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第三章 灰色の対極

3-2 左手を見せなさい

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 非現実的事象は、現実に対して上書きをするものだからこそ、否定されるべき存在である。魔法とは本来嘘の存在であり、真なるものを求める世界であるならば、それは浄化し、消し去らなければいけない。その衝動が反発の性質であり、その本質が浄化作用なのだ。

 いつもなら劣等感が僕に呟いていたこと。ありえないものを肯定しようとする自分に対して反作用として生まれた劣等感とは言えない本質といえる何か。最近は、そんな感情も静かになって、結局、僕は孤独に生きている。

 「最近、夜出かけないのね。葵ちゃんと喧嘩でもしたの?」

 母がそう問いかけてくる。

 「喧嘩も何もしていないよ」

 本当にそうだから、僕はそんな言葉を返すしかない。

 ──天使の時間以来、僕は魔法教室に行くことをしていない。言ってもいいのだろうが、どうせ魔法を使うことができないという認識がどうにも拭えないので、僕はとうとうそこに行くことをやめた。

 ナイフについても、持ち合わせる意味がないことに気づいてからは持たないようにしているけれど、身近で作り上げた習慣だから、僕は未だに手元にナイフを潜ませることをやめることができていない。

 これは、しがみついているようなものだ。どこか夢であってほしいという気持ちがナイフに宿って、僕はそうしていつまでも縛られるようにナイフを持ち歩いている。それが、みっともなくてどうしようもない。僕は魔法使いという存在ではないはずなのに。

 ──あれから、僕は天音に会うことさえもしていない。彼女に聞けば、自分の正体がわかるはずだと、そう理解していたはずなのに、いざ自分の正体がわかるとなると、どこまでも臆病な行動をとってしまう。自分自身の正体を知らないから怖いのに、自分自身の正体でさえ怖いのだから、本当にどうしようもない。

 「──最近、何かあった?」

 母が僕にそう声をかけてくる。

 言葉に返すことはなく、頭の中で思考を反芻する。

 いろんなことがあった。一度は死んだ命を、葵によって生かされ、そして魔法使いだと思う存在になった。でも、結局、魔法を使うことはいつまでもできずに、現実を拒否したくなる衝動で非現実的事象を反発する。

 その結果、天原を傷つけることになったり、葵に心配をかけてしまったり。でも、その反発で天使の時間を止めることもできた。

 本当に、いろんなことがあった。

 たった数か月しか経っていないのに、どこか自分の人生を振り返るように濃密な期間だったように思う。でも、その期間で自分自身の存在を疑って、足元が崩れるような不安定感を覚えずにはいられなくなってしまった。

 「──僕は、僕なのかな」

 返すべき言葉はそんなものではないはずなのに、いろいろな思考が、思索がまわったせいで、心の隅にあった本質のような感情が口から出てきた。

 その答えは、誰も知ることはできない。いや、きっと天音ならそれを知っているのだろうが、それに向き合う気力は、気持ちは、自身はもうないのだ。

 「何言ってるのよ、環は環じゃないの」

 母は何も知らないから、そんなことを返す。中学生の時にも同じような会話をしたような気がする。

 自己の所在を認識できないときには、他人をもって自己の所在を証明する。友達がいない僕には、母と葵しか頼る存在はなく、そんなことを二人に聞いた気がする。

 でも、あの時とは状況がまるで違う。

 ただの想像ではなく、確かに自分の中に他人が済んでいる印象。自分の体が誰かに動かされている衝動のような何か。それを知っているからこそ、そんな問いが生まれて、消えることはない。

 「──そっか、ありがと」

 軽口でそう返す。

 ──母も、何かを隠している。天音と同じように何かを知っている。だから、そこまで深く口にすることはできない。

 でも、母が知っているのならば、僕は問うべきなのではないだろうか。天音に聞くことが怖いのならば、母に聞けば、その恐怖心は紛れるのだろうか。

 「ねえ母さん」

 母は、なあに、と間延びした声で返事をする。聞いていいのかわからないこと。でも、軽い雑談のような雰囲気ならば、許されるような気がしないでもない。だから、問う。

 「──天使って、いると思う?」

 雑なフリ、雑な会話。高校生だったらするかもしれない、幻想のような話。だから、それで判断をすることにすればいいと、僕は声をかけた。

 そう、踏み出してしまった。

 「──なんで、そんなこと聞くの?」

 躊躇ったような間をおいて、母から声が返ってくる。その声音は恐る恐ると言わんばかりで、弥な予感がして仕方がない。

 「──いいや、なんとなく」

 そう返すしかない。そう返すしかない。そこから先に踏み出せば、どこか戻れない感覚がしたから。

 「環、あんた……」

 「ごめん、明日も学校だから、もう寝るよ」

 母が何かを言いかけたけれど、聞こえないふりをして僕は寝室に行く。

 何かが瓦解していく感覚。この先に道などないのに、僕はどこにも行けずに佇んでいる。それを自分自身で許している。

 「──待ちなさい」

 でも、踏み出してしまったからには、もう戻れないのだ。

 「左手を見せなさい」

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