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2/Hypocrite
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◇
「ずっと、待ってたんですよ」
「……誰を?」
「わかってるくせに」
伊万里はやはり不服そうな顔を崩さないままに俺に返す。
彼女は一度ため息をついてから、扉を後ろ手で閉める。適当に座り込んでいる俺との距離感を近くして、そうして彼女は塩ビで敷かれている床に座った。
「会長の手伝い、していたんですよね」
「……ああ」
「昼食の時、会長が物理室に来て、そのことを伝えてくれました。ポスターについてのこととか、会長が謝ってくれました」
「……」
「教師に申請が遅れたから、ポスターについては今回は厳しいかもしれない、会長はそう言ってました」
……してやられた気がする。
「でも、不思議ですよね。ポスターは剝がされたと思っていたのに、綺麗に残っているんですから」
「不思議なもんだな。誰かのおかげかもしれないな」
「そうですね。あからさまに誰かのおかげですね」
くすくす、と彼女は揶揄うように笑った。そこで具体的な名前を出さないことは優しさなのか、それとも布石なのか、俺にはわからない。
「でも、どうして剥がさなかったんでしょうね。わたし、不思議で仕方ないです」
「なんでなんだろうな。俺にもそいつのことがよくわからないや」
俺は、適当に返事をした。
……脇腹をつつかれる。結構痛い。
「どうして、剝がさなかったんですか」
「……なんとなく?」
「なんとなくですか」
「そうだ、なんとなくだ」
きっと、なんとなくだ。
なんとなく、という言葉はどこまでも便利だ。責任から逃れるときに、そんな気持ちであったと表示すれば、それだけで納得させる材料として成立する。
人の感情なんてよくわからないから。ごちゃ混ぜにしか存在しないから。だから、なんとなく、という言葉は正しくないようで、どこまでも正しい人の感情だ。
あの時の俺の行動は、なんとなく、なのかもしれない。
正しさとか、偽善だとか、目を逸らしたこととか、あらゆるすべてが、“なんとなく”なんだ。
「なんとなくなら、しょうがないかもしれませんね」
「そうだな、しょうがないかもしれないな」
彼女は、いつものように肯定してくれる。いつか交わした会話のような、そんな雰囲気を思い出す。彼女と過ごす時間は心地がいい。
いろいろなことを考えすぎなのだ。考えすぎて、人と関わるから、愛莉と皐、それらに関わることが億劫になる。
帰りの時間をわざわざ遅らせて、そうするための理由まで作り上げて、そうして人との距離を遠ざけるのは、それが理由だ。それが理由になってしまう。
「なあ」と俺は彼女に言った。彼女は俺の顔をとらえて、なんですか、と聞いてくる。俺は、雑談でもしないか、と提案した。彼女は藪から棒ですね、と返した。俺もそうだと思う。
「天体距離って知ってます?」
「地球から離れている惑星というか、天体までの距離」
「すごいですね。正解です。賢いですね」
「棒読みじゃねぇか。それがなんなんだよ」
「いやあ、科学同好会として、きちんと科学に精通しているのかのテストでした。こんなのは序の口でしたかね」
「……そもそも、天体距離っていう概念がそのままなのに、それで賢いと言われても腹が立つ」
「よしよし、高原くんは賢いですよー」
「馬鹿にすんなよ。というか、天体距離がなんなんだって」
俺が少し怒ってる雰囲気で彼女は返すと、空に指をさした。
青空の上。まだ夜でもないのに、月が少し外れた場所に見えている。
「地球の衛星とされている月との天体距離、知っていますか?」
「……知らない」
「三十八万キロメートルらしいです。すごく遠くないですか」
「まあ、すごいな」
三十八万キロメートル。おおよそ地球では使うことのない距離単位だ。
「普通の車で走っていくとするじゃないですか。時速六十キロだと想定して、単純な計算をすると二百六十四日かかるらしいです。これってものすごくないですか」
「……うん、すごいと思う」
「スポーツカーとかで行っても、おおよそ百日はかかるんです。それほどまでに離れているのに、そんな月に着陸した人類がいることも、私、すごいと思うんです」
彼女の瞳はきらきらと光っている。
「本当に、宇宙が好きなんだな」
「好きですよ。だって楽しいじゃないですか」
彼女は楽しそうに語る。
「宇宙はずっと大きくなっているらしいんです。光よりも早い速度で。そんな宇宙の外側には何があるのかなって、想像すると楽しいんです。寝る間際に考えて、そうして私なりの宇宙を完成させると、いつの間にか朝になってることがあります」
「きちんと寝ろよ。身長が伸びないぞ」
「うるさいですね。余計なお世話です」
彼女はふん、と顔を逸らしながらも、楽しそうな風体を崩さない。
「わたし、いつか科学同好会で天体観測がしたいです」
彼女は語る。
「みんなで夜まで学校に残って、おしゃべりとかして、高原くんが変な冗談を言っているのを横目に見ながら、みんなで望遠鏡のセッティングとかしたりして、夜は怖い映画を見て震えたり、屋上に昇って綺麗な星を眺めたり。
わたし、そのために頑張りたいです」
彼女は、そう言って、俺に何かを渡す。
俺は、彼女が持っているものを一瞬理解することができなかった。そもそも彼女が何かを持っていることさえ理解できなかった。
「一緒に、勧誘活動、頑張りましょうね」
そうして彼女が俺に対して渡してきたのは、──科学同好会のポスター。
「……お前」
なにか、言葉が出そうになった。
でも、それはやめておいた。
「──ああ、頑張ろうな」
きっと、彼女なりに前を向こうとしているのだ。人と関わることに対して。
それなら、俺から言うべきことは何もない。
「ずっと、待ってたんですよ」
「……誰を?」
「わかってるくせに」
伊万里はやはり不服そうな顔を崩さないままに俺に返す。
彼女は一度ため息をついてから、扉を後ろ手で閉める。適当に座り込んでいる俺との距離感を近くして、そうして彼女は塩ビで敷かれている床に座った。
「会長の手伝い、していたんですよね」
「……ああ」
「昼食の時、会長が物理室に来て、そのことを伝えてくれました。ポスターについてのこととか、会長が謝ってくれました」
「……」
「教師に申請が遅れたから、ポスターについては今回は厳しいかもしれない、会長はそう言ってました」
……してやられた気がする。
「でも、不思議ですよね。ポスターは剝がされたと思っていたのに、綺麗に残っているんですから」
「不思議なもんだな。誰かのおかげかもしれないな」
「そうですね。あからさまに誰かのおかげですね」
くすくす、と彼女は揶揄うように笑った。そこで具体的な名前を出さないことは優しさなのか、それとも布石なのか、俺にはわからない。
「でも、どうして剥がさなかったんでしょうね。わたし、不思議で仕方ないです」
「なんでなんだろうな。俺にもそいつのことがよくわからないや」
俺は、適当に返事をした。
……脇腹をつつかれる。結構痛い。
「どうして、剝がさなかったんですか」
「……なんとなく?」
「なんとなくですか」
「そうだ、なんとなくだ」
きっと、なんとなくだ。
なんとなく、という言葉はどこまでも便利だ。責任から逃れるときに、そんな気持ちであったと表示すれば、それだけで納得させる材料として成立する。
人の感情なんてよくわからないから。ごちゃ混ぜにしか存在しないから。だから、なんとなく、という言葉は正しくないようで、どこまでも正しい人の感情だ。
あの時の俺の行動は、なんとなく、なのかもしれない。
正しさとか、偽善だとか、目を逸らしたこととか、あらゆるすべてが、“なんとなく”なんだ。
「なんとなくなら、しょうがないかもしれませんね」
「そうだな、しょうがないかもしれないな」
彼女は、いつものように肯定してくれる。いつか交わした会話のような、そんな雰囲気を思い出す。彼女と過ごす時間は心地がいい。
いろいろなことを考えすぎなのだ。考えすぎて、人と関わるから、愛莉と皐、それらに関わることが億劫になる。
帰りの時間をわざわざ遅らせて、そうするための理由まで作り上げて、そうして人との距離を遠ざけるのは、それが理由だ。それが理由になってしまう。
「なあ」と俺は彼女に言った。彼女は俺の顔をとらえて、なんですか、と聞いてくる。俺は、雑談でもしないか、と提案した。彼女は藪から棒ですね、と返した。俺もそうだと思う。
「天体距離って知ってます?」
「地球から離れている惑星というか、天体までの距離」
「すごいですね。正解です。賢いですね」
「棒読みじゃねぇか。それがなんなんだよ」
「いやあ、科学同好会として、きちんと科学に精通しているのかのテストでした。こんなのは序の口でしたかね」
「……そもそも、天体距離っていう概念がそのままなのに、それで賢いと言われても腹が立つ」
「よしよし、高原くんは賢いですよー」
「馬鹿にすんなよ。というか、天体距離がなんなんだって」
俺が少し怒ってる雰囲気で彼女は返すと、空に指をさした。
青空の上。まだ夜でもないのに、月が少し外れた場所に見えている。
「地球の衛星とされている月との天体距離、知っていますか?」
「……知らない」
「三十八万キロメートルらしいです。すごく遠くないですか」
「まあ、すごいな」
三十八万キロメートル。おおよそ地球では使うことのない距離単位だ。
「普通の車で走っていくとするじゃないですか。時速六十キロだと想定して、単純な計算をすると二百六十四日かかるらしいです。これってものすごくないですか」
「……うん、すごいと思う」
「スポーツカーとかで行っても、おおよそ百日はかかるんです。それほどまでに離れているのに、そんな月に着陸した人類がいることも、私、すごいと思うんです」
彼女の瞳はきらきらと光っている。
「本当に、宇宙が好きなんだな」
「好きですよ。だって楽しいじゃないですか」
彼女は楽しそうに語る。
「宇宙はずっと大きくなっているらしいんです。光よりも早い速度で。そんな宇宙の外側には何があるのかなって、想像すると楽しいんです。寝る間際に考えて、そうして私なりの宇宙を完成させると、いつの間にか朝になってることがあります」
「きちんと寝ろよ。身長が伸びないぞ」
「うるさいですね。余計なお世話です」
彼女はふん、と顔を逸らしながらも、楽しそうな風体を崩さない。
「わたし、いつか科学同好会で天体観測がしたいです」
彼女は語る。
「みんなで夜まで学校に残って、おしゃべりとかして、高原くんが変な冗談を言っているのを横目に見ながら、みんなで望遠鏡のセッティングとかしたりして、夜は怖い映画を見て震えたり、屋上に昇って綺麗な星を眺めたり。
わたし、そのために頑張りたいです」
彼女は、そう言って、俺に何かを渡す。
俺は、彼女が持っているものを一瞬理解することができなかった。そもそも彼女が何かを持っていることさえ理解できなかった。
「一緒に、勧誘活動、頑張りましょうね」
そうして彼女が俺に対して渡してきたのは、──科学同好会のポスター。
「……お前」
なにか、言葉が出そうになった。
でも、それはやめておいた。
「──ああ、頑張ろうな」
きっと、彼女なりに前を向こうとしているのだ。人と関わることに対して。
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