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幕間-1
しおりを挟むツンと鼻を刺すような薬品の匂いが室内に充満していた。赤と黄色、更に複数の絵具を手に持つ薄いパレットの上で溶かして混ぜるのはもう慣れた作業だ。硬い筆を使い、ザリザリとA3コピー用紙程のサイズのキャンバスに何度も何度も色を塗り重ねていく。
ある程度手を動かしたタイミングで、全体を俯瞰するために自身の足を下がらせた。
描かれていたのは、鮮やかな朱色の頭髪を高い位置で結った美しい男性の姿。こちらを見つめて空虚な薄い笑みを浮かべるそれに、作者であるオークルは納得がいかないように唸る。
ここは第三階層の展示スペースから離れた一室。館長であるゴールドがまだ清掃スタッフだった時に使っていたアトリエである。
仕事に関連するわけでもない、完全に趣味の部屋として用いられていたそこだが、次代の館長ともなる『ヴァーミリオンの弟子』には前々からそんな風な優遇がまかり通っていたらしい。オークルはまだ弟子候補の内の1人ではあるのだが、今回ゴールドからの厚意でこの部屋を譲って貰えることになったのは純粋に嬉しかった。
数か月の準備期間を経て、漸く改装が終わったのはついこの間。第三階層長であるレッドからの呼び出しもこのアトリエについてだった。
流石ゴールドも使っていた部屋だというべきか、防音対策なんかも施されているらしいそこはとても静かで居心地がいい場所だ。オークルも鍵を渡されてからというもの、始業前と終業後は必ずここに入り浸って夢中で絵を描いている程だった。
ふと、そろそろ始業時間かと己の時間間隔を頼りに服のポケットに仕舞っていたスマホを取り出すと、画面に表示されていた数字はオークルが予想するより10分程時が経ったもの。それが示すのは後僅か数分後に迫る始業時間である。
普段なら無い失態に、ザッとオークルの頭から血が抜けた。
まずい。集中し過ぎた。
初めての自分だけのアトリエが嬉しくて浮かれた子供じゃあるまいし。
オークルは急いでその場で作業用のエプロンを脱ぎ捨て部屋を出ようとして。
しかし視線を向けた出入り口には、こっそりと顔を覗かせるようにしてオークルの見知った人物が立っていた。
薄墨を溶かしたような、銀に近い均一な灰色髪の若い男。困った風に下げられた眉の下、明るい朱の瞳は、先程までオークルが使っていた絵具の鮮やかな色を映したようで既視感があった。
「勝手に入ってすみません!…レッド階層長が先輩はここに居るだろうって、」
「……いや悪い。俺も時間を忘れていた。どのくらい待った」
「ついさっき来たばかりです。集中しているようだったので、声をかけるのもどうかなと思いまして」
えへへ、とぎこちなくはにかむのは、つい一週間程前からオークルが教育係として預かることになった清掃スタッフのグレイだ。
彼の絵に対する独特の感性はオークルとは合わないが、基本的に受け答えがハキハキしていて業務態度も真面目なところには純粋に好感が持てる。……しかし、オークルにとってグレイは正直厄介な後輩であった。
グレイは絵画内の生物に良く懐かれた。……いや懐かれるどころか、寧ろ好意とかそんなものを超越した執着のようにも思える好かれ具合だった。階層長らは「好かれてるならいいんじゃ?」と妙に楽観的だが、オークルから見れば度が過ぎているの一択だ。
だって襲われてるんだぞ?しかも二連続で。トップ達に。
そんなスタッフ、今までに一人も見たことが無い。勿論オークルだって、絵画内の生物とそんな風な空気になったことすら無かった。これが異常でなく何だというのだ。
ここ最近オークルの頭を悩ませている原因はもっぱらそれであった。
しかしそんなことだとは知らない、思ってもいないだろうグレイは、能天気にも目をキラキラさせてキャンバスを指差す。
「これ先輩が描いた絵ですか!?」
「……、ああ」
こいつもこいつで相当に楽観的だよな。あんなにめちゃくちゃヤられてた被害者、な、のに……。…いやもう考えないでおこう。頭痛がしてきた。
「綺麗な人ですね」
「…だよな。俺の技術不足だ」
「え?」
絵画内の生物達から聴取した特徴を合わせて、オークルはその手でヴァーミリオンの肖像画を描こうとしていた。
実はヴァーミリオンはその動く絵画の性質上か、画家人生の中で一枚も自画像を残していないのだ。また誰かにわざわざ描かせてもいなかったようで、彼の姿を知れるような資料は現代に残されていなかった。
あるとすればそれは、ヴァーミリオンが描いた自我を持つ生物の記憶の中にだけ。
彼らの記憶の中のヴァーミリオン像は様々。
突き抜けた奇人変人と揶揄する者もいれば、温かな慈愛に溢れた父の姿に重ねる者、天才的なその技術と研鑽に尊敬を抱く者もいる。
ただ、一番最初に出てくる印象が『綺麗』という一言で無かったのは確かだ。
正確な外見もまだ掴みかねている試作の段階ではあるのだが、オークルはヴァーミリオンという人物の温かさと、天才故のある種の研ぎ澄まされた狂気のようなものがうまく同居している、そんな雰囲気を表現したいと思っていた。しかし己が未熟なせいでまだそこには至れていないようだ。勿論自分でもわかっていたことだったが、改良の余地だらけだと改めて思い知らされる。
……そういえば、第二階層でグレイはヴァーミリオンと感性が似ているとか言われていたな。もしかして雰囲気的にも似ている部分があるのか?
思わずジッと全体を観察するような目でグレイを見つめていると、彼は少しだけビクつき、その後酷く居心地が悪そうにたじろいだ。
情けない態度に「……いや、無いな」とオークルが早々に見切りを付けて視線を逸らすと同時、安心したみたいにホッと息を吐いたグレイは、次いで感心を込めた呟きを発する。
「先輩って本当にヴァーミリオンの作品……というか、ヴァーミリオンのことが好きなんですね。こんな肖像画を描こうとするくらいに」
後ろ頭を掻きながら「まあ動く絵画なんて一回見たらもう二度と忘れられないか」と続けるグレイ。
その発言を受けて、オークルは自身の原点となった過去に思いを馳せた。
俺はそこそこ裕福な家庭の生まれで。子供の頃から絵を描くのが好きだったこともあって、よく父親が色々な美術館に連れて行ってくれていた。ヴァーミリオンの絵画館もその中に含まれていた一つだ。
12歳の誕生日、初めて動く絵画を目にした俺はすさまじい衝撃を受けた。
芸術というものは時代が移り変わるにつれて変化し、進化していくものだ。
科学技術の進歩によって写真が生まれ、写実的な絵画がそれに置き換わったように。それならばと、現実的では無い奇抜な色味を用いてみたり、形の無いものに形をつけて表現する絵画が更に生み出されていったように。
そして今現在も、その変化や進化を皆が求めている。固定された芸術の壁を壊し、より新しい何かを生み出そうと模索し続けている最中なのだ。
そんな中で見た、自分が生まれるよりずっと昔に描かれた絵画に驚いた。
よく言われているような、『動くこと』とか『話すこと』に感動したのではない。勿論それに衝撃を受けたのも嘘じゃないが、一番はその芯の部分だ。
俺は絵画の中の生物が命を、自我を持っていたことに心底驚いたのだ。
AIのようにプログラムされたものじゃない。描かれた1人1人が、誰をトレースしたでもないそれぞれ固有の人格を持っていた。生まれた時からの記憶、経歴なんかも事細かに語れる程あるのだ。
それは全部、ヴァーミリオンが細かく考えて、想いを込めて、刻み込むように絵具を塗り重ねていったからこそ成し遂げられたことに他ならない。
それはもう生命の誕生と同義だ。
何かを生み出すことは生物の出産や命の誕生と同じように尊いものだと例えられることもあるが、それで言うと、ヴァーミリオンの絵画には彼の命そのものが配られていると言っても過言ではない。
彼は、未だ人間が1人では到達できていない、絶対の壁を破っていた。超えていた。
……しかも絵でだぞ!?
細胞分裂だとか、そういう生物学的なことでクローンを生み出すとかならまだ分からなくも無いが、絵画でそれを成し遂げていることに俺は希望を見たのだ。
そんなことも出来てしまうのだと、夢を描いたのだ。
「──だから俺も、彼のような、……何かを打ち破れるそんな作品を描きたいと思った」
言い終わった後に、オークルは自分が声を出していたということに気付いた。目の前でポカンとした表情をこちらに向けるグレイを見て、じわりと羞恥が顔を熱くさせる。
つい夢中で語ってしまった……。
「……そろそろ移動するぞ」
気まずげな赤面を隠すように俯き、そそくさと出口へ足を動かすオークル。
そんな彼の背を目で追っていたグレイは、少しだけ考える素振りをして、
「俺、そこまで考えたこと無かったです。自分がヴァーミリオンの絵画を好きな理由。
……何となく、スッと心に響くというか。自分がもし絵を描けたのなら、才能があったのなら、…こういうものを描きたかったっていう想像を全部形にしてくれているような感覚があって。見ていると、凄く満たされた気分になるんです」
一度伏せた視線をオークルが描いていた肖像画に向けたグレイは、そう言って柔く微笑む。
「でも確かに、それは先輩の言う通り描かれた生物の魅力ありきの事なので、もしかしたら俺もそういう…生命の誕生の神秘?みたいな部分に無意識に惹かれていたのかもしれません。……先輩って頭良いんですね!!」
「……何だそれ」
子供のようなあっさりとした感想で結ばれた後輩の言葉に、オークルは先程までの羞恥も忘れ、思わず拍子抜けしてしまった。
出口付近へと駆け寄って来ていたグレイは、その後もう一度「あれ?」と首を傾げて、
「絵を描くのが夢なら、何で今の仕事に?……もしかして先輩も、偶々行った美術館でヴァーミリオンの作品を見つけて弾丸スカウトを受けた口ですか!?」
「は?『も』って何だ。そんな理由でスカウトされる奴なんて居るわけないだろ」
オークルの返答にグレイはどこか納得いかないような微妙な顔をした。
もしも、本当にあり得ないくらい低い確率でヴァーミリオンの動く絵画がどこかの美術館に紛れ込んでいたのだとしても、普通に考えて展示される前にスタッフが気付くだろう。だって動くんだから。まず他の絵画と同じように展示されていること自体現実的じゃない。
それくらいグレイでも考えつくことだろうに、……誰かに相当巧妙な嘘を教えられたのか?
「俺は普通に、子供の頃真冬の絵画館前で野宿して凍傷になりかけてたのをゴールド館長に助けられて同時にスカウトを受けた口だ」
「どこが普通!?そっちも大分特殊じゃないですか!っていうか真冬に野宿って死にたいんです!?」
「昔から身体は丈夫な方だったから」
「だったらいける!…とはなりませんよね??」
野宿をしようと思い立ったきっかけは、両親から「もうヴァーミリオンの絵画館へは連れて行かない」と明言されてしまったからだった。
12歳当時は第二階層までの展示しか見る事が出来ていなかったのだが、それでも(主に金銭的な面で)遊園地の年間パスの如き気軽さで通えるような場所ではなかったため、飽きもせず強請る俺に流石に限界が来たのだろう。今なら両親のその気持ちが理解できる。
そういうわけだったので、せめて絵画館の外の雰囲気だけでも味わおうという理由で野宿は決行されたのだ。物凄く迷惑な話だが、子供の勢いというのは凄まじいものがある。
盲目的だったのだ。齢12にして、自分が生きる道は此処しか無いとすら思っていた。
そんな厄介な子供を、ゴールド館長もよく大事な次代の館長候補にしてくれたものだ。……今考えても不思議でならない。
「スカウトされた方法がどうであれ、決めたのは俺だ。…絵は業務時間外にいつだって描けるからな。……それ以上に、やりたいことが出来た」
「やりたいこと?」
「俺はヴァ―ミリオンの弟子になって、この素晴らしい絵画を後世に残していきたい。その一員になりたいんだ」
ある種の執着にも似た情熱だった。自分もヴァーミリオンのような作品を生み出したい、とそう思ったのも勿論事実。だがそれ以前に、オークルは彼の絵画そのものに心を奪われてしまっていた。
生涯をかけてヴァーミリオンの作品に関わりたいと、そう思ってしまったのだ。
不意に、目をすぼめるようにしてこちらを見ていたらしいグレイと目が合う。
「?何だ」
「いえ…、先輩の姿が眩しくて……!」
「?」
「俺、先輩の絵のファン一号になります!」
「……いや、一号は親だが」
そもそもファンなんて居ないと思っていたのか、失礼にも「出遅れた!?」と心から驚くグレイの姿に、オークルは堪らずふはっ、と小さな笑みをこぼした。
まあ、この肖像画が完成した時には一番最初に教えてやっていいかもしれない、とそんなことを考えながら。
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