猫舌の私は夢をみない

雨咲まどか

文字の大きさ
上 下
4 / 8
不眠症と夢の話

羊が四匹

しおりを挟む
 今年は酷く暑い夏だったから、お盆休みくらいのんびりと冷房代も気にせず過ごしたいと思い立った時だった。丁度母から「帰ってきなさいよ」と電話が来て、私はすぐに桃子を連れてマンションを後にした。ゲージを入れた大きなボストンバッグを一つ抱えて、タクシーと電車を乗り継いで実家まで。

 滞在していた四日間の内、最初の三日間は何も変わりないいつもの光景が続いていた。父も母もいつもと同じ顔をして、軽口を言い合って笑っていた。

 最終日の昼食はカルボナーラだった。母の得意料理であり、私と父の好物でもあった。私は昼過ぎには帰るつもりで荷物も纏め終わっていて、またしばらく母の手料理を食べられない寂しさを、スパゲッティと一緒に飲み込んでいた。

 口を開いたのは母だった。

 窓の外で大きな雲が太陽を覆い隠して、「大事な話がある」という前置きが、食卓のテーブルを一瞬でほの暗くたみたいだった。

「律、私達離婚したの」

「――は?」

 母の言葉は脳を掠めて通り過ぎていった。ベーコンが刺さったままのフォークが、皿の縁を叩いて乾いた音がした。

「相談もせずにごめんね。二人で話し合って決めたことなの」

 意味のわからないことを言う母を見ていられずに父の方を向くと、彼は申し訳なさそうに頭を垂れていた。

 母は何度もリハーサルをこなした女優のように、静かで凛とした声色を紡ぎ続ける。

「これからは、私達別々の場所に住むわ。私はしばらくここに居るけど、父さんは夏の内に引っ越すから、また色々落ち着いたら連絡するね」

 私はじっくりと見慣れた筈のリビングを見渡した。私が描いた落書きをカバーで隠したソファ。一向に買い換えてくれなくて文句ばかり言っていた型の古いテレビ。父が出張先の海外で買ってきた趣味の悪いぬいぐるみ。母がしょっちゅう食材を買い込みすぎて溢れさせては父に呆れられていた冷蔵庫。三食きちんと食べる事をとにかく大切にしていた両親が拘って買ってきた食卓のテーブルと椅子。

 生まれた時から家族三人で住んでいた我が家は、これから先どうなってしまうんだろうか。売られて、違う人が住むのだろうか。自分自身への同情はちっとも浮かんでこないのに、家に対する同情はすぐ湧いてくるから面白いと思った。

「ごめんな、律」

 父の口から謝罪が出て来た時、ようやく私は自分が「可哀想」なのだと気が付いた。

 とはいっても、気付いたからと言って私にはもうどうしようもなかった。

 上手だった。両親の離婚は、驚くほど上手だった。

 なんの心配もさせない自然な夫婦関係を演じ抜き、一人娘が成人後就職し独り暮らしを始めて落ち着き出した二年目の、長期休暇の最終日。私が苦手な冬や、誕生日がある春を避けた夏の日。こんなにも娘に配慮した離婚が果たしてあっただろうか。

 そんな見事な離婚を前にして、大人になった私が彼らに対して起こす行動の選択肢なんて、ほとんど残されていなかった。





 私が語り終える頃には、時仁くんはお医者さんとしての表情を取り戻していた。それが少し残念で、悲しくもあった。

「信じられないよ、あのおじさんとおばさんが、離婚だなんて」

「私も、まだいまいち実感がない」

「辛かっただろ」

 黒い瞳に優しさを滲ませる時仁くんに、私は悩んでしまった。どうだろう。辛かった?

「ああ、そうかも」

 両親の離婚は完璧だった。けれど一つだけ、彼らが失敗したとするならば、さよならを食卓に持ち込んだことだ。

 だってあの日から、

「カルボナーラ、胸焼けするの」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

れもん

hajime_aoki
ライト文芸
名家の後継として生まれた幼子の世話係となり、生きる価値を手に入れた主人公はある日幼子と家出をする。しかし若い自分と幼子の逃避行は長くは続かず、冬の寒い日、主人公は愛する子を残し姿を消した。死んだも同然の主人公は初老の男性とたまたま出会い依頼を受ける。やるせなく受けた仕事は「殺し屋」だった。

彼はもう終わりです。

豆狸
恋愛
悪夢は、終わらせなくてはいけません。

去りゆく彼女と、どこにもいけない僕の話

白河 夜舫
ライト文芸
幼なじみの美羽と誠は学年が一つ違うが、生まれた時からほとんど一緒に過ごしてきた。 美羽が高校3年生の夏、ある落とし物を拾う。 その落とし物をめぐって、二人の関係は静かに動き出していく。

【完結】捨ててください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと貴方の側にいた。 でも、あの人と再会してから貴方は私ではなく、あの人を見つめるようになった。 分かっている。 貴方は私の事を愛していない。 私は貴方の側にいるだけで良かったのに。 貴方が、あの人の側へ行きたいと悩んでいる事が私に伝わってくる。 もういいの。 ありがとう貴方。 もう私の事は、、、 捨ててください。 続編投稿しました。 初回完結6月25日 第2回目完結7月18日

【完結】忘れてください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。 貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。 夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。 貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。 もういいの。 私は貴方を解放する覚悟を決めた。 貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。 私の事は忘れてください。 ※6月26日初回完結  7月12日2回目完結しました。 お読みいただきありがとうございます。

好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】

皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」 「っ――――!!」 「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」 クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。 ****** ・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

亡国の姫と財閥令嬢

Szak
ライト文芸
あることがきっかけで女神の怒りを買い国も財産も家族も失った元王女がある国の学園を通して色々な経験をしながら生きていくものがたり。

処理中です...