上 下
40 / 88
参/夢見の悪さとその答え

3-6

しおりを挟む


 夢を見ている実感がある。夢を見ているという実感を覚えている限り、これは明晰夢でしかない。明晰夢でしかないはずなのに、俺は体を動かせなかった。

 そこはいつもの小劇場だった。特に誰かがいるわけでもなく、俺だけしかいないだけの静かな空間。非現実的な場所だからこそ湧いてくる現実じゃないという感覚の反芻。それなのに、俺はいつまでも行動をすることができなかった。

 小劇場の椅子に俺は座っている。固い感触のする背中の感触。腕は後ろ手に縛られており、足首でさえも縛られて動くことはできない。

 強制的に劇を見させられている気分。またこの夢か、という嫌悪感を抱きながら、俺は小劇場のステージを視界に入れた。

 気味の悪い人形、白く彩られたピエロの姿。ニヤついた笑みを浮かべているように見える化粧、だがその口元は何一つ歪みはなく真っすぐで、人形が真顔で俺を見つめているということに動揺をしてしまう。

「解け落ちた氷の行方はどこだろう」

 ──決まって、人形は俺にそう問いかけてくる。

「お前の居場所はどこだ。お前の行く先はどこだ。お前の行く先はあそこなのか。お前の居場所はあそこなのだろうか」

 あそこ。あそこ、という言葉を反芻して、脳内に過る場所を思い浮かべる。

 どこまでも埃臭かった空間。なんとか綺麗に整えたけれど、それでもこびりつくような臭いは拭っても取ることはできず、たまに咳が漏れてしまう空間。

 俺がそれを想像した瞬間に、夢の世界は切り替わる。俺の居場所がそこである、ということを示すように、そこは物理室に切り替わる。

 教師が使っている長テーブルの前に人形はいる。俺は授業を受けるときのように、生徒が座る背もたれのない椅子に座っていた。それでも体は縛られて動くことはできないのだけれど。

「ここが、お前の行く先なのだろうか」

 人形は語りかける。

「あらゆるすべてから無視を続けている。その上で起こった過程を良しとして、お前は前を向こうとしている。さて、それは正しいのだろうか。一部分の善行をしたからと言って、それは善人であるということができるのだろうか。それは倫理的に正しいのだろうか。解け落ちた氷の行く先として、それは正しい場所なのだろうか」

 人形はそう言葉を吐いた。俺はそれに対して嫌悪感を抱くことしかできなかった。

「解け落ちた氷の雫はどこまでも落ちていくだけだ。それが集合体を見せることはない。ひとつで落ちれば、いつかそれらは陽向の熱に浮かされて消えるだろう。複数で落ちたところで、出来上がった水たまりは地面に吸われて消えるだろう。お前たちが作り出した環境は結局のところ逃避しているだけの過程に過ぎないのではないだろうか。それで本当に生きているということができているだろうか。その行方は正しい場所なのだろうか」

「──うるせえよ」

 俺は、人形から視線を逸らそうとした。でも、視線を逸らすことはできず、身体はどこまでも固定されたままで、俺は言葉を吐くことしかできない。

「正しさとか、倫理とか、もう手遅れだろう。それを考えたところで、犯している過ちは消えることはないのだから。だから俺は前を向いていると自覚をしたい。人を支えることができているという自覚をもって、そうして氷の中の一部の人間であるということを錯覚したいんだ」

 ──本質を、吐いた。

 すべては人の真似ごとだ。人の真似ごとをして、俺が人として生きられていることを認識したいだけなのだ。それが罪だというのだろうか。きっと罪なのかもしれない。だが、振りかざした善行に偽善の気持ちはなくて、俺はやりたくてやっているだけなんだ。それをどうこう言われる筋合いはないはずなのだ。

 でも、これは俺の夢だ。俺の夢でしかないからこそ、これは俺の思考なのだ。

 人形も、俺も、この物理室も、すべて俺が作り出しているもの。

 この縛り付けている縄も、俺のものでしかない。

 俺は、俺を縛り付けることしかできないのだ。





 それから、眠ることはできなかった。

 眠る前は夜更かしをして、いつも以上に眠気が意識の中に孕んでいたはずなのに、そのすべては眠ることに対する嫌悪感で上書きをされた。

 体を起こして、ぼうっとする意識で隣を見つめる。

 いつも通り、そこにいてくれる皐の姿。寝息を静かに立てていて、きっといい夢を見ているのだろうと想像できるほどに、安らかな寝顔を見せてくれている。

 ……これでいい。

 どんな思考を抱いていても、なにかの思考で俺が縛り付けられていたとしても、今の俺の中には皐がいてくれる。俺はそれだけで──。

 ──それでも、いつか来る終わりを、俺は考えずにはいられないのだけれど。


しおりを挟む

処理中です...