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第一章 灰色の現実

1-18 灰色の選択

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 「──氷?!」

 そこには確かに氷があった。氷といっても身近で見るブロックや球体のような立体的なものではなく、刃と言えるような面上の物体。天原の目の前からそれが勢いよく射出されて、空間の奥で速度を失い床に落ちていく。遠い距離で落ちたはずの氷の刃は砕けることもなく、ただそこに点在している。

 ……マジかよ。あんなに遠い距離まで飛んでいく勢いで射出される氷の刃、砕けることもないほどの硬度のある其れをまともに喰らってしまえば、確実に身体の一部分を消失する。

 魔法使いの身体については丈夫であるということは認識している。あらゆる失血をしても確実にふさがるその体は、相当のことがなければ死ぬ、ということはないだろう。

 ──だが、身体の部位を喪失した場合はどうだ?そこから再生するのだろうか。傷口がふさがることはあるのだろうか。もし、ふさがらずにそのまま喪失してしまったら?

 嫌な想像が這い寄るように頭を蝕んでいく。

 模擬戦闘、とは言いつつも、彼は本気だ。僕もそれを望んでいるのだから、この戦闘は模擬戦闘であると言いつつも、確実に殺し合いに近い。安全などない。リスクだけが付きまとう戦闘。だからこそ、僕もある程度の覚悟をしなければいけない。

 転んだ身体を、今の自分にできる限り早く起こして、立ち上がる。それと同時と言わんばかりに、視界の隅で天原が立ち上がるのが見えた。

 この状況はよくない。近くに行ってナイフを取り上げたとしても、左手にある刃の指輪は対処できるだろうか。ナイフを取り上げた後、その後に来るであろう氷の刃を、僕は次は避けることができるだろうか。

 思考を加速させる。きっと、それほどまでに思考は加速はしていないだろうけれど、それでも考えられることを考える。

 なんとか指輪をとる方法。そうして想像したものは彼の親指を、手持ちのナイフで切り落とすこと。だけれども、そんな想像をする自分が気持ちが悪い。そんなことを容易く想像できてしまった自分が、どこまでも気持ちが悪い。

 ──本当にそうか?

 心の中にある内なる自分が、加速した頭の中で問いかける。

 ──あいつは間違いなくお前を殺そうとしている。お前の身体を破壊しようとしている。それなのに、お前はそれを気持ち悪いと言わずに、自分の行為だけを否定するのか?

 劣等感が、心で躍る。

 ──魔法使いなど殺してしまえ。お前の劣等感を強くさせる存在など、お前には何一つ必要がないだろう。

 殺せ、殺せ、殺せ。お前の存在を否定するすべてのものは、壊してしまえば、殺してしまえば楽になる。

 だから、僕は選択するべきだ。

 ──そうだ。お前は魔法使いを殺すことを選択しなければいけない。

 そうであるのならば、──ああ、そうであるのならば。

 僕は僕で行動するだけだ。







 間合いを取ろうとする天原の距離感を、足が砕けるほどの勢いで床を蹴って近づいていく。それで骨が軋む音が身体全体に響いている、痛さが、鈍痛が、一瞬ですべてに対する行動の否定をとろうとするが、意識がそれを許さない。

 弾丸のように飛んでいき、そして天原の距離はもう眼前に。ナイフに意識を向けず、身体を切り刻む事だけを意識して、僕はポケットの中にあるナイフを取り出して、刃を切り出す。

 『──Enos Dies我、希う,』

 同じことの繰り返し。どこまでいっても、魔法使いは詠唱することでしか魔法を発動することはできない。だからこそ、そのタイミングとなるものについてはすぐにわかる。

 ──だが、この魔法使いの弾丸の射出する速度についていけるだろうか。加速しない意識の中で、その弾丸を避けることはできるだろうか。

 ──要は意識を加速させればいい。意識を加速させる方法ならば、僕は既に知っているだろう。

 「Dicht氷の……!?」

 天原は目の前にいる僕の行動に意識がそれて詠唱を止めた。

 そこまで驚くことでもないだろう。どこまでも人間にも魔法使いにもなれない化け物が取れる、意識を加速させる一つの方法。

 ──僕は、ナイフで自分の首に赤い線を描いた。

 葵を助けるときに経験した、加速する意識の感覚。死という感覚を前にして、劣等感を抱きながらゆっくりと歩んだ時間の流れ。その流れに身を浸しながら、射出されるかもしれない氷の刃に意識を向けて、僕は彼の指に目を向ける。

 ──切り落とすなら今しかない。詠唱を止めた彼には今隙だけしか存在しない。だから、切り落とすだけの時間が意識の中にはある。詠唱を改めて継続しようと、もう切り落とせるだけの時間は──

 ──だが、刃を持つ手は動かなかった。

 気持ちがそれを止めさせたわけじゃない。僕は確かに彼の指を切り落とそうとした。肉の繊維を切り裂いて、骨に絡む神経を断ちながら、そうして彼の指を喪失しようとした。

 ──でも、予想以上にふらつく視界が、腕に力を入れさせてくれない。

 そこで理解するのは、今日までの一週間で、どれだけの失血を重ねてここに立っていたのか。魔法使いでも失血をする。あらゆる傷を再生できたとしても、新たに血を生み出すまでには時間がかかって、貧血になること。

 視界が、意識が、足がもつれる。加速した意識の中で、徐々にふさがる傷口と、自分で描いた首の線の痛みが、鈍く鈍く響いて、地獄のように遅い時間で繰り返されて、そうして意識は闇に絆される。

 ──ああ、負けか。負けなんだろうな。どうしようもなく、負けなんだろうな。そもそも魔法が使えない僕に勝機なんてなかったんだろう。

 でも、潔く負けた。あっけなく負けた。自分なりの方法で挑んで、気持ちよく負けることができた。中途半端な結末よりも、爽やかに終わることのできる負け。僕には、今それが心地がいい。

 これ以上、意識を保つことはできず、そうして僕は本当に暗闇の意識におぼれていく。目が覚めたときにはどうなるのか、わからないけれど、久しぶりにぐっすり寝られるような、そんな気がした。

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