拾った彼女が叫ぶから

彼方 紗夜

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1.拾った彼女

マリア

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 元・伯爵令嬢であるマリアの一日は、夏は屋敷中の窓を開け放つことから、冬は暖炉に火を入れることから始まる。
 それが終わったら自分の部屋の掃除だ。花瓶の水を替え、シーツを替え、窓を拭き、家具の埃を払い、床を磨く。それらを終える頃に階下からスープの匂いが漂ってくる。オルディス家に一人だけ残ってくれた執事が簡単な朝食も用意してくれるのだ。
 その匂いに誘われて母親が起き出してきたら朝食を取る。そして花を愛でたり刺繍を刺したり本を読む母親の傍らで、残りの部屋の掃除にいそしむ。

 容れ物だけはかつての伯爵家らしい屋敷だが、今はほとんどの部屋が使われておらず調度品も売り払った。がらんどうだ。
 ちなみに父親はかつて治めていたブレア領で、今は新しい領主の補佐をしており不在だ。いわば単身赴任のような環境である。

 四年間、どうあっても変わることのなかった朝の風景。
 それが、今朝は様子が異なった。




 ──い、やぁああああああ……!
 マリアはゲイルに捨てられた時でさえあげなかった盛大な悲鳴をあげた。といっても心の中でだけではあるが。
 これでも一応、目の前で寝ている人間を馬鹿丸出しの叫び声で起こさないだけの分別はある。それが見知らぬ相手ならなおさらだ。
 マリアは書架にもたれて彼女を抱き締めたまま寝入る男を、信じられない思いで見入った。

 ちょっと待って、ちょっと待って、と頭の中で騒ぎながら、マリアは男の腕の中で身をよじった。
 とりあえず自分の身を見下ろす。昨日、肌をあられもなくさらけ出していたはずの赤いドレスはいつの間にか整えられていた。遠目には何もなかったみたいだ。近寄られるとさすがに皺が目立ちそうだが。

 ──あああああ! もう!
 ドレスのあちこちに寄った皺を意識したら、昨夜してしまったことまでも赤裸々に思い出してまた悶えた。心臓がさっきからばくばくと胸を激しく突き続けて痛い。

 ──どうしよう。やっちゃった……。
 この場合の「やっちゃった」は、しでかしたという意味もあるが、文字通り「ヤった」という意味も含んでいる。
 マリアは自分を包んでいる温もりをもう一度そっと見上げた。
 自棄になっていたとはいえ、明らかに一夜の関係を求めてきた相手に身体を差し出してしまった。そしてその相手はマリアが散々騒いでも(ただし心の中で)、一向に目を覚ます気配がない。

 三年間していたゲイル・ガードナー公爵が、昨夜王女殿下との婚約を発表した。
 普通なら恋人が別の女性に取られたことを怒るところだ。でもマリアにはその女性に対する嫉妬や悔しさみたいなものはあまり感じなかった。
 相手が王女殿下だということもあるのかもしれない。けれど、それよりももっと衝撃的な事実を突き付けられたのだ。

 恋人は独身だった。

 マリアは三年間ずっと、ガードナー公から妻がいると聞かされていた。
 左手の薬指に輝く指輪もそう告げていた。それは婚約者か妻帯者でなければつけない場所で輝き、いつもマリアを牽制していた。
 だからマリアはどんなに彼が好きでも、わがままの一つも言ったことはなかった。先のない関係であることは百も承知だったのだ。知っていて、それでも好きだったから「愛人」でもいいと思っていたのだ。

 だけど、彼は最初からマリアに一線を引いていたのだ。
 彼が一度も子種を彼女に放ったことがなかったのも、最初から本気になるな、結婚を迫るな、という意思表示だった。
 そのことの方が、彼の結婚自体よりもよほど辛かった。
 自分が伯爵令嬢のまま社交界に身を置いていたら、きっと彼の嘘を見抜けたに違いない。貴族ではないからと軽んじられ、好意は踏みつけられた。

「ん……」

 自分を抱き締めていた男がわずかに身じろいで、マリアもぴくりと肩を強張らせた。
 起きるかと思って身構えたけど、男はまたあっさりと眠りに戻っていった。もう夜も明けたし、そろそろ図書館が開館する時間じゃないだろうか。その証拠に、テラスに面した硝子窓からは秋の初めの柔らかで少しひんやりした太陽の光がそっと降り注いでいる。
 目を覚まされたらどんな顔をしていいかわからないくせに、いつまでも起きてこないのも何となく面白くない。
 幸せそうな顔をしているのも腹立たしい。

 無防備な寝顔は安らかで、艶っぽい。薄い唇は昨日散々口付けをしたからか少し腫れぼったく見える。それさえも色っぽくて、どきどきしてしまう。
 明るいところで見ると、男性はやはり綺麗な顔立ちだった。
 鼻梁は高く、すっと流れるようだ。閉じた瞼を縁どる麦の穂のような色の睫毛は長くびっしりと並んでいる。マリアよりも多いのではないだろうか。睫毛と同じ色の髪は後ろに流され、前髪が彼の額にはらりと掛かっている。
 そうっと指先を男の前髪にくぐらせると、さらりとした髪が手の甲にかかった。
 猫っ毛だ。ナァーゴみたいなふにゃりとした毛を見たら、不思議に親近感が湧いた。
 くぐらせてもくぐらせてもすぐに額に落ちてくるそれを、マリアはついつい何度も飽きずに掬った。柔らかな髪と同じように、昨日掛けられた声も柔らかかった、とマリアは思い返して何とも言えない気分になった。

「マリアさん? ……おはようございます」
「!」

 マリアは男の髪を遊ばせていた手をぱっと引っ込める。正ににっこり、と形容するのが相応しい満面の笑顔が自分を見下ろしていて、カッと頬に熱が昇る。居たたまれなさのあまり、つい声が尖った。

「あっ、あんた、起きるのが遅いわよ」
「すみません。朝には弱いんです。これでも今日は早い方ですよ。それと、僕の名前はルーファスですって」
「ルーファス! 早く手を放してちょうだい。起き上がれないわ」

 とにかく離れようとマリアはもがくのだが、彼はまだ寝ぼけているのか腕の拘束は緩まなかった。

「ああ……。でも僕はもう少しこうしていたいです」
「ふざけたことを言ってないで、放しなさい。あんなことは昨日だけの約束でしょう」
「あんなこと? 何か約束しましたっけ?」

 マリアは思わずその目に見惚れた。澄んだ琥珀色は、本当に太古の歴史を閉じ込めたみたいに深い艶を帯びてとろりと自分を見ている。昨日は暗がりだったから色まではわからなかったけれど、自然光の元で見ると何とも柔らかな光だ。
 改めて彼の全身に目を走らせると、カフスに嵌めた宝石もまた琥珀色だということに気付いた。目の色に合わせているのだろう。細い目だけど、緩やかに弧を描くせいで穏やかそうだ。マリアは思わず見入った。
 だがその目には明らかなからかいの色があった。

「……っ、だから! 昨日……」

 その先を女性から言わせるだなんて、やっぱりこの男はろくでもない。マリアは怒りと羞恥に震えた。

「マリアさんは可愛い人ですね。そんなだから構いたくなるんですよ」
「ちょっ、放しなさいっ」

 ルーファスがぎゅっと腕の力を強めたので、マリアの身体が彼の胸に寄りかかる。慌てて腕を突っ張ろうとするのに、彼の腕は更にぎゅうぎゅうとマリアを締め付けた。胸が苦しい。それは物理的に苦しいのももちろんそうなのだが、それだけではなくて不意に襲ったやるせなさでもあった。

「──やめて!」

 一転、鋭い声を発した彼女にルーファスが一瞬目を丸くする。
 ゲイルだけじゃなくて、この男も。滲みそうになる涙をきつく目をつむって押さえ込み、マリアはきっと彼を睨みつけた。
 彼はすぐに笑顔に戻るとぱっとマリアを放した。

「すみません、冗談が過ぎましたね」

 何でだろう、また胸が痛くなった。
 ルーファスだって、きっとマリアの身体さえ手なずければいいと思っているのだ。彼女のことを軽い女だと思ったからこそ、昨日もためらわずに手を出して、今もこうやって適当にあしらおうとする。

「帰る」

 身持ちの軽い女。こうして一夜を過ごしてみれば、自分はまさにそれでしかない。
 そもそも、ゲイルとお付き合いしていたときも周りからはそう見られていたんだろう。そしてそれはこれから一生マリアについて回るのだ。
 ずんと胃が重たくなった。小さく息を吐く。
 「好き」だという気持ちだけで突っ走った考えの足らなさは取り返しがきかない。

 でも昨夜のことはそれとは違うのである。一夜の情事だけで、それ以外のマリアまで自分のものにしたかのような態度を取らないで欲しい。マリアが渡したのは昨晩の一夜だけ。
 ルーファスの力が緩んだところをすかさず、腕を突っ張って立ち上がる。
 ところが立ち上がった瞬間にがくりと膝の力が抜けた。
 ふっと笑われた気がして身の置き所がなくなる。それに啖呵を切ったくせにと情けなくなった。マリアはぐっと足を踏ん張った。

「送っていきますよ、マリアさん」
「いい、要らない」
「でも歩くの大変じゃないですか?」

 ルーファスが微笑んで言うものだから、つい反発してしまう。そりゃあ正直なところ、腰の辺りが重くて怠いけど。

「いい、大丈夫」
「そうですか? はい、靴。どうぞ、僕の肩につかまって」

 ルーファスはいつの間にかマリアが脱いだ靴を拾ってくれていた。
 マリアは素直に彼の肩──というか実際にはルーファスの方が頭一つ分近く背が高いので、その二の腕──につかまって、なんとか靴を履いた。深紅のドレスと同色の、ヒールの高い華奢な靴はきっともう二度と履くことのないものだ。
 これが、最後だ。何もかも。きゅっと奥歯を噛みしめた。
 少しだけ目線が彼に近付く。少しぐらついてしまい、マリアは思わずルーファスにしがみついた。

「この靴で帰るのは大変ですよ。送ります」

 笑顔で差し出された手をマリアはじっと見つめる。
 この靴で都下のタウンハウスまで帰ることを想像して、マリアはため息をついた。馬車もないのだ。
 仕方ない。
 差し出された手よりも一回り小さい自分の手を乗せると、彼が嬉々として自身の腕に絡ませた。

「少しだけ歩いてくださいね。馬車は別の場所で待たせているので。そこまで僕がエスコートします」

 ルーファスがへらりと笑って促した瞬間、なぜだか最初からこうなることを仕組まれていたように思えて妙な気分になった。
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