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弐/偶然にも最悪な邂逅
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◇
誰かに昔巡りの調子を聞かれれば、調子はいいと返すことができるくらいには、精神の順調さを感じることができた。
昔の自分を思い出したからというわけではない。だが、昔の自分と今を比較することによって、そうして今を生きることの大切さに気付けた気がする。これを言葉にすれば、どこまでも嘘くさく、薄っぺらいものになるから詳細な表現はしない。
それでも心には重荷が存在しない。軽さがある。軽やかさがある。弾んで行けそうな感覚がある、もしくは羽ばたいてもいいくらいの突っかかりは取れている。心地良い気持ちが存在する。
「楽しそうだね」
皐は俺の手を握って、そう返した。
俺はそれに頷いて「今なら何でもできそうなんだ」と返した。実際にこの両手で切ることは限られているはずなのに、そんな陳腐なセリフを吐くことができた。それほどに今の状況について酔っているような気もするし、その状況について疑いを持つことはない。どこまでも自然なものだととらえることができる。
手をつないでいることにも違和感を覚えない。違和感を求めない。静かな脈動が彼女と重なる気がする。彼女の手の温もりと湿度しか感じないけれど、つないだ手に俺の鼓動は聞こえてくる。
「次はどこに行くの?」と皐は聞いてきた。
今の気分ならどこにだって行ける気はする。大事なものは手で抱えることができている。だから、思いつく限りに歩いて行っても俺の心は穏やかになると思う。
「とりあえず」と俺は言葉を吐いた。
「──昔、住んでいた家にでも行ってみるか」
一瞬、皐は暗い顔をしたけれど、それをかみ殺すような顔で無表情になった。無表情になった頬の固形の筋肉が動いて、それは笑顔になる。彼女が無理をしていることは言われるよりも明らかだった。
「……そうだよね」
皐はそう言葉を吐いて、そうして俺の歩調に合わせた。
そうだよね、という言葉の意図をとらえることは難しい。俺にも思うところはあるけれど、それは彼女と同一の感情ではないかもしれない。相似でもなく、合同なわけがない。似ている感情の要素はあるかもしれないけれど、それを比較することはできやしない。俺に彼女の気持ちはわからない。
「大丈夫だよ」
俺はいつかの彼女の言葉を思い出して、声に出して反復した。
「どうせ、見に行くだけだ。それ以上もないし、あそこには両親はいないんだから」
そう言葉を吐いて、自分がどれだけ両親というものを他人としてみているのかについて認識した。
……どうでもいい。
俺は俺で、皐と一緒に生きるだけなのだから。
◇
表札はなくなっていた。
家の彩については異なっていなかった。
どこまでも、以前と同一だった。
草木の管理の仕方はなっていなかった。適当な草の蔓が敷地外に出てきているのが見えた。
特に穴が開いているわけでもないし、寂れた雰囲気はない。
でも、どこか廃墟のような雰囲気を覚えるのは、自らそこに住んでいたという記憶が存在するからだろう。
それを見て、俺に憂いが存在することを心の中に確認してみる。
心の中は穏やかだ。穏やかなままだ。それでいい。穏やかならば、それ以上に何も感じる必要はない。
郷愁的要素は、この街に来た時に感じた。だから、それについては終わった。家族のことを振り返る要素についても終わった。公園でそれを成し遂げた。
もう、何も考える必要はないし、感じ取れるものは何も存在しない。
「……満足、した?」
皐は憂いを帯びるような、低い声でそう呟いた。
訝る様子はそこにはない。彼女はただひたすらにこの家から視線を逸らしている。
皐と父に何があったのかはわからない。聞いていないし、知ることが怖いという感覚もあるから聞かない。聞く気がない。俺自身も母についてあったことを話すのが怖いし、話さない。話す気はない。
だから、俺たちはまだ目を逸らしていることがあることを認識せずにはいられない。
でも、それで別に良いということを先ほど認識したはずだ。
それでも、皐のその視線の所以を知りたくなる感情から、目を逸らすことは──。
「──翔也?」
──翔也、と俺の名前を呼ぶ声がした。
皐のものではない。
家族のものではない。
他人のものでしかない。
他人ということは、俺と皐が兄妹と知っているかもしれない。
翔也、と誰かは言った。
視線を声の主に移す、映す、上書きする。視界はそれだけになる。
──本能だった。
見咎められることに対する恐怖を瞬間的に覚えた。
「──えっ」
そう声を上げたのは皐だった。その声をあげさせた原因は俺だった。
──手を離した。
何事もなかったかのように、俺は皐の手を握ることを、繋ぐことを辞めてしまった。
顔を見た。
以前とは異なって短くなっている髪。
切り出したようにまんまると見つめる藍色が宿る瞳。
昔見たような顔、昔見たような表情。
──昔遊んだ、友達の顔。
「……愛莉」
俺は、──そう彼女の名前を口に出した。
誰かに昔巡りの調子を聞かれれば、調子はいいと返すことができるくらいには、精神の順調さを感じることができた。
昔の自分を思い出したからというわけではない。だが、昔の自分と今を比較することによって、そうして今を生きることの大切さに気付けた気がする。これを言葉にすれば、どこまでも嘘くさく、薄っぺらいものになるから詳細な表現はしない。
それでも心には重荷が存在しない。軽さがある。軽やかさがある。弾んで行けそうな感覚がある、もしくは羽ばたいてもいいくらいの突っかかりは取れている。心地良い気持ちが存在する。
「楽しそうだね」
皐は俺の手を握って、そう返した。
俺はそれに頷いて「今なら何でもできそうなんだ」と返した。実際にこの両手で切ることは限られているはずなのに、そんな陳腐なセリフを吐くことができた。それほどに今の状況について酔っているような気もするし、その状況について疑いを持つことはない。どこまでも自然なものだととらえることができる。
手をつないでいることにも違和感を覚えない。違和感を求めない。静かな脈動が彼女と重なる気がする。彼女の手の温もりと湿度しか感じないけれど、つないだ手に俺の鼓動は聞こえてくる。
「次はどこに行くの?」と皐は聞いてきた。
今の気分ならどこにだって行ける気はする。大事なものは手で抱えることができている。だから、思いつく限りに歩いて行っても俺の心は穏やかになると思う。
「とりあえず」と俺は言葉を吐いた。
「──昔、住んでいた家にでも行ってみるか」
一瞬、皐は暗い顔をしたけれど、それをかみ殺すような顔で無表情になった。無表情になった頬の固形の筋肉が動いて、それは笑顔になる。彼女が無理をしていることは言われるよりも明らかだった。
「……そうだよね」
皐はそう言葉を吐いて、そうして俺の歩調に合わせた。
そうだよね、という言葉の意図をとらえることは難しい。俺にも思うところはあるけれど、それは彼女と同一の感情ではないかもしれない。相似でもなく、合同なわけがない。似ている感情の要素はあるかもしれないけれど、それを比較することはできやしない。俺に彼女の気持ちはわからない。
「大丈夫だよ」
俺はいつかの彼女の言葉を思い出して、声に出して反復した。
「どうせ、見に行くだけだ。それ以上もないし、あそこには両親はいないんだから」
そう言葉を吐いて、自分がどれだけ両親というものを他人としてみているのかについて認識した。
……どうでもいい。
俺は俺で、皐と一緒に生きるだけなのだから。
◇
表札はなくなっていた。
家の彩については異なっていなかった。
どこまでも、以前と同一だった。
草木の管理の仕方はなっていなかった。適当な草の蔓が敷地外に出てきているのが見えた。
特に穴が開いているわけでもないし、寂れた雰囲気はない。
でも、どこか廃墟のような雰囲気を覚えるのは、自らそこに住んでいたという記憶が存在するからだろう。
それを見て、俺に憂いが存在することを心の中に確認してみる。
心の中は穏やかだ。穏やかなままだ。それでいい。穏やかならば、それ以上に何も感じる必要はない。
郷愁的要素は、この街に来た時に感じた。だから、それについては終わった。家族のことを振り返る要素についても終わった。公園でそれを成し遂げた。
もう、何も考える必要はないし、感じ取れるものは何も存在しない。
「……満足、した?」
皐は憂いを帯びるような、低い声でそう呟いた。
訝る様子はそこにはない。彼女はただひたすらにこの家から視線を逸らしている。
皐と父に何があったのかはわからない。聞いていないし、知ることが怖いという感覚もあるから聞かない。聞く気がない。俺自身も母についてあったことを話すのが怖いし、話さない。話す気はない。
だから、俺たちはまだ目を逸らしていることがあることを認識せずにはいられない。
でも、それで別に良いということを先ほど認識したはずだ。
それでも、皐のその視線の所以を知りたくなる感情から、目を逸らすことは──。
「──翔也?」
──翔也、と俺の名前を呼ぶ声がした。
皐のものではない。
家族のものではない。
他人のものでしかない。
他人ということは、俺と皐が兄妹と知っているかもしれない。
翔也、と誰かは言った。
視線を声の主に移す、映す、上書きする。視界はそれだけになる。
──本能だった。
見咎められることに対する恐怖を瞬間的に覚えた。
「──えっ」
そう声を上げたのは皐だった。その声をあげさせた原因は俺だった。
──手を離した。
何事もなかったかのように、俺は皐の手を握ることを、繋ぐことを辞めてしまった。
顔を見た。
以前とは異なって短くなっている髪。
切り出したようにまんまると見つめる藍色が宿る瞳。
昔見たような顔、昔見たような表情。
──昔遊んだ、友達の顔。
「……愛莉」
俺は、──そう彼女の名前を口に出した。
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