拾った彼女が叫ぶから

彼方 紗夜

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1.拾った彼女

苦い再会

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 ──なんで受け入れちゃったんだろう。
 
 マリアは悶々としていた。もちろん、さっきのキスのことである。
 こういうとき、つくづく自分の流されやすさを呪いたくなる。最初にうっかり流されたせいで、すっかりゆるゆるになってしまっている。ついルーファスの顔──というか眩しい瞳──に引き寄せられてしまった。
 だめだだめだ。
 相手は王子殿下である、あれでも。王子のくせにあんなところでキスしてくるなんて軽い男だ、と自分のことは棚に上げてマリアは毒づいた。
 
 キスは、柔らかかった。
 ルーファスの唇が触れた瞬間、胸の奥の方からふわんと甘いものが膨らんだ。自分でも驚くくらいに、胸を満たしていった。
 信じられなかった。
 狼狽えるあまり、触れられた次の瞬間にはルーファスを突き飛ばしてしまった。
 そしてそのまま彼の顔も見られずに、マリアは踵を返してしまったのだ。
 
 戯れくらい、余裕顔であしらえなくてどうするの。乙女でもあるまいし。
 マリアは中庭を抜けながら空を仰いだ。千切れた綿のような雲がすっと流れていく。上空では風が強く吹いているようだ。
 きたるべき冬に向けて、暖かい服を用意しなければならない。父親の外套も新調したいし、母親のショールも少しへたりが見えてきたから何とかしよう。
 そうだ、自分が考えるべき事はそういうことだ。
 今日の食事、今月の収支、冬の支度、来年もつつましく穏やかに家族三人で生きていくためにどうするか。
 ルーファスの微笑みや、柔らかい声音や、伸ばされた指や触れた唇の感触なんかを思い返している場合ではない。
 
 そっと、人差し指を唇に当てる。やわく潰れる唇に、またさっきの彼を思い出してかあっと頬が熱くなった。思わず俯いてしまう。
 遠ざけようとしているそばから、残像が寄ってくる。マリアはそれを振り払うようにぱん、と両手で頬をはたいた。
 今日は去年のうちに燻製にしておいた豚肉を夕食に出そう。マッシュポテトを付け合わせにして、今日は特別に白パンを頂こう。ここのところライ麦パンが続いていたから、今日だけは少し奮発しよう。
 それで、さっきの出来事ごと、丸ごと束の間の夢にしてしまおう。
 そして明日になったら、現実に戻ろう。

 マリアはもう一度ぱん、とさっきよりは軽く頬を叩く。何なら頭も軽く振ってみる。それからえいやっと──これは心の中でだが──威勢の良いかけ声を掛けると、足を踏み出そうとした。

 けれど、踏み出そうとした足は不自然に固まった。中庭を囲む回廊の向こうから、家族に次いで近かった人が歩いてくるのを目にしたからだ。
 その人はカツカツと革靴の踵を鳴らしながらこちらへと近付き、中庭の噴水の脇で立ちすくんだマリアに気付いた。片眉を上げたところまでばっちり見えた。

「なぜ君がこんなところにいる? マリア」

 ルーファスよりも更に低いバリトンが、咎めるように投げつけられた。
 かつて自身を既婚者だと偽り、愛人関係を持ちかけた男──ゲイル・ガードナーの姿にマリアは目を丸くした。咄嗟に返す言葉が出て来ずに、声が詰まった。
 
「どうしてって……」
「ここは王宮の中だぞ。君が入っていい場所じゃない。早く帰りなさい」
「いえ、今私は王宮で、その……働いているんです」
「君が? なぜだ? 君はもう貴族じゃないだろう。それとも何か? ここの使用人にでもなったのか? 止めておきなさい。君がここにいたらいい笑い者だろう。いつまでもかつての生活に執着するようなことは止めておいた方がいい」
「いえ、ルーファス殿下のダンスの練習のお相手をさせていただいているのです」
「殿下の?」

 ゲイルが腕を組んで考え込んだ。何をそんなに眉間に皺を寄せる必要があるんだろう。

「あの、ゲイル……じゃなくてガードナー公は? どうしてここにいらっしゃるのですか?」
「あ、ああ……婚姻のことで打ち合せがあってね。そう言えば婚約発表のときには君にも世話になったな、助かったよ」

 マリアはぐっと胸に湧き上がったものを飲み込んだ。
 暗に、婚約発表の場をぶち壊しにしないでくれてありがとう、と言っているのだ。あの日のことを思い出して、ただでさえ重かった気分が更に沈んだ。これまではあまり思い出さずに済んでいたのに。
 結局はこの人の都合の良いように自分は動いただけだった。ああして大勢がいる場所でなら、マリアは逆上しても騒ぎを起こさないだろうと見抜かれていたんだろう。
 きゅっと奥歯を噛みしめる。平静な顔でゲイルを見れる自信がなかった。
 場所も場所であることだし、今更終わったことを蒸し返すつもりはないけれど。むしろもう、彼には会いたくない。
 暗澹とした気分でこの場をどう逃れるか考えていると、晴れ晴れとした表情のゲイルが彼女に一歩近付いた。

「丁度良い、君はその練習の相手とやらはもう終わりなのか? 私も今帰るところだ、送っていこう」
「え? いえ、いつも馬車を手配していただいているので」

 マリアはやんわりと彼の申し出を辞退した。
 王宮に上がる日にはいつも、ルーファスが行き帰りの馬車を手配してくれている。ついでに言えば、練習の間も本番と同様にドレスを着ていた方が良いということで、ドレスも貸してくれているのだ。そういえばまだ借りたドレスのままだった。
 それに送っていくと言われても、一体彼と何を話せばいいのかわからない。胸の中をちくちくと針で突かれるだけではないか。
 それこそ誰もいないところでなら、ゲイルに詰め寄ってしまいそうである。あの日でさえ胸に留めたのに、そんなみっともない真似はしたくない。大体、彼も婚約中の身で婚約者以外の女性と二人きりになること自体まずいのではないだろうか。
 見られる心配はないとでも思っているのか、それともマリアの今の立場なら、どうせ誰も真に受けないと高をくくっているのだろうか。

「手配してあるからといって王家の所有物を当然のように使うのは良くないな。うちのに乗っていきなさい」

 ああ──、そうだった。脱力する。
 ふと思った。ずっと、こうしてマリアに「こうするように」と示してくれるこの人が好きだったのだ。マリアはその通りに動けば良かった。それは、日々両親の代わりに家の中の一切を取りまとめていた彼女にとっては、とても楽ちんなことだったのだ。
 あの頃と変わらない言い方だな、と思った。
 懐かしさに、少しだけ目元が緩んだ。けれどそれは別れてからまだ二ヶ月ほどだというのに、ひどく遠い日の思い出のようだった。





 マリアがようやく、受け入れてくれた。
 とほくそ笑んだのもつかの間だった。彼女は逃げるように走っていってしまった。
 しかもパタパタと走って逃げていくマリアを目で追っていると、同じように彼女を見つめる姿があった。よりによってこの兄に見られるとは、間が悪い。

「イアン兄上、覗き見とは趣味が悪いですよ」
「いやぁー、お前がご執心の令嬢とはどんな子かと思ってなあ。没落しちまった元伯爵令嬢なんだって?」
「マリアに手を出さないでくださいね。それで覗きの成果はいかがでした?」

 嬉々とした表情でこちらを見るイアンにあからさまにげんなりと返すも、ちっとも悪びれない。

「へえーマリアちゃんって言うのか。可愛い名前だな。……っておお怖い。お前、そんな満面の笑みで牽制するとか背筋が冷えるから止めろよな。……だいぶ頑固そうなお嬢さんが、全部顔に出ているからわかりやすい。ある意味素直だよな。お前が構いたくなるのもわかる」
「イアン兄上はどうやらだいぶ前から覗き見されていたようですね」
「お前たちの掛け合いが面白くて声を掛けそびれたんだ。巨大な虫って……咄嗟の言い訳にしては間抜けすぎる」

 くくっ、と第二王子であるイアンが思い出し笑いをするのを見て、ルーファスは顔をしかめた。何であれ、この兄を笑わせているのがマリアだと思うと面白くない。彼女の言動に笑わされるのは自分だけでいい。
 マリアは出会った夜には大人びて見えたのだが、交わす言葉が増えていくにつれ、少女のような表情を見せることが多くなった。それが自分に気を許しているように見えて眩しい。眩しいから、誰にも見せたくない。

 彼女が中庭で空を見上げる。かと思えば、自分の頬を自分で叩いている。
 ふっとルーファスも笑うと、隣でイアンまで同じ光景に笑ったのでやっぱり面白くない。彼がマリアに向けていた視線をルーファスに戻した。

「それにしてもお前もあの子の前だと生き生きしてるのな。さっきの、作り笑いじゃなかったろ」
「今だって笑ってますよ」
「白々しい。本当はあの子を追い掛けたかったんだろ。俺に早く消えて欲しいって顔をしてるぞ」

 その通りだ。マリアといると、笑いを作らなくて済む。
 彼女の言動は一つ一つが、面白かったり微笑ましかったり、愛おしかったりで、飽きるということがない。自分でも、よもやこれほど彼女に心を持って行かれるなどとは思ってもみなかった。
 たった一晩。
 あの日、彼女はぼろぼろに傷ついていた。それでも泣き喚くこともせず、場を壊すこともせず、ガードナー公の婚約を表向きはにこやかに祝っていた彼女。あのとき何を思ってガードナー公と婚約者……ルーファスらの妹、イエーナを見ていたのだろう。

 自分はその彼女の凛とした強さに目を奪われ、図書館まで彼女を追い掛けた。いつも笑って周囲の言葉を受け流す自分にはないものだったからこそ、強烈に惹かれた。
 そして、奥に隠れた弱さにつけ込んで彼女を抱いた。
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