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5/A Word to You.
5-6
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◇
「体調は……、大丈夫そうですね」
屋上にて、伊万里は俺の顔を改めて見て、興味もないように呟いた。
夏という季節、燦々と降り注ぐ日射については朝方よりも強くなっている。ましてや高所であるこの屋上では、地上での太陽は尚更に近い。
唯一と言える冷感を匂わせる風が屋上には吹いている。風を塞がない壁のない空間、少し五月蝿ささえ感じる風の強さは、鬱陶しいような気がしないでもない。半ば彼女の声もそれにかき消されるような、そんな感覚もする。
彼女の敬語に、皐の顔がちらつく。
伊万里の彼女は、去年の皐の雰囲気を思い出させる。
まるで、俺には興味を一切抱いていないような、そんな雰囲気。俺という存在から、人間から距離を取るためだけの敬語。
「──敬語、やめてくれるよう努力してくれる話だったよな」
──俺は、そんな敬語に踏み込むことにした。
俺は、止まることを選ばない。停滞することに躊躇をする。前に進むことには躊躇をしない。そうすることでしか前に進めない。一つの強迫観念のようなもの。今日しか俺は人に対して行動を起こすことしかできない。それができなければ、俺は明日を生きることさえもできない。
彼女は俺の言葉を咀嚼して、どこか面食らった表情をする。そんな表情を一瞬で隠して、取り繕った笑顔で俺を見つめる。
慈しみのあるような表情だと思う。
「そんなことも言いましたね。でも、今はこれでいいんじゃないですかね」
だが、その言葉には慈しみは存在しない。
諦観を抱いているような、そんな声音。何を言われてもどうでもいい、そんなことを考えているような声音。皐と同じような、未来を諦めたような声。彼女との距離感。
呼吸の音さえかき消される、風の副屋上で、静かに彼女はそう呟いた。
どこまでも、俺たちは静かだ。そんな中、心の中は一つの落ち着きも見せることはない。
こんな瞬間でも、彼女がどんな事を考えているのか、彼女のために用意するべき言葉はなにか、俺がするべきことはなにか、そんなことを考えている。
俺がしたいことはなんだ。俺が為したい結果はどこにある? 為したい結果のために俺はどうすればいいだろう。そればっかり考えて、次の行動を取ることはできない。
心臓が熱い。別に特殊な行動を起こすわけではないのに、耳にちらつく鼓動が鬱陶しい。夏というだけでは言い訳がつかないくらいに身体が熱い、暑い。汗がにじむ感覚がする。乾いた瞳に潤む汗の滴が痛くて仕方がない。
沈黙が耳元でこだまをする。彼女と俺の気まずさを思い出させるように、酸素をうまく吸えない感覚がする。呼吸をする空気が半分だけ。息が詰まる感覚がする。飲み込むことができない。何も、行動をすることができない。
「用件はそれだけですか? それなら、まだ昼食が残ってるので戻りますね」
彼女は、それだけ言って、俺から遠ざかろうとする。
足の向きが屋上の扉に向かった。
一つずつ、彼女の足は進んでいく。
こつん、こつん。
そんな足音が聞こえてくるような気がする。
風は吹いている。だから、そんな音は聞こえないはずなのに。
俺が、勝手にそう演出をしている。
……違う。この足音は──。
「──ダメだ」
──俺が歩き出した音だ。
◇
「え?」と彼女は足を止めた。
彼女は足を止めるしかなかった。俺が彼女の手を引いた。そんなことをしていいのか、自分でもわからなかったけれど、俺は彼女の手を引っ張った。
まるで、子供のようだ。何かをお願いするときに、大人の手を引く子供のよう。
本能でそれを行ってしまった。
──でも、そうするしかない。
それでいい。これでいい。
俺は、まだ彼女と話していないのだ。
「なあ、俺はお前にどんな言葉を吐けばいいと思う?」
「……知らないですよ、そんなこと」
「……だよな、俺にもわからないんだ」
俺は、溜息をついた。その手を引くのを止めた。
俺自身でさえ、どんな言葉を吐けばいいのかわからない。謝罪をすればいいわけじゃない、だからって上辺だけの言葉を吐くのには抵抗がある。
俺は心の底から会話をしたい。そうすることから始めないと、俺と彼女はずっと息苦しいままだ。
彼女は、足を止めた。
振り返って、俺の表情を見る。
「……泣きそうな顔」
彼女は、俺の顔を見てそう呟いた。
「……俺が?」
「はい、すごく泣きそうな顔をしています。まるで子供のような」
「……だって、俺はまだ子供だから仕方がないんだろう」
俺は言葉を続ける。
「大人だとか、子供だとか、そんなことを自覚できるほどに俺は利口じゃないんだ。自分自身の感情にさえ把握がつかないほどに俺は馬鹿なんだ。だから、俺はお前に対してどんな言葉を吐けばいいのか、未だにわかりはしないんだよ」
彼女は、息を呑んだ。
「でも」
俺は、言葉を吐かなきゃいけない。いいや、違う。言葉を吐きたいんだ。
言葉を交わさないと人とは分かり合えない。
俺が今まで言葉から逃げていたのは、人が怖くて仕方がなかったから。
愛莉も、皐も、伊万里も。彼女らに近づくのが怖くて、どこまでも踏み込むことができなかった。
正しさを振りかざさないと、そこに正当性がないように思えた。
だって、そうじゃないか。異性である彼女らに、俺はただ関わりたいというだけで関わるのは、背徳的でしかないじゃないか。倫理的ではないじゃないか。
正しさを求めたのは、結局のところは言い訳だ。言い訳を取り繕って、そうして俺は彼女らに踏み込もうとした。それが正当だと思ったから。
でも、その真たる芯にあるのは、俺の欲望だけだ。
いつまでも逃げていられない。
言葉を吐きださなければいけない。
頬が熱くなる感覚がする。
伊万里には許してもらえない、そんな予感がするからこそ、言葉を吐くことが怖くてしようがない。
でも。でも。でも。
「俺は、お前に言葉を伝えたいんだ」
俺は、そう吐き出した。
「体調は……、大丈夫そうですね」
屋上にて、伊万里は俺の顔を改めて見て、興味もないように呟いた。
夏という季節、燦々と降り注ぐ日射については朝方よりも強くなっている。ましてや高所であるこの屋上では、地上での太陽は尚更に近い。
唯一と言える冷感を匂わせる風が屋上には吹いている。風を塞がない壁のない空間、少し五月蝿ささえ感じる風の強さは、鬱陶しいような気がしないでもない。半ば彼女の声もそれにかき消されるような、そんな感覚もする。
彼女の敬語に、皐の顔がちらつく。
伊万里の彼女は、去年の皐の雰囲気を思い出させる。
まるで、俺には興味を一切抱いていないような、そんな雰囲気。俺という存在から、人間から距離を取るためだけの敬語。
「──敬語、やめてくれるよう努力してくれる話だったよな」
──俺は、そんな敬語に踏み込むことにした。
俺は、止まることを選ばない。停滞することに躊躇をする。前に進むことには躊躇をしない。そうすることでしか前に進めない。一つの強迫観念のようなもの。今日しか俺は人に対して行動を起こすことしかできない。それができなければ、俺は明日を生きることさえもできない。
彼女は俺の言葉を咀嚼して、どこか面食らった表情をする。そんな表情を一瞬で隠して、取り繕った笑顔で俺を見つめる。
慈しみのあるような表情だと思う。
「そんなことも言いましたね。でも、今はこれでいいんじゃないですかね」
だが、その言葉には慈しみは存在しない。
諦観を抱いているような、そんな声音。何を言われてもどうでもいい、そんなことを考えているような声音。皐と同じような、未来を諦めたような声。彼女との距離感。
呼吸の音さえかき消される、風の副屋上で、静かに彼女はそう呟いた。
どこまでも、俺たちは静かだ。そんな中、心の中は一つの落ち着きも見せることはない。
こんな瞬間でも、彼女がどんな事を考えているのか、彼女のために用意するべき言葉はなにか、俺がするべきことはなにか、そんなことを考えている。
俺がしたいことはなんだ。俺が為したい結果はどこにある? 為したい結果のために俺はどうすればいいだろう。そればっかり考えて、次の行動を取ることはできない。
心臓が熱い。別に特殊な行動を起こすわけではないのに、耳にちらつく鼓動が鬱陶しい。夏というだけでは言い訳がつかないくらいに身体が熱い、暑い。汗がにじむ感覚がする。乾いた瞳に潤む汗の滴が痛くて仕方がない。
沈黙が耳元でこだまをする。彼女と俺の気まずさを思い出させるように、酸素をうまく吸えない感覚がする。呼吸をする空気が半分だけ。息が詰まる感覚がする。飲み込むことができない。何も、行動をすることができない。
「用件はそれだけですか? それなら、まだ昼食が残ってるので戻りますね」
彼女は、それだけ言って、俺から遠ざかろうとする。
足の向きが屋上の扉に向かった。
一つずつ、彼女の足は進んでいく。
こつん、こつん。
そんな足音が聞こえてくるような気がする。
風は吹いている。だから、そんな音は聞こえないはずなのに。
俺が、勝手にそう演出をしている。
……違う。この足音は──。
「──ダメだ」
──俺が歩き出した音だ。
◇
「え?」と彼女は足を止めた。
彼女は足を止めるしかなかった。俺が彼女の手を引いた。そんなことをしていいのか、自分でもわからなかったけれど、俺は彼女の手を引っ張った。
まるで、子供のようだ。何かをお願いするときに、大人の手を引く子供のよう。
本能でそれを行ってしまった。
──でも、そうするしかない。
それでいい。これでいい。
俺は、まだ彼女と話していないのだ。
「なあ、俺はお前にどんな言葉を吐けばいいと思う?」
「……知らないですよ、そんなこと」
「……だよな、俺にもわからないんだ」
俺は、溜息をついた。その手を引くのを止めた。
俺自身でさえ、どんな言葉を吐けばいいのかわからない。謝罪をすればいいわけじゃない、だからって上辺だけの言葉を吐くのには抵抗がある。
俺は心の底から会話をしたい。そうすることから始めないと、俺と彼女はずっと息苦しいままだ。
彼女は、足を止めた。
振り返って、俺の表情を見る。
「……泣きそうな顔」
彼女は、俺の顔を見てそう呟いた。
「……俺が?」
「はい、すごく泣きそうな顔をしています。まるで子供のような」
「……だって、俺はまだ子供だから仕方がないんだろう」
俺は言葉を続ける。
「大人だとか、子供だとか、そんなことを自覚できるほどに俺は利口じゃないんだ。自分自身の感情にさえ把握がつかないほどに俺は馬鹿なんだ。だから、俺はお前に対してどんな言葉を吐けばいいのか、未だにわかりはしないんだよ」
彼女は、息を呑んだ。
「でも」
俺は、言葉を吐かなきゃいけない。いいや、違う。言葉を吐きたいんだ。
言葉を交わさないと人とは分かり合えない。
俺が今まで言葉から逃げていたのは、人が怖くて仕方がなかったから。
愛莉も、皐も、伊万里も。彼女らに近づくのが怖くて、どこまでも踏み込むことができなかった。
正しさを振りかざさないと、そこに正当性がないように思えた。
だって、そうじゃないか。異性である彼女らに、俺はただ関わりたいというだけで関わるのは、背徳的でしかないじゃないか。倫理的ではないじゃないか。
正しさを求めたのは、結局のところは言い訳だ。言い訳を取り繕って、そうして俺は彼女らに踏み込もうとした。それが正当だと思ったから。
でも、その真たる芯にあるのは、俺の欲望だけだ。
いつまでも逃げていられない。
言葉を吐きださなければいけない。
頬が熱くなる感覚がする。
伊万里には許してもらえない、そんな予感がするからこそ、言葉を吐くことが怖くてしようがない。
でも。でも。でも。
「俺は、お前に言葉を伝えたいんだ」
俺は、そう吐き出した。
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