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 ◇ ◇ ◇


 テオンは呆然としながらアパートの階段を降りると、どこへ向かうともなく歩いた。

(まさか、クロエがマダムジョスティーヌとの約束を知っていたなんて……)

 確かに、マダムからクロエの純潔を奪って欲しいと持ち掛けられ、後ろ盾を得るために引き受けた。もちろん、すでにそんなつもりはない。

 だけど、自分が断ったとしたら、あのマルティンとかいう男がクロエの元に向かったはずだ。

 忠実な部下のようだったし、命令を速やかに遂行しただろう。

 テオンは、キリッとした眉毛のマルティンがクロエと見つめ合う姿を想像した。

(いやいやいや、あんな軍人のような男を前にしたら、クロエはきっと緊張でガチガチになるはずだ。それに、あと五日以内であの男とクロエが仲良くなれる気がしない)

 鬱々とした気持ちで歩いていたら、いつの間にか王都の中央市場の中まで来ていた。

 ふと周囲を見ると、どうやら『オーロラ・グローブ・アパレル』の近くの様子。

(……そうだった。アレクサンドラにもお礼を言わないと。あいつのおかげでクロエはかなり垢抜けたもんな……)

 トレードマークと化した黒ぶち眼鏡は「心の鎧なんです!」とか言ってなかなか手放さないものの、髪型はおさげ髪からハーフアップやシニヨンをすることが増えたようだ。

 化粧っ気のなかった顔は眉毛が整っただけでも印象が様変わりした。チークや血色の良い口紅をつけるようになり、素肌の美しさがより引き立つようになった気もする。

 アレクサンドラがいい影響を与えてくれたからだろう。

 クロエと初めてデートをした日に来て以来、テオンはアレクサンドラの元を訪ねた。

 リンと鳴った扉の音で、アレクサンドラが奥から出てくる。

「いらっしゃ~……テオンかよ」

 一気に低くなった野太い男声に、テオンは眉をひそめる。

「おい、客に対する態度がなってないな?」
「テオンっ! あんたには感謝してるわよ、あんたが居なきゃ今頃店は傾いていただろうしね! だけどあんまりじゃないのさっ! マダムジョスティーヌの後ろ盾を得るために、クロエちゃんの処女を奪う約束をしたなんて!」

 テオンの胸がドクンと大きな音を立てた。

「なっ、なんでおまえが知ってるんだ!? 噂にでもなってるのか?」

 だとしたら大変なことだ。クロエの体面が傷つくんじゃないだろうか。
 そんなテオンの心配をよそに、アレクサンドラは意外な言葉を口にした。

「はっ! テオン、あんた、ルカスと中央エリアの個室で話してたでしょう? あの時隣の個室にいたのが私とクロエちゃんよ。会話が筒抜けで全部聞こえてたわ。ほんと、最悪っ! このサイテー男っ!」
「っ、あのサロンか……! いや、待て待て。おまえがなんでクロエと一緒にいたんだ?」

 ジト目でテオンを見るアレクサンドラが不機嫌そうに答えた。

「クロエちゃんは週に三回以上、うちの店に来てはメイクやヘアアレンジを勉強して、コーディネートを練習してたのよ? あんたの横に並んでも恥ずかしい思いをさせないようにって!」
「クロエが……?」

「そうよっ! お付き合いすることになったからって。自信がないなりに、あの子は一生懸命努力しようとしていたわ。それなのにあんたったら人の気持ちを弄ぶようなことを……!」

 アレクサンドラは涙目になりながらテオンをクズだと散々罵り続けた。

「テオン! おまえとは長年の友達だから言わせてもらうけど、らしくない。おまえが何人愛人を作ろうが構わないと思ってた。お互いに割り切った付き合いは、はた目でみていてもいっそ清々しかったよ。だけど、クロエちゃんは違う。おまえに心を寄せる相手ができたんだと思って、俺は嬉しかったのに……」

 そして、男声で言いたいことを言い切ると、クロエに許しを請うまで来るなとテオンの背中をボカボカ叩き、ブティックを追い出したのだった。


 アレクサンドラの言葉を反芻する。

 なかなかの強さで叩かれた腕や背中の痛みも感じないほど、テオンはクロエにどう謝ったらいいのか途方に暮れた。

(クロエは謝罪を受け入れてくれるだろうか……)

 確かに、最初はマダムとの約束があったから近づいたし優しくした。

 だけど、自分から女性を口説いたことは初めてだったし、あんなに毎日相手のことを考えたこともない。花だって初めて買った。買う必要がなかったから、あげたことがなかった。

 それにクロエのことだって、少なからず好ましく思ってた。そう、好ましく……

(そうだな、好ましくどころじゃない。……俺はなんだかんだ言ってクロエが好きだったんだ)

 初心なクロエを翻弄するのは楽しかった。真面目で健気で一生懸命で。ついつい揶揄いたくなって触れてしまった。必死に答えようとする小さな舌や真っ赤になりながら悶える姿がいじらしく……。

 それに、彼女は優しくて思いやりがある。差し入れも然り、写本もそうだ。

 自覚してみれば何のことはない、クロエのことが好きだ。

 容姿だけで寄ってくる女性とは違い、クロエはテオンの人間性をきちんと見てくれていた。

「……失ってから気づくってこういうことなんだろうな。はっ……まさか自分が体験するなんて」

 自分に自信がなく、何かに隠れたがるクロエ。だけど、出会った頃と比べて、かなり垢抜けたし、人を引き付けるオーラのようなものが出始めた気がする。もっと堂々とすればいいのに。

(いや、だけど目立ったことでクロエのよさが知られてしまうのも何だかな。悪い男が寄ってきたら……)

 事実、クロエがいる備品管理課にうろついているストーカーのような者もいるではないか。あのユリシーズ・バーニーとやらに限っては、最初から一貫してクロエを狙っていたのだから恐れ入る。

 まあ、クロエの魅力を知っていたから、というよりも、今やこの国では貴重な処女性というものにこだわりがあるようだが。

 あの変態がクロエに近寄らないようにするために、すでに処女ではないという噂をあの男の耳に入るように撒いてやろうか、とテオンは真剣に考える。

(でも噂が広がってしまうのも本意ではないな……)

 タウンハウスに戻ってからもテオンは一晩中思い悩み、結局一睡もせずに翌朝を迎えていた。
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