ヴァーミリオンの絵画館

椿

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第七階層 幻想生物画(陸)-3

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 掴んだ腕の先。煌めく水面を閉じ込めたような瞳でこちらを強く睨みつけていたのは、美しい人魚──セレンだ。陸に自立出来ない彼のためだけに誂えられた水辺の席は今、彼自身の血液によって赤黒く濁ってしまっていた。

『何故私だけこの場所に連れて来たんですか!?…っ離して!早く戻らないと…っ、あの子達が、』
『矢面に立つ必要はないよ。オレはもう君だけが傷付くのを見たくない』
『……うるさい…っ!!お父様と約束したんです!!私はっ、仲間を守る責任が──、』

 急に途中で言葉を切ったセレンは、今までオレの手を振り払おうと暴れていたのが嘘だったみたいに大人しくなった。不思議に思っていると、次に向けられたのは酷くあどけない、無垢な瞳。

『?……??…誰、ですか…?…??…さ、触らないで下さい!』

 何も喋らないオレに不安を感じたのか、その顔は段々と恐怖に染まっていく。咄嗟に振り払われた手をもう一度伸ばす気力は無かった。

 もう何回目だ。
 この子の血が外に持ち出されて、その度に記憶が薄まっていく様子を目の前で見せつけられるのは。そして今日、遂にオレに関する記憶も失ってしまったらしい。
 滑らかな肌にいくつも刺さる人工的な鋭い針。あらゆる場所に見える痛々しい拘束の痣。ところどころ引き千切られ、剥がれ落ちた宝石のような鱗。絶えず流れる血液。痛くない筈がない。辛くない筈がない。自分を構成するものがどんどん奪われて、欠けていく感覚が恐ろしくない筈がない。自分以外の誰もが敵に見えて、怖くて仕方がないに決まっている。

 セレンに振り払われた手の指先がジンジンと痺れる。だけどそんな場所よりも、心臓の奥の方が痛くて痛くてたまらなかった。
 自身の震える肩を抱きながら蹲り、「お父様……、お父様…」と押し殺したような声で涙を流すセレンの何と痛々しいことだろう。

 どうして、こんな惨いことが出来る。

『……大丈夫。オレが人間全員殺してくる』

 セレンの絵画へと移動しようとしたオレを引き止めたのは、その場に居合わせたカガリだった。

『──だ。俺達は絵だろ。いくら血を取っても何の効果もねェことはすぐに知れる。傷も絵の具が馴染めば間を置かず塞がるじゃねェか。
 ……生きてる人間を攻撃すンのは駄目だ。人間に腹が立つなら俺を好きに殴ればいい』

 人間と同じ姿をしていながら、絵画内の誰よりも自身らを非人間無機物として扱い、総じて生きている人間以下だと断じる老害に、オレは何を思ったんだったか。
 取り敢えず強い殺意が湧いたことだけは覚えている。

 振り向きざまに、仕方がないと諭すようなその顔を言葉通りブン殴ってやると、奴は簡単に壁まで吹き飛んだ。なのにちっとも気分は晴れない。とんだ無駄足を踏まされた。

『……そうやって、初動が遅いから色んなもの取り零してきたんだっていい加減学べば?オレ達の誰よりもずっとマスターの近くに居たくせに、「絵を描くのをやめてくれ」の一言も言えないで。……てめえが殺したようなもんだろイエスマンぶった腰抜けが。
 それで今度は人魚も見殺しにするつもり?』
『……ア゛ァ??』

 プッと血の唾を吐いた後、酷い激情で濁った焔色の眼光が鋭くこちらを睨み上げる。そんな目をしておいて、よくも『傷は間を置かず塞がる』などと言えたものだ。
 癒える筈がない。ヴァーミリオンマスターを亡くした傷ですら、オレ達の誰も未だ癒えていないというのに。

 立ち上がってこちらに来ようとするカガリに応戦しようとしていた時、間に割って入ったのは騒ぎを聞きつけて来たらしいレオだった。

『こんな時にやめんか貴様ら。この、王の顔に免じてっ!!』
『黙ってなよ猫もどき』
『だーーれが超絶プリティーな小猫ちゃんか!俺様はライオンの獣人で、かつ王だぞ!!……まあ、意図せず可愛さの要素も滲み出てしまっているというのなら、その魅力を留めることは俺様には出来んが……おいだから両者とも止まれと言っているだろう!コラッ殴り合うな!王の命令が聞けんの…ぐはっ!!…っ、オイ顔は止めろ!!頭噛み千切るぞッッガウッッ!!!』



『絵画館』創立の知らせは、それから数年が経った後だった。
 ヴァーミリオンの弟子を自称する年老いた男は、オレの絵を会議室の代わりにして、円卓に座る名入り後のトップらに展示の旨を伝えに来た。

 オレの絵画の特性上、距離が離れすぎている絵画や居場所の不明な絵画とは道を繋ぐことが出来ないため、あれだけ賑やかだった卓には空席が目立つ。空気感だって最悪。
 今更ヴァーミリオンの死を知り、更に『迎えに行く』という約束を反故にされて取り乱すオルデウス。人間に怯えるセレン。気を許していない風に威圧的に床に尾を叩きつけて唸るレオ。唯一歓迎ムードなカガリだけが積極的に男と話を進めているという、総意もクソもない異常な光景だった。
 オレはそれを、頬杖をつきながら他人事みたいに黙って聞いていただけだ。
 この時拒絶でもして見せていたら、少しは何かが変わっていたのだろうか。


 絵画館における、世界観ごとに展示場所を分ける『階層』というシステムはよく出来ていたと思う。

 階層を移動出来ない大部分の生物達は同種で纏まり、その中でより結束を強くするように動いた。オレはといえば、場所の特異性が先行して同種というものの意識が薄かったことや、そもそも『自分と同じ生物』が存在しなかったことから、第七階層のトップを任じられていながらもこの階層を纏め上げるつもりなど端から無かったが。
 群れなければ生きていけない弱者というわけでもないのだから、好き勝手に暮らせばいい。抑圧や支配なんてされるべきじゃない。

 しかし、やはりそれぞれが自身らの階層にかまけて忙しくする中。
 比例するようにオレの円卓の席は一つ、また一つと埋まらなくなっていった。

 『階層』はよく出来ている。そう、勿論人間にとって。

 あれは絵画の力を分散させ、効率的に管理下に置くためのものだろう。絵画全体における結束を阻害し、力を持ったとしても階層内での最小限のそれに留めるためのシステム。厄介なものは上階層に押しやり、まるで囚人のように人目を避けて閉じ込められる。
 それはオレの嫌いな、人間による支配だった。

 しかし、憎くて仕方がない彼らを前にしても殺さずに大人しくしていられたのは、セレンの安全が確保されていることが大きなメリットだと思っていたから。それに、
『ドラキアが繋いでくれ』
 マスターの言葉があったからだ。

 今は亡き大切な生みの親。愛すべき家族。大好きな彼の期待に応えたいと思うのは至極当然の心理である。
 あの言葉を送られてから長い時を経た今、煮詰められた憎悪を張り付けた笑顔の下に隠しながら、オレはオレなりに人間に歩み寄ろうとしていた。
 しかし、無理矢理取り繕ったそれが崩壊するのは一瞬だ。

 最悪の日は、きっと、訪れるべくして訪れた。

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