ヴァーミリオンの絵画館

椿

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過去番外編 第零階層-10

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 また一つ、完成した絵画は瞼を重くして、その意志の強そうな黒目を覆い隠した。
 何が足りなかった。どこが間違っている。
 目の前の絵へと無駄に問いかけることもせず、ヴァーミリオンはまるで最初からそうなるのが分かっていたみたいに、淡々と次の組木に新たな画布を張る。

 まっさらなそれを前にして、ヴァーミリオンは今一度脳内にブラックの姿を思い描いた。

 特に柔らかくも無い短髪の黒髪に、真っ直ぐ太めの眉。清廉な瞳は本人が誰かと話す時中々目を逸らさない質であるせいか、始終下がり気味の口角と合わさって周りからは少し威圧的に見られる。鼻筋はしっかりと通っていて、病弱なくせに教会の貴重な男手だからか身体はそれなりに厚く、正に精悍な青年といった風貌、

 ──だった、筈だ。

 絞った黒の絵具が、申し訳程度に残りを吐き出してから尽きる。ぽとっ、とパレットの上に落ちたそれをしばし呆然と眺めていると、周囲を赤い体液の丸が次々に浸食していった。

 眠る絵画は分かりやすい失敗作だ。だからそれを正すために、何度も記憶を擦って、描いて、否定されてを繰り返した。
 でもそうしている内に、段々と本当が分からなくなってくる。
 思い浮かびはするのに、記憶の中のブラックは、ぽたっ、ぽたっ、とパレットに垂れる鼻血の丸と共に端から塗りつぶされていっているみたいだった。


 あれ、どんな顔だったっけ。


 そんな事を思った直後、不意に周囲の音が耳に入り込んでくる。

「ブオオ゛ォオ゛!!!」

 激しく興奮した獣の鳴き声。
 ヴァーミリオンが呆然とそちらに視線を向けると、ヘラクレスが何かを訴えかけるようにして必死に吠えていた。
 延々と止まないそれは鼓膜に響いて、ヴァーミリオンの集中を散らす。

「……るっせえ……。デカイ声で鳴くな……」
「ブオオ゛ッ!!ブオ゛オォオ゛!!」

 止まるどころかより激しく鳴き始めたヘラクレスに、ヴァーミリオンはギリ…ッ、と強く歯を食いしばって立ち上がった。

「何言ってんのか分かんねえんだよ……っ、ブラックが死んだんだからっ!!!」

 まあるく見開かれた黒目を最後に、絵画はテーブルの上に勢いよく伏せられる。意思疎通の拒絶を示すその行動に、机に触れた絵画からは「きゅーん……」とくぐもったか細い声が響いただけで、それもすぐに消えた。
 ヘラクレスの声が止んだ室内には、肩を揺らすヴァーミリオンの息切れだけがやけにはっきりと聞こえる。

「ヴァーミリオン……ッ、」

 こちらを諫めるようなカガリの声にはもう振り返る気力も無かった。

 ……そうだ、絵具、足りてなかった。

 ヘラクレスと一緒に預かったまま放っていたブラックの画材道具が目について、ヴァーミリオンはそれが纏められているバッグにふらりと手を伸ばす。
 ちまちま中を探すのも億劫で、いつかのブラックみたいに逆さにひっくり返そうかとその入口を大きく開いた時、

「──ッッ!!」

 いつの間にか開け放たれていた窓から、ビュンと一陣の風が室内に入り込んだ。それはカーテンをバサバサと激しく暴れされ、眼前に大量の白い紙をばらまく。

 ……紙???紙なんてこの家の何処から、

 風が弱まったタイミングで、ヴァーミリオンは偶々自身の顔に張り付いていたそれを剥ぎ取って見た。

 ──そこには、拙くも、はっきりヴァ―ミリオンだと分かる人物の横顔が描かれていた。

 弾かれるように、ヴァーミリオンは未だ室内を舞う紙を捕まえる。床に落ちたそれらも全て、這いつくばって拾い集める。バッグの中にも、まだ風に攫われていなかった大量のスケッチが底の画材を押し潰していた。

 手に持つ薄い紙が震えて、息が上手く出来ない。

 それらには全て、絵を描くヴァーミリオンの姿が、鉛筆の黒一色で酷く丁寧に描かれていた。


『スケッチか。わかった』
『……今だけじゃなく、気の遠くなるくらい先の未来にまでお前が凄い奴なんだってことを伝えられるように、絵画館を作るんだ!!』

『──俺は昔から、ヴァーミリオンの描く絵が他の何よりも好きなんだ』


 ブラックとの思い出が、その時の彼の表情が、声が、仕草が、匂いが、温度が。全部全部今さっき起こったかのような鮮明さで、ヴァーミリオンの脳裏をもう一度埋め尽くす。


 きっかけは何だったっけ。
 俺が絵を描くようになったきっかけ。

 病弱だったブラックはいつも部屋に閉じこもっていて、誰とも交流しないせいで教会の孤児の中でも浮いていた。よく知らない暗い奴、それが当時の俺から見たブラックの印象だった。
 でもある時、偶々具合が良かったのか廊下まで出てきていたブラックに、俺が初めて描いた絵を拾われたんだ。

 風景画だった。
 その日の俺は珍しく早くに目が覚めて、澄んだ空気の中、朝日が昇るのを見たんだ。草木に付いた朝露がゆっくりと太陽の光を反射して世界が明るく照らされていくその瞬間が、余りにも綺麗で。その景色を自身の記憶だけではなく、何とか形にして残したくて、神父様の部屋にあった紙とペンを勝手に持ち出し、勢いのままに描いた絵がそれだった。
 目の前の景色を切り取ったように!!……とは勿論いかなかったけど、描き上げた直後はハイになっていたというか……、黒一色でもそれなりに上手く描けたんじゃないかと舞い上がっていた。冷静になった後で見てみると、線はへにゃへにゃでところどころインクが飛び散っていて汚いし、遠近感も、立体的な表現の仕方なんてものも何も分かっていないから、描かれたもの全ての形がどこか歪だ。
 そんな絵だから、共有しようとしたシルバーには笑われて、俺は一気に恥ずかしくなって。ぐしゃぐしゃに丸めたそれを服のポケットの中に隠すように持っていた。
 すぐに捨てるつもりだったのに、その下手くそな絵はヴァーミリオンから逃げるみたいに床に転がり落ちて、コロコロと風に遊ばれたその先でブラックの足先にぶつかったのだ。

 あ……、とヴァーミリオンが戸惑っている間に、彼は拾ったその絵を広げて、

 瞬間、まるで元の風景を見た時の俺と同じような反応をした。

 息を呑み、最初に大きく見開かれていた彼の黒い瞳は、朝日を閉じ込めるかのように徐々に眩しく細められて最終的には口角と共に微笑みの表情を形作る。じわりと上気した頬はそれと同じくらいに熱のこもった感嘆の吐息を吐き出させていた。

 室内窓からの景色しか知らない彼は、「外はこんなふうなんだな」と何度も丁寧に紙の皺を伸ばして、俺の描いた拙い絵に釘付けになる。

 きっと俺は、その時のブラックに一目惚れをしたのだと思う。
 彼のために絵を描きたいと思った。もっと色んな景色を、世界を描いて、俺に夢中にさせたいと思ったんだ。


『この絵、貰ってもいいか』
『……っ、っ!!駄目っ!!』

 恐らく初めて聞いた彼の声に、俺は飛び上がって我に返ってから慌てて絵を奪い取る。ブラックは急なそれにポカンとして、その後よく見ていないと気付けないくらい微かに肩を落とした。

 ああっ、違う、

『い、今は、駄目……。……もっと、上手く描いたの、持ってくるから』
『──、』

 燃えるように熱い自分の顔をその絵で隠して、俺はボソボソと消え入りそうに言った。
 直後の少しの間すら気になって、紙の端からチラッと彼を見ると、

『ああ。 じゃあ、ここで待ってる』

 そう言ってまた、嬉しそうに笑うから。

 俺は何度も何度も、飽きずに絵を描いてブラックの部屋を訪ねるようになったんだ。

 それが俺の原点。




「……上手く、なってるし……っ」

 最初に見たヘラクレスもどきからの成長に、思わず濡れた笑いが零れる。
 ずっとヘラクレスを描いているのだろうとばかり思っていたが、どれだけ見てもそれはヴァーミリオンだけを対象にして描かれていた。
 最初は自信なさげに定まっていなかった線が、回数を重ねるごとに迷いなく引かれていくのがよくわかる。何も教えてないのに、その勤勉さには本当に頭が下がる。

 不器用なくらい真っ直ぐな彼の瞳に映る世界。それを形にしたかのような武骨なスケッチはまだまだ未熟で、正直に言って下手くそだ。それでもこのスケッチは、きっと他のどんな素晴らしい絵画よりもヴァーミリオンの心を掴んで離さないのだろう。

 ぼやけて仕方がない瞳を何度も擦って明瞭にしながら、ヴァーミリオンは一枚一枚丁寧にそれを捲って眺めた。

 今なら何でお前が絵を描き始めたのか分かる。お前も俺と同じだったんだろう。この絵を通して、ヴァーミリオンブラックお前に夢中にさせたかったんだ。
 ああもう。……本当に回りくどい馬鹿同士だな、俺達。


 ひとしきりスケッチを見終えた後、ヴァーミリオンの目標ははっきり定まっていた。

 一度伏せたヘラクレスの絵画を起こして、ズッと鼻水を擦りながら謝罪する。すると「許してやる」とでも言わんばかりの、ヘラクレスにしては珍しいふてぶてしい仕草をされた。言葉は分からずとも意思疎通は図れる。ヴァーミリオンとヘラクレスはずっとそうしてきたのだ。
 他の絵画達にも色々と不安にさせたであろうことを謝って、それから大量にあった眠るブラックの絵画は全て処分した。いくらヴァーミリオンが似せて書いたところで、それは本物のブラックの代わりにはならない、……いや、代わりなどにしてしまっては駄目だと思い知ったからだ。


 真っ白いキャンバスの前に立つ。
 絵を描こう。俺が描きたい絵、ブラックに沢山の知らない世界を見せるための絵を。
 そして絵画館を作るんだ。ブラックが好きだと言ってくれて、俺も好きになれた自分の絵を未来に残すために。

 すぐじゃなくてもいい。いつか届いてくれればいい。

 今度は俺が、ヴァーミリオンの絵画館で待っているから。


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