落ちてしまった。

 きっと、皐が話しかければ、俺は相応に反応を返すことができるだろう。それが自然な反応なのだ。正常な意識を働かせようとしている今、返すことはできるはずだ。

 だが、皐は俺のほうを見ていなかった。口を開くことはなかったし、空を見上げて、静かに歩くことしかしていなかった。

 だからきっと、会話をする必要なんて特になかった。

 ここで、俺は彼女に対して何かを思うべきなのだろうか。思考が正常であれば何を思うべきなのだろうか。そして、この思考は本当に正常といえるものだろうか。そう振舞うことを意識したからと言って、すぐにそう切り替えられるものだろうか。その判断は自分で決められるものだろうか。その判断は誰かに決められるものだろうか。俺はそう演出しようとしているだけなのだろうか。そうだろうな、きっとそうでしかないのだろう。

 思考は正常だ、そう振舞うことを選択している。それがぶれなければ、愛莉と過ごしている間も、何かしらのボロを出すことはないはずだ。大丈夫である、はずだ。

 だから、どうでもいい。皐と会話をする必要性を考える必要はない。

 皐が出かけるときに、吐いていた言葉を理解しようと頭を働かせることもできたが、結局、俺はそれをすることはなかった。どこまでも静寂に包まれた闇の中で、街灯の光を視界に反芻するだけだった。





 人生で初めての遅刻だった。小学生の時のことはさすがに覚えていないが、中学生の時であれば、確かな遅刻をしたことはないはずだった。他人に叱られることに対して恐怖を覚えていた。だから、人には怒られないよう、慎ましく生きていたのだ。だからこそ、目の前の遅刻という初めての経験に対して、足を前に進めることが億劫になるけれど、そんなことはどうでもいいのかもしれない。

 過去のことなんてすべてゴミだ。過去の記憶なんて忘れてしまえたほうがいい。あらゆる過去には幸福なんてものは存在しない。生きるたびに残骸となる思い出を捨てることができたのなら、どれだけ楽なことだろう。いやな記憶が重なっている俺の人格は、すべて俺にとって不要なものでしかない。

 ……少し、自棄になっている自覚がある。

 落ち着きがない。どうにも正常な判断をしようとして、その行く先を見失っているような気がする。

 俺は、皐には気づかれないよう、校門をくぐる前に静かに息を吐いた。

 確か、遅刻をした時には職員室に行かなければならないはずだ。だが、正直、すぐに行く気にはならなかった。

「ごめん、ちょっとトイレ」と皐に声をかける。

「それなら私も」と彼女は返す。俺はその反応に戸惑ってしまった。なんとなく、俺は一人になりたい、という欲求を持っていたから。

 どうすればいいだろう、と思う。だが、吐き出した言葉を飲み込むことはできない。彼女がそうしたいのならば、そうすればいいだけで、俺はそれに干渉する権利を持たない。

 ああ、と彼女の言葉にうなずいて、下駄箱近くにあるトイレのほうに足を向ける。

 どうせ、後でも一人で考える時間はある。

 俺は、また深いため息をばれないように、薄く延ばして吐き切った。

 用を足す気もないのに、トイレの中。催すものはないし、何かをしたい気分にもならない。形態を見る気にはならないし、俺は適当に蛇口をひねって、水を出すだけの作業をした。

 冷たい水が皮膚に触れる。だが、この冷たさは不快なものではない。この冷たさに浸ることができたのならば、そんなどうでもいいことを考えてしまう。

 しばらく、といっても数瞬の間、それを繰り返す。そろそろ皐も出てくる頃合だと考えて、俺はひねった蛇口をしめて、トイレから出た。





 教室に入ろうとした瞬間にチャイムが鳴り響いた。教室の前方においてある時計を除けば、ちょうど一時間目が終わるころ合いで、気まずいながらも、担当していた教師と廊下で目が合う。俺と皐はそれに会釈をすると、少し開放的な雰囲気のある教室の中に入った。

 ガラガラと教室の引き戸を滑らせると、その音に注目する周囲の目がこちらに刺さる。だが、それも一瞬のことであり、俺たちだということがわかると、各々が取り組んでいることに視線を戻す。唯一、伊万里の視線はこちらをとらえ続けていて、彼女が会釈をしたのが目に入る。俺はそれに手をひょいとだけあげて、挨拶の代わりとした。

 入学してから一週間ほどはぎこちなかったはずのクラスの空気は、だんだんと緩和して、それぞれが友人といえるような関係性を見出しているようだった。俺たちで言えば、伊万里との関係性が同様のものだと思う。それぞれの空気管は作られているものの、中学生の時に感じていたクラスのカーストのようなものは、特に介在していなさそうだった。

 ぎこちないながらも、正しく行われる交友関係、きっと、こういうものが人間としては心地のいい環境なんだろう。俺は、そんなことを考えながら席に着く。俺が座るのと同時に、皐も席に着く。それを見計らったのか、伊万里もこちらのほうに歩いてくる。

「ええ、と」と伊万里はこちらにつくと、気まずそうな顔でそうつぶやいた。

「だ、大丈夫だったんですか?」

「ん」と俺は特に何も意識していないような、そんな反応を返す。

「あいつはただの幼馴染だよ。だから、何か問題があったわけではないんだ。だから、心配すんな」

 すらすらと言葉を吐くことができる。だが、こうした時の言葉は重みがないからこそ、他人であっても嘘だとわかるかもしれない。言葉を吐きながら、そんなことを考える。

 俺の言葉は信ぴょう性に足るものだろうか。それを保証するものはあるだろうか。よくわからない。だが、伊万里なら俺の嘘を見破ったとしても、特に突っつくような行動は起こさないだろう。

「……卑怯だな」

 俺は自然とそんな言葉を口走った。その言葉は誰にも拾われることはなく、今日も今日とて学校生活が始まるようだった。

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