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過去番外編 第零階層-1
しおりを挟む「けほっ、…けほ……、」
真昼のベッドの中、息苦しさを感じた少年は上体を起こした。喉に引っかかるような違和感を小さな咳で払拭したのを最後に、幾分か呼吸が楽になる。
すぐ傍の開け放たれた窓から少しだけ風が吹いて、彼の細く黒い前髪を揺らした。
手前に複数の簡素な住居と、そこの住人が所有する畑。奥に行くにつれて生い茂る草木、森と山、そして空。この二階の四角い窓から見える景色はいつも同じだ。
今日も今日とて代わり映えしないそれに少々うんざりしながら、けほり、とまた一つ咳を零す。……と、その時。視界の端、窓の縁辺りに鮮やかな色の何かがチラついた気がした。
この簡素な一室のベッドの上で一日の殆どを終える少年にとってはどんな小さな変化であっても非日常で、歓迎すべきものだ。今回も例にもれず、少年は少しの期待と好奇心を胸にその色の正体を確かめようとベッドから身を乗り出して、
直後、
「ワッ!!!」
「ほぎゃあぁあっっ!?!?」
急に窓の外から姿を現した人間に、驚いた少年は掛け布団を引っぺがしながら盛大に床へと転げ落ちる。
「…っうっははははっ!!…っ、『ほぎゃあ』!?『ほぎゃあ』って!!あっはっはっ!!おまっ、ブラックゥ!!最高だなっ、やばっ笑い止まら…っ、あっはっはっはっ!!」
「………」
床に蹲る少年──ブラックの失態を笑うのは、肩までで無造作に切られた鮮やかな朱色の髪を外気で靡かせる、ブラックと同年代程の見た目をした少年だった。
二階の窓の外から人間が現れるだなんて誰が想像できようか。いや、しかしこの恐れ知らずの猿であれば、必ずしもそういうことを出来ない、やらない、とは言い切れない事をブラックはよく知っていた。それなのにまんまと驚かされてそれを嘲られてしまっていることに段々腹が立ってくる。
未だばくばくと激しく暴れて鳴りやまない心臓の鼓動を持て余しながら、ブラックは窓の縁でおかしそうに腹を抱える少年を見やった。
「…っ、ゲホッ!!!」
「…え?」
「ゴホ…ッ!ゴホッ、…ガッ、ゴホッゴホッ!!」
「……え、ちょ、おい…?」
急に身体を折り曲げて激しく咳込みだしたブラックに、外から来た少年は焦った風に駆け寄る。苦しそうにするブラックを見て子供ながらにこれは拙いと思ったのか、彼はその顔をサーッと勢いよく青褪めさせ、「ちょっとだけ我慢してろ!すぐシスター呼んでくるからっ!!」と、今度は室内の扉に向かって駆けだした。
しかしそんな彼の動きは、背後から伸びた手によって阻まれる。
ギュッと両手でキツく握りしめられた背中の服。急に前に進もうとする勢いと反対方向の力を加えられて、朱髪の少年は堪らずその場で尻もちをついた。
それと同時、彼の首元に細く、しかし力の込められた腕が回り、まるで獲物を締め上げるようにがっちりとホールドしてくる。ゆっくりと振り返った先、普段からの乏しい表情を一切崩していないブラックの姿を認めて、少年は自身が騙されたことを察した。
「ほぎゃあと言ったことのない奴だけが俺を笑えると思うんだがお前はどうだヴァーミリオン」
「ほ、ほぎゃあ~……」
一瞬の沈黙の後、二人は同じタイミングで吹き出し、そのまま顔を突き合わせて笑い合う。
齢10程の黒髪の少年、ブラックと、同年の朱髪の少年、ヴァーミリオン。
彼らは、戦争孤児を預かるこの教会で暮らす幼馴染同士であった。
「へへっ、これなーんだ!」
「!」
ベッドの上に戻ったブラックに向かってヴァーミリオンがしたり顔で差し出してきたのは、折り曲げられた薄っぺらい紙。外側を神父様の書いた文字でびっしりと埋められているそれを、ブラックはもう待ちきれないような、しかしこの時しか感じられない期待感を惜しむような、そんな相反する気持ちを心中でせめぎ合わせながらゆっくりと開いていく。
そこに広がっていたのは、別世界だった。
黒一色で描かれた水辺の風景。周囲には草木が生い茂り、中心には水を飲んでくつろぐ動物が一匹。濃淡を駆使した非常に繊細で写実的なそれは、まるで見たことも無いその場所に自身が存在出来ているかのような不思議な感覚をもたらす。
ブラックが絵を隅から隅まで食い入るように見つめていると、ベッドの縁に凭れかかるようにして身を乗り出したヴァーミリオンが、不意に横から中を指し示した。
「これヘラジカって言って、シカの大人バージョン的なやつな?あの丘の上のさ、ほらあんじゃん、木いっぱい生えてるとこ。そこに偶々居てさあ」
「……凄いな、」
「だろ!?すげーよな、」
「「──この『ツノ / デカさ!!』
………は??」」
同時に別々の事を言った二人の視線が、絵から互いへと向く。先に口を開いたのはブラックだった。
「………いや、どう見てもこの立派なツノが称賛されるべきだろう」
「いやいや、すげーのはこの圧倒的なデカさだろ。俺の10倍はあったからな??」
「じゃあ俺の5倍か」
「身長差捏造すんな!俺らそんな背変わんねーだろ!」
怒りの表情を浮かべていたヴァーミリオンだったが、しかし「…ってそうか、比較対象ねーから伝わんねーよな」とそれだけを呟くと、ズボンのポケットに入れていたらしい鉛筆を取り出して、その場でサラサラと線を付け足し始める。
「これブラックなー」なんて言いながら、瞬く間に動物の隣に形作られていく一人の人間の姿を前に、ブラックが出来ることといえばただただ夢中になって見つめることくらいである。
「ツノは大体のシカに生えてんじゃん」
「そうなのか。見たことが無いから分からなかった」
「…………まあ、確かにこのツノは今まで見た奴の中で一番強そうだったけどな!今度普通のシカも描いてやるよ」
「ああ。待ってる」
「………ぉ、……ンにょ…」
「……何だ?ここで漏らすなよ?」
「尿意じゃねーよ!」
「というか描いてる俺小さくないか?」
「そんくらいヘラジカがデッカいってことなの!」
「はい完成!!」と半ば投げやりに渡された紙を再度受け取って、ブラックは改めて出来上がったその絵を眺める。付け足された小さなブラックは、水を飲む大きなヘラジカの横に立ってその大きな身体を撫でていた。
現実のブラックの小指の爪にも満たない大きさの手の平を真似て上から軽く撫でてみる。こんなにもリアルなのに肌に感じるのは勿論動物の毛などでは無く、少しざらついた温度の無い用紙の感触だった。
そんな当たり前の事を確認した次の瞬間、バン!!と激しい音を立てて勢いよく部屋の扉が開け放たれる。
ノックも無いままのそれに目を丸くするブラックとヴァーミリオン。その視線の先、開いた扉の奥にまるで全身で怒りを表現するかの如く立っていたのは、見慣れた修道服を纏った中年の女性だった。彼女は立ち尽くすヴァーミリオンを睨みつけて狙いを定め、大きく息を吸うと、
「ヴァ~ミリオン~~ッ!!貴方という子は!また掃除当番をサボって!!次は無いと言った筈ですよっ!!」
「シ、シシシスタァ~……、な、何で俺が此処に居るって…、」
「銅貨一枚でシルバーが吐きました!」
「あんの金の亡者めっっ!!」
「叫ぶ元気があるなら早く皆の所へ戻る!騒がしい貴方が居るとブラックの治る病も治りません!」
「……はーい」
今この場で騒がしいのは決してヴァーミリオンだけではないのでは……、と思いながらも、賢明なブラックは明後日の方向を見て口を閉ざした。シスターは主にブラック達戦争孤児の衣食住の世話をしてくれている人だ。目を付けられて良い事は無い。
シスターに正論パンチを食らわせられたヴァーミリオンは、その身をしょんもりと縮めながら「じゃーな…」と気落ちした風にブラックに手を振って部屋を退出していった。……と見せかけて、シスターが扉に背を向けた瞬間を見計らい、彼は大きく舌を出し白目を剥いた変顔を作って彼女を馬鹿にする。「ブッッ!!」と堪らず吹き出してしまったブラックのせいでその悪事はすぐにシスターにバレてしまったのだが、奴の逃げ足は優秀だ。シスターの「ヴァーミリオーーーン!!!」という怒声に混じった無邪気な笑い声は、瞬く間に遠く離れて聞こえなくなった。
「全く!元気があり余っているというのも困りものですね……、あら?」
腕を組んで鼻息を荒くするシスターの目に、次いでブラックの持つ小汚い紙が映る。
「ヴァーミリオンったら、また貴重な紙を無駄にして……。ほらブラック、渡しなさい。どんな外の汚れが付いているか分かりませんから、こちらで処分を、」
「いいえ、シスター」
それ以上の言葉は無かったが、コンコン、と小さく咳をしながらも一心に手元の絵を見つめ続けるブラックに、シスターは一拍置いた後仕方なさげな表情で息を吐いた。
「……もう。相変わらずねぇ」
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