拾った彼女が叫ぶから

彼方 紗夜

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1.拾った彼女

ルーファス

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 ルーファスが眦を下げて、マリアの身体を引き寄せる。その仕草はさりげなくて自然で、気遣いすら感じられた。
 なぜだろう、不意に泣きたくなった。
 感傷に浸りそうになった自分を叱咤する。もう終わったことだ。取り敢えず王都の屋敷に戻ったら、そのままかつての領地に戻ろう。それからのことはそれからだ。明日は明日の風が吹くって言うし。

「行きましょうか。足腰立ちます? 僕が抱き上げても構いませんよ」
「誰があんたなんかに。歩けるわよ、これくらい」
「はは、マリアさんはそうでなくちゃ。でも本当に辛くなったら言ってくださいね?」
「──そのときはね」

 ルーファスが妙に優しくて戸惑う。こんな風に気遣われるのには慣れていない。彼は慣れているみたいだけど。

 ──そう言えば……指輪、してたし。
 昨夜彼の左手に見つけた指輪を思い出して、ドキドキしていた胸がすっと冷えていく。代わりに感じたのは、何とも言えないもやもやとした気持ちだった。
 それを振り払うように、王立図書館を出て馬車に乗り込む。ルーファスが、向かい合わせではなく隣に並んだ。それも妙に近い。なぜなのだ。

「ねぇ、ルーファス。あんたのその指輪……」
「ああ、これですか? 見つかっちゃいましたか」

 ルーファスが左手をひらひらさせる。苦笑はしながらも、悪びれたところがない。
 ──結婚しているくせに。

 この一日で何を信じたらいいのかすっかりわからなくなってしまった。信じられるものがあるのかさえ。
 昨日あんなに優しく──そう、あれは実際優しかった。乱暴にした方がいいか、と聞かれたような気がするけど、あれはちっともそんなのではなかった。マリアの反応を見ながら加減してくれていたのに。

「やっぱりそうなんだ」

 返す言葉は冷たくなった。

「すみません、黙っていて」
「ううん、私ってつくづく見る目ないなあって思うだけだから。やっぱり一人で帰る。ルーファスも早く帰りなさいね。じゃあ」

 マリアは彼の腕を外そうと身をよじらせる。

「マリアさん、もう馬車は動いていますよ。動かないで。そんなに嫌でした?」
「嫌に決まってるじゃない。奥さんのいる人なんて──ひっ」
「奥さん?」

 ルーファスがぐっと腰に巻きつけた手に力を込めたので、マリアは軽い悲鳴を上げた。近いどころか、密着しているじゃないか。
 ついさっきなんて、眠るルーファスの膝上に乗っていたわけだし今更ではある。でも、今のは明確な意思を感じるからこそ、その仕草にどきんと心臓が跳ね上がった。
 まるで逃がさないと言われているようで、ひゅっと変な息が漏れる。

「もしかして、これ、何かと勘違いしてます?」
「何って、それ婚約指輪か結婚指輪かのどちらかでしょ。あの人も付けてたもの。それとも、ルーファスもあの人と同じなの? カモフラージュ?」
「マリアさん、ガードナー公と同じにしないでください。僕って知名度低いんですね……ってある意味当たり前なんですけど」

 最後は遠くを見る目でぽつりと零す彼の横顔を探りながら、マリアは今の彼の言葉の意味を考えた。

「それってやっぱり結婚はしてるってことでしょう? 昨日のことは私も忘れるから、あんたも心配しなくていいわよ。それより早く帰って奥様を安心させてあげて」
「マリアさん、違いますって。僕は結婚してません」
「じゃあやっぱり偽装……」
「なんで思考がそっちに行くんですか。これはそういう類の指輪ではありませんよ。ほら良く見て」

 ルーファスが腰を捻る。ほとんど抱き締められているような格好になり、マリアはあまりの近さにたじろいだ。
 昨日の情事の名残か、彼のつけていた香水か何かの新緑のようなさわやかな香りにほのかに汗の匂いが混じって鼻をかすめる。それが妙に色っぽい。
 そわそわして、落ち着かない。
 いちいちそういう些細な仕草やら彼の匂いやらに気付くのが悔しい。ここが密室みたいになっているのが悪いと思う。

 ルーファスが目元を緩めると、その至近距離で左手を差し出した。
 その指輪はシンプルな輪ではなく、かと言って宝石がはめ込まれた豪奢なものでもなかった。金の台座は平たい楕円形をしていて、そこには中央に梟が、頭上で交差する二本の剣と共に彫ってある。どこかで見たような絵柄だった。
 ──ううん、これはどこかで見たなんてものじゃない。
 もう一度、信じられない思いで凝視する。
 目の前の紋章が記憶にあるものと一致したと同時に、マリアは仰け反った。

「国章じゃないの……!」
「はい。僕、第三王子なので」

 ルーファスが種明かしが愉快でたまらないという風に目を細めた。
 「ちょっと待ってコール」の再来である。頭の中が疑問符と感嘆符で埋め尽くされた。
 
 口をぱくぱくさせることしかできない。唇は震え、漏れ出た呼気がかろうじて「あ、あ、」と紡いでいることだけがわかるような体たらくだ。
 さっきよりもひどい。

「なんでそんなの……いっ、いえっ、王子殿下がこんなところに……!?」

 ひっ、と声にならない悲鳴を上げてマリアは飛びすさった。いや、マリア自身はそうしたつもりなのだが、実のところルーファスに腰をがっちり抱え込まれていたので、心の中で飛んだ距離ほどには物理的な距離は稼げなかった。大体が馬車の中である。距離の稼ぎようがない。

 ──やってしまった!

 顔から血の気が引いた。
 これはまずい、さっきとは比べ物にならないくらいまずい。いや、どうなんだろう、相手が男だからまずくはない?
 王女様を襲ったわけじゃない。いや、女の人を襲う趣味なんてこれっぽっちもないけれど、ってそういうことじゃなくて王族に手を出した(というか正確には誘った?)罪ってどんなものなのか。
 いまやただの平民に過ぎないマリアだ。自ら誘ったことを言い逃れもできない。

「あのっ、私、そうとは存じ上げなくて! ごめんなさい、じゃなくて申し訳ございません! あの、殿下相手にこんなこと……あ! あんたとか呼んだのも、申し訳ございません! 重ね重ね非礼をお詫びいたします……! せめて両親のことを罰するのだけはやめてっ……じゃなくてお許しください!」

 離れることも叶わず、マリアは揺れる馬車の中で膝に頭をつける勢いで身体を折り曲げた。ドレスをぎゅっと握りしめる両手はがたがたと震える。顔なんて到底上げられない。

「マリアさん」
「申し訳ございません、決して誘惑するつもりではなかったんです本当です、私の家はこの通り今は一介の国民にございます。殿下をたぶらかすつもりなんてこれっぽっちもなかったんです」
「マリアさん」
「私への罰はどんなものでも受けますので両親に罰を与えるのだけはお許しいただけないでしょうか、それとあのウチはお金がありませんので罰金や私財差し押さえなんかはできましたらご斟酌いただければ」
「マーリーアさん! 顔を上げてください」

 わずかに宥めるように強められた調子に恐る恐る顔を上げると、ルーファスがほっと口元を緩めて小さく笑い声をあげた。

「マリアさんって、あくどいことは考え付きもしないんですね」
「あくどい? 今の話のどこが悪いことにつながるんです? あ、いえ、私があの、たぶらかしたと仰るならもうあの、事実だけを見ればそう取られるのかもしれませんが決してそのようなことは」
「違いますって。ほら、普通は寝た相手が王子だとわかったらお金をふんだくったりするものじゃないんですか? あとはほら、昨日僕はマリアさんの中に子種を出しましたから、子供ができるかもしれないから責任を取って結婚してくれと責めるのもありですよね」

 目を細めたままつらつらと「あくどいこと」の内容を挙げるルーファスに、マリアはぽかんと口を開けた。
 そういう思考が全くなかった自分を褒めればいいのか、そんなことも思いつかなかった頭の弱さにがっくりくればいいのか。
 そもそも王子ともあろう人が、そんな黒いことを曇りのない笑顔で言い連ねていいんだろうか。なんか不気味だ。

 ──いやそれより、そうだ、確かに思い返せば昨日私ってルーファスに……。

 ぼっ、と水が沸く音がしたが沸いたのは水ではなく、マリアの脳みそである。

「マリアさん? 真っ赤になってますよ」
「うっ、あ、えっ……っと」
「マリアさんって大胆な割に初心ですね」
「だって」

 あの人には中に出されたことなんてなかったから──という言葉をマリアはかろうじて飲み込んだ。
 もごもごと言い淀むマリアをルーファスが覗き込む。

「責任取れって言わないんですか? マリアさん」
「いっ、言うわけないわよ……ないです」
「どうして? マリアさんが言ってくれたら喜んで責任を取りますよ」
「でも昨日は私も自棄になってたし……で、殿下だけの責任じゃないですし……」
「マリアさんって我慢が身に染み付いているんですね」

 我慢の問題なんだろうか。
 マリアだってもう生娘でもない、いい大人である。無理やり奪われたのではない。投げやりになっていたとはいえ一夜の逃避を望んだのは自分だ。とはいえ、子供ができたらどうしよう。
 でももうどちらにせよマリアは結婚できない身だし、子供を育てながら細々と暮らすという生活もなくはない。ああ、それだと彼が困るのか。庶子なんて万が一発覚すれば大ごとになる。存在しない方がいいのだ。つくづく昨日の行為は考え無し過ぎて、今更ながら頭が痛い。

「好きに言ってくれれば良いのに。そうだ、まずはルーファスと呼ぶところから始めましょうか」
「め、めっそうもない」

 ルーファスがふうとため息をつく。まったく強情なんだから、と独りごちた。

「ではあと一度でも僕を殿下と呼んだら、ここでもう一度マリアさんを頂きますよ?」
「はいッ? でっ、……待ってください、頂くって」
「昨夜みたいに、ね」

 ルーファスが目尻を下げて笑う。笑うと目尻にほんの少し皺が寄って雪解けを思わせる温かさを感じる。なのに怖い。一体彼は何歳なんだろう。自分よりも年下のように見えたのだが、自分の方が振り回されている。
 今だってとんでもない発言で、マリアは慌ててぶんぶんと首を振った。これ以上は絶対に困る。身持ちが軽いどころの話ではなくなる。
 ──大体ここは馬車の中じゃないの!

「で、では……ル、ファス、様」
「やだな、誰ですかそれ。はは。様はなしですよ、マリアさん」
「ルー、ファス」
「はい、良くできましたね。マリアさん。子ウサギみたいに震えてますけど、取って食いやしませんから、ね? 本当は食べたいけど」
「えっ」
「冗談ですよ。食べるのはまたの機会にします。じゃ、今からミリエール宮へ行きますね」

 ──お、王宮……!
 さらりと何か言われたような気がする。が、それよりも今はその二文字の方が絶望的だった。
 満面の、だがどこか不穏な笑みを浮かべたルーファスを前に、マリアは今すぐ失神したかった。できなかったけど。
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