1 / 9
ネコが膝からおりない
しおりを挟む
ネコが膝からおりない。最初に一回にゃーと鳴いてからというもの、うんともすんともいわない。
手袋を付けたままの手を軽く握ってベンチに放り出し、ぼくはため息を吐いた。白いもわもわが顔の前に広がる。
バスが来た。二人降りて、三人乗った。さて、バスには何人増えたでしょう。そんな問題を解いたのは何年生の時だったか。四年生になった今となっては、なんともカンタンな計算だ。
運転手が中からぼくに声を掛けた。
「ボク、乗らないの?」
だまって首を横に振った。運転手は「もう行くからね」と言ってバスのドアを閉めた。
行ってしまったバスを見えなくなるまで眺めてから、視線を下に。
ネコが膝からおりない。
白に黒いぶちのネコは、ぼくの太股の上で丸くなって目を閉じたまま動かない。
ネコは何もしない。ぼくも何もしない。だから時間だけが過ぎていく。
太ってないけど大きいネコだ。大人のネコだろう。人間でもネコでも、大人はみんな身勝手なのだ。
「おばあちゃんの家で良い子にしててね」
お母さんお得意のセリフは、どんな日だっておんなじ口調で流れ出る。前まではこれにオプションで「一人で行ける?」が付いていた。「一人で行ける?」は「一人で行けるよね?」に変わり、それからなくなった。
おばあちゃんの家は嫌いじゃない。優しいし暖かいし、ごはんも美味しい。今日だってきっと、豪華なごはんが用意されるだろう。ケーキもあるだろうし、プレゼントもくれるだろう。
ぼくはマフラーに顔を埋めた。
おばあちゃんの家へ行けるバスは、二十分ごとに来る。少なくとも後二十分はここで待ってなきゃいけなくなった。今日はとっても寒いから、風邪でも引きそうだ。
ネコが膝からおりなくなって、もう十五分はたつ。大人なだけになかなか重いから、足がしんどくなってきた。
二時十分のバスに乗り遅れてベンチに座り、五分後にネコがやってきた。ネコはすぐに膝に飛び乗って、そのままぬいぐるみみたいになった。
ネコは首輪をしてない。野良ネコなのかもしれない。えらく自由なネコだ。
「あ」
いきなり横から声がして、ぼくは少しびくっとした。ぼくがびくっとすると、ネコも少しびくっとした。
ひょっこり顔を出したのは、知らない男の人だった。三十歳くらいに見える。真っ黒な髪は、変なところが跳ねていた。コートのポケットに片手を突っ込み、もう片方でスーパーの袋を持っている。
垂れた目を細くして、男の人は笑った。
「つーくん、こんなところに居るなんて珍しいね」
ぼくは思わず目を丸くした。知らない男の人は、知らない男の人の癖してぼくの名前を知っている。知っている男の人なのだろうか。
でもおかしい、ぼくを『つーくん』と呼ぶのはお母さんとおばあちゃんだけだ。
口を閉ざしたままのぼくを気にせず、男の人は膝の上のネコを撫でた。ネコはごろごろ言う。
それから、男の人はぼくの目を見て訊いた。
「君、つーくんの友達なの?」
「つーくん……」
「ああ、このネコの事だよー」
ぼくはネコに目を移した。こいつもつーくんっていうのか。変な偶然だ。
「おじさん、飼い主?」
背が高い男の人を見上げて訊ねてみると、首を捻られた。
「どうだろ? 飼い主なのかな?」
訊かれても知らない。
そもそもぼくは、『見知らぬ人と関わってはいけません』と習っているのだ。ぼくは言いつけを守る良い子だ、という自負がある。
男の人はネコに顔を寄せた。
「つーくん、迷惑かけちゃ駄目だよ。一緒に帰ろうか」
ネコはぷいと顔を背けた。
「ほら、この子は行くところがあるんだよ。たぶん」
ネコは長いしっぽで男の人の手を払った。
ちょっとの沈黙。ネコはやっぱり膝からおりない。
男の人は肩を落としてぼくに謝った。
「ごめんね」
「……別にいいけど」
本当はしびれて来た。でも、ネコは膝からおりない。
男の人は、ぼくの横に腰を掛けた。
「君、名前は?」
「……つかさ」
「へえ、じゃあ君もつーくんだねえ」
バスが来た。今回は一人降りて、誰も乗らなかった。
「乗らないの?」
不思議そうに男の人が目をぱちぱちした。
「乗らない」
「つ、つーくんのせい?」
「……別に」
男の人はほっとした様子だった。
「どこに行くの?」
「おばあちゃんち」
「へえ。クリスマスだもんねえ」
「……いつもだよ。クリスマスとか、関係ない」
ずっと昔からそうだった。
お母さんはいつもぼくを置いていく。『預けられていた』時はまだよかった。もう預けてなんてくれない。ただ、置いていく。
「別にいかなくったっていいんだ。もう四年生だから、一人で平気。家でひとりでも、平気だもん」
「そうだねえ」
「……そうだよ」
足の感覚がなくなってきた。
天気はいいのにばかみたいに寒い。これだけ長いこと外に居ると、マフラーも手袋も役に立たなくなってくる。なのに、目の奥だけ熱い。
男の人は横に座ったままだ。
ぼくはきっと、結局おばあちゃんの家へいくだろう。健全なぼくは、ぐれたりしない。
バスが来るのは二十分後。
ネコが膝からおりない。おりてくれない。
ぼくはネコを撫でたりしない。ネコはぼくになにもしない。
なのにネコが、膝からおりない。
手袋を付けたままの手を軽く握ってベンチに放り出し、ぼくはため息を吐いた。白いもわもわが顔の前に広がる。
バスが来た。二人降りて、三人乗った。さて、バスには何人増えたでしょう。そんな問題を解いたのは何年生の時だったか。四年生になった今となっては、なんともカンタンな計算だ。
運転手が中からぼくに声を掛けた。
「ボク、乗らないの?」
だまって首を横に振った。運転手は「もう行くからね」と言ってバスのドアを閉めた。
行ってしまったバスを見えなくなるまで眺めてから、視線を下に。
ネコが膝からおりない。
白に黒いぶちのネコは、ぼくの太股の上で丸くなって目を閉じたまま動かない。
ネコは何もしない。ぼくも何もしない。だから時間だけが過ぎていく。
太ってないけど大きいネコだ。大人のネコだろう。人間でもネコでも、大人はみんな身勝手なのだ。
「おばあちゃんの家で良い子にしててね」
お母さんお得意のセリフは、どんな日だっておんなじ口調で流れ出る。前まではこれにオプションで「一人で行ける?」が付いていた。「一人で行ける?」は「一人で行けるよね?」に変わり、それからなくなった。
おばあちゃんの家は嫌いじゃない。優しいし暖かいし、ごはんも美味しい。今日だってきっと、豪華なごはんが用意されるだろう。ケーキもあるだろうし、プレゼントもくれるだろう。
ぼくはマフラーに顔を埋めた。
おばあちゃんの家へ行けるバスは、二十分ごとに来る。少なくとも後二十分はここで待ってなきゃいけなくなった。今日はとっても寒いから、風邪でも引きそうだ。
ネコが膝からおりなくなって、もう十五分はたつ。大人なだけになかなか重いから、足がしんどくなってきた。
二時十分のバスに乗り遅れてベンチに座り、五分後にネコがやってきた。ネコはすぐに膝に飛び乗って、そのままぬいぐるみみたいになった。
ネコは首輪をしてない。野良ネコなのかもしれない。えらく自由なネコだ。
「あ」
いきなり横から声がして、ぼくは少しびくっとした。ぼくがびくっとすると、ネコも少しびくっとした。
ひょっこり顔を出したのは、知らない男の人だった。三十歳くらいに見える。真っ黒な髪は、変なところが跳ねていた。コートのポケットに片手を突っ込み、もう片方でスーパーの袋を持っている。
垂れた目を細くして、男の人は笑った。
「つーくん、こんなところに居るなんて珍しいね」
ぼくは思わず目を丸くした。知らない男の人は、知らない男の人の癖してぼくの名前を知っている。知っている男の人なのだろうか。
でもおかしい、ぼくを『つーくん』と呼ぶのはお母さんとおばあちゃんだけだ。
口を閉ざしたままのぼくを気にせず、男の人は膝の上のネコを撫でた。ネコはごろごろ言う。
それから、男の人はぼくの目を見て訊いた。
「君、つーくんの友達なの?」
「つーくん……」
「ああ、このネコの事だよー」
ぼくはネコに目を移した。こいつもつーくんっていうのか。変な偶然だ。
「おじさん、飼い主?」
背が高い男の人を見上げて訊ねてみると、首を捻られた。
「どうだろ? 飼い主なのかな?」
訊かれても知らない。
そもそもぼくは、『見知らぬ人と関わってはいけません』と習っているのだ。ぼくは言いつけを守る良い子だ、という自負がある。
男の人はネコに顔を寄せた。
「つーくん、迷惑かけちゃ駄目だよ。一緒に帰ろうか」
ネコはぷいと顔を背けた。
「ほら、この子は行くところがあるんだよ。たぶん」
ネコは長いしっぽで男の人の手を払った。
ちょっとの沈黙。ネコはやっぱり膝からおりない。
男の人は肩を落としてぼくに謝った。
「ごめんね」
「……別にいいけど」
本当はしびれて来た。でも、ネコは膝からおりない。
男の人は、ぼくの横に腰を掛けた。
「君、名前は?」
「……つかさ」
「へえ、じゃあ君もつーくんだねえ」
バスが来た。今回は一人降りて、誰も乗らなかった。
「乗らないの?」
不思議そうに男の人が目をぱちぱちした。
「乗らない」
「つ、つーくんのせい?」
「……別に」
男の人はほっとした様子だった。
「どこに行くの?」
「おばあちゃんち」
「へえ。クリスマスだもんねえ」
「……いつもだよ。クリスマスとか、関係ない」
ずっと昔からそうだった。
お母さんはいつもぼくを置いていく。『預けられていた』時はまだよかった。もう預けてなんてくれない。ただ、置いていく。
「別にいかなくったっていいんだ。もう四年生だから、一人で平気。家でひとりでも、平気だもん」
「そうだねえ」
「……そうだよ」
足の感覚がなくなってきた。
天気はいいのにばかみたいに寒い。これだけ長いこと外に居ると、マフラーも手袋も役に立たなくなってくる。なのに、目の奥だけ熱い。
男の人は横に座ったままだ。
ぼくはきっと、結局おばあちゃんの家へいくだろう。健全なぼくは、ぐれたりしない。
バスが来るのは二十分後。
ネコが膝からおりない。おりてくれない。
ぼくはネコを撫でたりしない。ネコはぼくになにもしない。
なのにネコが、膝からおりない。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ドSでキュートな後輩においしくいただかれちゃいました!?
春音優月
恋愛
いつも失敗ばかりの美優は、少し前まで同じ部署だった四つ年下のドSな後輩のことが苦手だった。いつも辛辣なことばかり言われるし、なんだか完璧過ぎて隙がないし、後輩なのに美優よりも早く出世しそうだったから。
しかし、そんなドSな後輩が美優の仕事を手伝うために自宅にくることになり、さらにはずっと好きだったと告白されて———。
美優は彼のことを恋愛対象として見たことは一度もなかったはずなのに、意外とキュートな一面のある後輩になんだか絆されてしまって……?
2021.08.13
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
アーコレードへようこそ
松穂
ライト文芸
洋食レストラン『アーコレード(Accolade)』慧徳学園前店のひよっこ店長、水奈瀬葵。
楽しいスタッフや温かいお客様に囲まれて毎日大忙し。
やっと軌道に乗り始めたこの時期、突然のマネージャー交代?
異名サイボーグの新任上司とは?
葵の抱える過去の傷とは?
変化する日常と動き出す人間模様。
二人の間にめでたく恋情は芽生えるのか?
どこか懐かしくて最高に美味しい洋食料理とご一緒に、一読いかがですか。
※ 完結いたしました。ありがとうございました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる