始まりは、身体でも

彼方 紗夜

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2. その先は心で

3.

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 シエナへの求婚は、両家の話し合いによりパーセル家による断りではなく、ハイド家側での取り下げという形に落ち着いた。
 パーセル卿がそうして欲しいと申し出たのだ。
 確かに、男爵家が侯爵家からの申し出を拒否したとなれば双方にとって外聞の悪いことになるのは明らかだったから、それが一番穏便な方法ではあった。









 「久しぶりだな、シエナ」
 「ほんと、久しぶりね。ウォーレンは元気にしていた?」

 王都のハイド家の屋敷で話をしてから1ヶ月ほど経った、早秋の爽やかな風が朝夕に感じられるようになった頃、王宮で開催された舞踏会でウォーレンはシエナの姿を久しぶりに見つけた。
 舞踏会や夜会はそれこそ毎晩のように催されているのだが、今夜のように国内貴族の殆どが参加するような大規模なものでないと、パーセル家の人間に会えることはなかなかない。ウォーレンの交際範囲は伯爵家以上であることが殆どで、パーセル家は例外と言えた。おそらく仕事上の付き合いがなければ直接会話をする機会はなかっただろう。

 シエナは、紅色に白を混ぜたような淡い色に、微かに紫がかった色のドレスを着ていた。まるで薄紅の花が宵闇にその姿を幻想的に浮かばせる時のような色。そのドレスには1つもレースは施されていなかった。
 代わりに、大きく開いた胸元にはそこを覆うようにたっぷりと襞を取ったシフォンが重ねられている。袖口やドレスの裾にもたっぷりと流れるようなドレープがとってあり、光をよく反射する糸で施された刺繍が、そのドレープが揺れる度に煌めいていた。

 誰よりも良く知っている相手の筈なのに、そのすっとした佇まいは、彼女が手の届かない遠くへ行ってしまったかのようで思わず目を細める。差し出された手の甲に軽く唇を寄せるだけのただの挨拶さえ、何故か妙に緊張した。

 「あ、ああ。……シエナは」
 「私?うん、元気よ。こうも毎日暑いとバテてしまいそうだけど」

 いつもはもっと滑らかに続くはずの会話が、ウォーレンには酷く難しかった。

 「ああ、そうだな。確かに……」
 「ウォーレンも連日舞踏会おつきあいで疲れてるんじゃない?」
 「まあ、シーズンが終わるまで後もう少しだからな……シエナが疲れてないなら一曲どうだ?」
 「……そうね、一曲なら」

 お互いに、笑顔だ。だけどいつものような屈託のない表情は難しかった。2人の間に流れる空気もどこかぎこちない。そう思うのは自分が彼女を意識しているからだろうか。
 ウォーレンは、手を腰に当ててシエナが腕を組むように促した。シエナがそっとと腕を絡ませて来て、ウォーレンは相手が良く知る幼馴染だというのに、全く初めての令嬢を誘ったかのような気分になった。

 今迄当たり前のように出来ていたことに酷く神経を使った。
 それは例えば、ホールドを取る手が必要以上にシエナに触れていないか、とか。
 シエナが踊り易いように、足を縺れさせることのないようにリード出来ているか、とか。
 そんな些細なことだ。
 会話もままならずウォーレンはただ黙々とダンスに集中した。

 シエナはダンスを踊る間に徐々にぎこちなさが取れたようだった。先ほどよりも表情から固さが取れていて、ウォーレンとのダンスを少なくとも嫌がってはいないということは伝わって来た。そのことにウォーレンは胸を撫で下ろした。

 「ウォーレン」
 「なんだ?」
 
 相変わらず変なところに神経を使っているウォーレンだったが、不意にシエナが穏やかな声で呼ぶのに我に返った。

 「貴方、ダンスの腕が落ちたんじゃない?」
 「そ、そうか?」

 冷やりとした。もしかして、少し意識していたのに気付かれたかと思った。

 「ええ、ほら……こんな風に」
 「っ!」

 シエナがふわりと笑ったかと思うと、次の瞬間左足の足先に無視できない痛みが走った。思わず眉を顰める。

 「ね?私の足が引っ掛かるくらいに」
 「ってぇ……」

 シエナがくすくすと笑った。踵の高い靴の、細い踵の先で足の甲を踏まれたのだと気付く。本気で踏んだのではないのだろう、痛みは大したことは無かったが、ウォーレンはダンスを中断しないように痛みを堪えた。
 シエナは軽やかにステップを踏みながら、まだくすくすと笑い続ける。その屈託のない笑顔に、束の間ウォーレンは痛みを忘れて魅入った。
 そういえば、これまでウォーレンからシエナに何か仕掛けることはあっても、その逆はなかった気がする。
 だが、そう思った時には音楽も終わりを迎えていて、シエナはじゃあね、と優雅に淑女の礼をすると、またふわりと笑って軽やかにウォーレンの前から離れて行った。

 「次のお相手と踊るときには気をつけてね」



 ウォーレンは去っていったシエナの後ろ姿を見るともなしに目で追い掛けた。
 あいつが俺を置いて先へ行く。その背中が眩しかった。

 シエナはこういった場で良く一緒にいる令嬢としばらく何事か話をしていたが、その後別の青年が近づいいて挨拶をしていた。ダンスに誘われたのだろう、シエナはその腕に彼女の腕を添えて広間の中央へと出て行った。その一連をウォーレンはじっと見詰めていた。
 
 「あの、いいよな。シエナ嬢だっけ」

 シエナの背中を目で追っていると、隣から不意に声が掛かった。そちらの方へ向く前に、ほれ、と目の前にグラスが差し出される。ウォーレンが酒に弱いことを知っているからか、ウィスキーにも似たグラスの中の琥珀の液体からはアルコールの匂いはしなかった。渡された液体を一口呷ってからウォーレンは声を掛けてきた青年に向かって口を開いた。

 「なんだお前、狙ってるのか?」
 「どうかな?お前の態度によるけど」

 にやり、と口角を上げた青年……アイザックがウォーレンと同様にシエナの後ろ姿を見ながら答えた。アイザックは180cmを超えるウォーレンよりも僅かに背が高い、ジョンストン伯爵家の次男だ。その背だけを考えれば、ウォーレンとアイザックが並べばなかなか威圧感を与えそうだが、ウォーレンはどちらかというと精悍な中にも少年ぽさを残した顔であったし、アイザックはいかにも貴公子というような柔らかい雰囲気であったからさほどの威圧感は感じられない。
 ウォーレンが社交界に出てすぐの頃にアイザックの方から声を掛けられた。それ以来の友人である。年齢はアイザックの方が2歳年上なのだが、そうと知らない内に何かと絡まれ、今ではお互い親しい口を聞く仲になったのだった。
 そのアイザックが、相変わらず視線をシエナに向けたまま更に続けた。

 「なんか雰囲気変わったよな、彼女。それに前より色気が出たんじゃないの?」
 「……そういう目であいつを見るな」

 思わず苛立ちも露わな声を出してしまって、ウォーレンは自分が口を出すようなことではないのだったと唇を噛んだ。
 私を放して、と泣いて懇願したシエナと、甘い恍惚に全身を戦慄かせるシエナが交互に過ぎった。放した結果、彼女は笑顔で自分の前に現れた。もう振り返らないということなのだろうか。
 その残像を飲み下すようにぐいとグラスの中身を傾ける。無性に酔いたいと思う。酒が欲しい。

 「ふーん……。何か未練がましい目付きをしてるな」
 「どこが」

 アイザックが何か含むところのある顔をしたが、ウォーレンはその意味が掴めなかった。並んでグラスを呷りながら、見るともなしにシエナが青年と踊る姿を眺めた。

 「いや、彼女と何かあったのかと思ったんだ」
 「は?」

 とん、とん、とアイザックがウォーレンをにやりと見ながら自分の眉間の間を指で軽く叩いた。その仕草でウォーレンは、無意識の内に自分が眉間に眉を寄せていたことに気付いた。ごまかすようにグラスの中の液体を飲み干す。アイザックが口の端を上げると、シエナと踊る青年を見遣りながら続けた。

 「何でもないさ。それより、俺もあの男の番が終わったら彼女をダンスに誘っても?」
 「……いちいち俺に訊くな」
 「ふぅん。いいのか?俺、本気になるかもよ?」

 素っ気ない答えを返したウォーレンを見てアイザックが試すように低く笑った。ウォーレンは、僅かに躊躇ってからアイザックを見返した。

 「別に……あいつが幸せになるならいいんじゃないのか?……お前なら婿入りにも丁度いいだろうしな」

 アイザックなら彼女を泣かせることは無いんだろう。
 泣かせたくはない。笑っていて欲しい。だが、それをアイザックが叶えるのかもしれないと思うと、喉に何かがつかえた気になった。シエナに踏まれた痛みが足先からぐっと胸の辺りまで広がっていく感覚に、声にならない呻きが出た。



 アイザックはまだ疑わしそうな表情をしていたが、やがてふっと軽く笑うとウォーレンに向き直った。その手にあった、空になったグラスをウォーレンに押し付ける。

 「へぇ……。じゃあまずは彼女にご挨拶といこうかな」

 そのまま、アイザックは曲の終了と共に青年に礼をしているシエナの元へ近付いていった。

 次の曲が軽やかなメロディを奏で始める。
 ウォーレンは丁度通りがかった給仕の者にグラスを2つ共渡すと、そのまま壁に凭れて腕を組み、踊り始めた友人と幼馴染に再び視線を向けた。その視線が先ほどの名前も知らない青年の時よりもよほど鋭くなっていたことには、自分でも薄々気がついていた。
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