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スイートピーの花束

悪夢と記憶

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 そわそわしている男の子を部屋に入れてソファに座らせると、冷気も一緒に入ってきた。
 小学校の低学年くらいだろうか。利発的な顔立ちをしていて、上等なコートを着ていた。手足をきちんと揃えて行儀良く座っている。

「ずっとあそこに居たの?」

 しゃがんで視線を合わせ新名が訊ねると、男の子は小さく頷いた。

「気が付かなくてごめんね。何か温かいもの持ってくるからちょっと待ってて」

「ありがとうございます」

 恐縮した様子の男の子に笑いかけてから、新名はキッチンへ向かった。何を出そうか考え込む。
 コーヒー、は駄目だろう。ハーブティー……は杏子に不評だ。他に用意出来そうなものと言えば、ホットミルクくらいか。
 うーん、と唸りながら冷蔵庫を開け中身を物色すると、杏子のおやつのチョコレートを見つけた。ちょっと借りますよ、と心の中で杏子に謝っておく。
 牛乳を火にかけ、チョコレートを刻む。

 杏子は新名がキッチンへ立つ間にタブレットを用意し、男の子へ話しかけた。

「私が所長の美籐です。名前は?」

「も、森野晃もりのあきらです」

「年齢と職業は」

「七歳です。えと、職業?」

「小学生?」

「あ、はい」

 しばらく沈黙が流れた。
 ぶっきらぼうな杏子に、晃は少し怯えているようだ。二人の会話に耳を傾けていた新名は苦笑いを浮かべた。杏子はどうにも子供が苦手らしい。

 ホットチョコレートを手に新名が戻ると、晃だけでなく杏子も僅かにほっとした表情をしていた。杏子は何も言わないが、目で新名に助けを求めている。

「おまたせ。僕は新名っていうんだ。晃君、チョコレートは好き?」

 晃は何度か瞬きをしてマグカップを受け取った。カカオの香りがふわりと広がる。

「……美味しい!」

 一口飲んで、晃は目を輝かせた。よかった、と新名は晃の頭を撫でてから杏子の横へ腰を下ろした。すると杏子の目配せが飛んでくる。代わりに晃の話を聞き出してくれ、と訴えているようだ。
 こんな風に彼女に頼られる事は滅多に無く、新名は少し嬉しくなった。

「さっき「獏を捕まえて欲しい」って言ってたけど、そのバクっていうのは夢を食べるバクのこと?」

 新名の問いかけに、晃は大きく頷いた。

「本で見たことあるのと、同じ獏だよ! でもぼくが捕まえて欲しい獏は、夢以外の物も食べちゃうみたいなんです」

「夢以外の物?」

「そう。ぼくの記憶を食べちゃうんです」

 晃は小さな両手で湯気の上がるマグカップを包み込んだ。
 新名と杏子は目を見合わせる。

「記憶?」

「獏がぼくの夢に現れて、何かもこもこした雲みたいなのを食べるの。そうしたら、起きた時に少しずつ何かを忘れちゃう」

「……それは毎日?」

「毎日じゃないけど、しょっちゅうだよ」

 自分のつま先を見つめて、晃は続けた。

「最初はほんのちょっと、忘れ物が増えたぐらいだったんだ。どうしてかな、って考えて、あの獏がいたずらしてるんだ! って思ったの。でも最近、友達に「同じこと前も言ってた」って言われるようになったりして、困ってるんだ」

「そうなんだ。覚えてないことが多くなってきた、ってことかな」

「うん。友達との約束も忘れちゃったりして、怒られるんだ。このままじゃ嫌われちゃう」

 晃は丸い目を悲しそうに揺らした。
 新名は顎に拳を当て、どうしたものかと思案した。指示を仰ぐために杏子の様子を窺うと、彼女は瞬き一つせずにじっと晃を見つめていた。

「ビトーさん、どうされますか」

 動く気配の無い杏子に新名が声を掛ける。すると杏子は屈んで晃に顔を近づけた。

「……私がその獏、捕まえてあげる。食べちゃった君の記憶も返して貰うわ」

 杏子の言葉に、晃は顔を上げて笑った。

「ほ、ほんとに! ありがとう! ……あ、お金はあの、今まで貯めたお年玉があるんだけど、足りますか」

 晃はポケットから小さな財布を取り出し開いて見せた。杏子はそれを見て、大きく首肯した。

「じゅうぶん」






 獏――中国で生まれた伝説の生物。胴体はクマで脚はトラ、尾は牛、目はサイ、鼻はゾウに似ている。日本では「悪夢を食べる」とされている。

「悪夢、かあ。……記憶を食べる、とは書いてませんねえ」

 スマートフォンの画面を見ていた新名は眼鏡を押さえて眉根を寄せた。
 オカルト系のサイトをいくつか見て回ったが、獏が記憶を食べる、といった話は見つからなかった。

「なんだか、僕もよく知らなかったんですが、獏って良い生き物みたいです。悪さをするどころか、悪い夢から人を守ってくれる」

「――そう」

 杏子は、晃が帰ってからというもの、何かのファイルを読み耽っていた。晃の依頼に関係しているのかと新名は手伝おうとしたが、「ニーナ君は見ないで」とはっきり言われてしまった。

「獏を捕まえる、ってどうなさるんですか」

「今考えてるわ」

「……本当に獏の仕業だとお考えですか?」

「当然」

 さっきの晃とのやりとり以来、杏子はどこからしくない、と新名は思った。
 何か考えている事があるのだろうか。訊ねてみるか新名が悩んでいると、手元のスマートフォンのバイブが鳴った。見るとメールの着信だった。相手は新名の母である文香だ。

『二十四日の夜、空いていたら三人で一緒に食事しませんか。私も聡くんも仕事が早めに終わりそうなの』

 新名は返信メールを作成して、しかし一文字も書かずに保存して画面を消した。暗くなった液晶に、眼鏡を掛けたぼうっとした顔が映っている。

 彼女は『一緒に』という言葉をよく使う。昔からそうだった。文香は仕事に忙しく、新名と別々にご飯を食べるのも、別々に寝るのも出掛けるのも日常的なことだった。だからだろうと新名は思う。普通の親子は当たり前だから口にしない『一緒に』は新名達親子には特別な事だったのだ。
 クリスマスイブの夜を一緒に過ごすのも特別な事だ。それは文香と聡の夫婦にも言えることだろう。

「一緒に……かあ」

 新名は三人で過ごす事を想像して、頬杖を付いた。
 予定が無いわけではない。大学の友達でのパーティーの話が出ているし、二十四日は普段ならアルバイトにここへ来る曜日だ。ただ、どちらも一言断れば日をずらしたり休ませてくれると分かっていた。

 メールをもう一度開き、新名は『予定がわかったら連絡するよ』と返信した。

「ビトーさん」

「……ビトーじゃなくて美籐ね、発音を大切に」

「ビトーさんはクリスマス、何かご予定があるんですか?」

「ケーキは食べると思う」

 杏子は黒い瞳をファイルに向けたままで言った。
 考えれば、新名は杏子の家族についてほとんど知らない。交友関係に関しては「友達は三人くらい居る」と言っていたが、家族については誤魔化されたままだった。

「誰かとご一緒に?」

「ここで食べると思うし、たぶん一人ね。ニーナ君、休み取るでしょ」

「あ、はい」

 反射的に返事をしたが、いつもと変わらない無感動そうな声色に、ほんの少し寂しさが覗いているように新名は感じた。
 ふと見やった窓の外は風が強く、耳を澄ませると風の音がした。
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