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第一階層 プロローグ-1
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「──この絵画館の二大規約を覚えているかい?」
上昇するエレベーターの中。自分と同じ、清掃用の黒い作業服を纏った上司が問う。
手に滲む汗を何度も何度もズボンに擦りつけていた俺は、その声でバッと弾かれたように顔を上げて、緊張から一直線に引き伸ばされていた唇を震わせた。
「はい!『絵画内に外界の物質を持ち込まない』、『絵画内の物質を持ち出さない』です!」
「うん、それが分かれば大丈夫。後はあっちでも上司や先輩の言う事をよく聞いて。
辛くなったらいつでも戻って来ていいからね、グレイ君」
ウインクと同時に名を呼ばれた、その瞬間。ポーンと軽い音が響いて目の前の扉がゆっくりと開く。上方の電光表示には、『2』という数字が明々と刻まれていた。
「頑張ってね」と、エレベーターの中で見送ってくれる上司に後ろ髪を引かれながら、しかしその激励に応えるために、俺は微かにぼやける視界を無理矢理腕で拭って、
新たな職場に足を踏み入れるのだった。
──数日前──
俺の仕事は、少し特殊だと思う。
「──わっ!びっくりした!!」
見晴らしの良い草原。その前方から草をかき分けて勢いよく走って来た小型の犬達を、間一髪で避ける。身体が傾いたからか、俺の右肩に乗っていた小鳥が抗議するようにバサバサと羽ばたいて数度俺の耳を叩いた。それに「ごめんごめん」と謝っていると、先程後ろへと駆け抜けて行ったかに思えた犬達が、俺の足の隙間から1匹、また1匹と頭を出して構って欲しそうにこちらを見上げて来る。愛らしい姿に堪らず目じりが和らいで、…しかしそれはすぐに申し訳なさそうなものに変わる。
「ごめんな。遊ぶのは掃除が終わってからなんだ」
そう言って俺──グレイは、じゃれつく犬達の内1匹の頭部にくっついていた灰色のモヤのようなものを、持っていた大きめのブラシでそっと絡め取った。
しかしその行動は、グレイが彼らを構おうとしているとでも勘違いさせてしまったのか、犬達はよりはしゃいだようにウロチョロと俺の足元を駆け回り始める。
それを止めたのは、真隣で響いた「ブオオ…」というやや高めの鳴き声だった。
「あ、」
グイグイと鼻先で優しくグレイの灰髪頭を押してくるのは、横に広い酷く立派なツノを持つ、グレイが見上げるほどに巨大なヘラジカ。彼は自身の体長より数十倍小さな犬達に、長いまつ毛に覆われた黒目を向けると、もう一度「ブオオ、」と静かに鳴いた。
それは我が子の粗相を諌めるような、厳しくも優しい響きで。
犬達もそれを感じ取ったのか、ヘラジカとグレイの顔を数度見比べてから再び元気よく走り出して、それほど遠くない場所で仲間同士じゃれつき出す。おそらくそこでグレイの仕事が終わるのを待つつもりなのだろう。
犬達を諌めてくれた礼を言おうと改めてヘラジカのヘラさん(これはグレイが勝手に呼んでいる名前だ)を見上げて、
「ヘラさんありが…と、って、また『霞』集めてくれたの!?俺がやるからいいって言ってるのに…」
ヘラさんの力強く、そして白くて美しかった角は、今は見る影が無い程薄黒いモヤで覆われていた。
ヘラさんは慌てるグレイを宥める様に、ゆっくりとした動きで地面へ横たわる。角にグレイの手が届くように、位置を下げてくれたのだ。
ブラシを一旦腰に下げていた袋に仕舞い、同じ場所から白い布を取り出す。グレイは彼に感謝を伝えながら、灰色の『霞』を乾いた布で丁寧に拭いとった。
グレイの毎日の業務内容は、この『霞』を専用の道具で取り除くことだ。
本来『霞』はここら一帯に転々と散らばっており、清掃とは基本それを探すところから始めるものだが、ヘラさんはグレイよりも先にその『霞』を集めてグレイを手伝ってくれることが多かった。
ありがたいけど、他の動物達のようにもっと寛いでいいんだよ、と毎度お馴染みの言葉を送るが、ヘラさんもまたいつもの様に耳を伏せて聞いていないふりをする。グレイが清掃スタッフの仕事に就いてから1年間、変わらないやりとりだった。
布が段々と黒く染まっていくのとは逆に、ヘラさんの角が元の白さを取り戻していく様は見ていて気持ちがいいものだ。
片方の拭き取りを終えてまた別の布巾を取り出そうとしていた時、背後から声がかかる。
「彼が自分の身体に触れさせて、ましてや清掃の手伝いまでしてくれるスタッフなんて君だけだよ。グレイ君」
「! グリーン階層長、お疲れ様です!」
「相変わらず好かれているみたいだね」
いつの間に近くに来ていたのか、振り向いた先で手を振るのはグレイの上司であるグリーンだ。彼はグレイの周りに集っていた動物達を見回すと、その笑みをより一層深くした。
「ちょっと話したいことがあるんだけど、今いいかな?」
「あ、はい。何でしょう」
「ここじゃ何だから、ひとまず絵の中から出ようか」
「はい!……ちょ、痛っ、やめ、痛い痛い!?」
ずっと肩にとまっていた小鳥が、まるで抗議するようにグレイの頬を嘴で何度もつつく。上司のグリーンはそれを微笑まし気な表情で見やって、
「横取りをするつもりはありませんよ。すぐに戻させますから、少しだけ待っていて下さい」
チラリと一瞬だけグリーンに目をやった風な小鳥は、数秒も経たない後にグレイの肩から飛び立ちヘラジカの背へと居場所を移す。
それを見届けたグレイ達は、数歩行った先、この草原には到底似合わない異質さでぽっかりと浮かぶ大きな四角い枠へと何の躊躇も無く手を翳した。
途端にぐわん、まるで脳を一回転させたみたいにグレイの見えていた世界は大きく揺らいで、
次の瞬間、そこはもう『絵画館』だった。
立て掛けられていた脚立を降りて顔を上げれば、そこに展示されているのは先程までグレイらが居た草原を切り取った絵画。中心で未だ伏せたままのヘラさんは、こちらをジッと見てから、「早くしてよね」と言わんばかりに静かに目を伏せる。
「行こう。グレイ君」
「はい!」
俺の仕事は清掃スタッフだ。
何処って、勿論、絵画の中の。
ヴァーミリオンの絵画館。
その名の通り、その昔ヴァーミリオンという一人の画家が描いた、世にも珍しい動く絵画が展示される唯一無二の場所である。
誰も真似出来ない、現代の科学では証明出来ない魔法のようなその絵画。そんな絵は管理も特殊で、温度や湿度管理は勿論のこと、それとは別に特別な清掃業務が発生する。それが今の俺達の仕事である、実際に絵の中へ入り、中の『霞』を取り除くというもの。
この『霞』の実態はまだよく分かっていないらしいが、空気中に飛ぶ埃だったり、そんな外界の物質が入り込み絵の中で固まったものではないかと言われている。これを放置すると絵画が劣化してしまうので、清掃スタッフの手によるこまめな掃除が必要なのだ。
勿論その際に自身の持ち物などを絵画内に置いて行くなどということをしてはいけない。それが霞を発生させて絵の品質を下げる可能性があるからだ。
同時に絵の中の物を持ち出すのも当然禁止。いくら光り輝く宝石も、見たことが無い程美味しそうなケーキも、絵の中にある物質は全て絵具で出来ている。外界へと取り出したそれに当然絵の中と同等の価値は無く、また取り出した分だけその絵画の絵具量が減少し品質劣化を招くのだ。良いことなど一つも無い。
これは絵画館の破ってはいけない二大規約で、違反したものは即刻クビもあり得る非常に厳しい禁則事項だ。
その他に、規約には入ってないが絶対に守らなければならない不文律のようなものが1つ。それは絵画内の生物の機嫌を損ねない事。彼らが過度なストレスを感じることで霞が発生する例もあるらしい。実際に昔、それが原因で一枚の絵が駄目になった事もあると噂で聞いた。
絵画内の生物達は、どれだけ動きや質感が本物と似通っていようとも、そこに存在する無機物と同じく結局は絵具の塊でしかない。しかし不思議なことに、彼らには自我やそれぞれ異なる性格を有しており、更には人間の言葉も理解出来るのだ。そのため俺達は、無機物相手ではなく、個としての敬意を持って彼らとコミュニケーションをとることを大事にしている。
…だからこそ起こり得る悲劇を防ぐため、そんな不文律があるのだろうけど。
俺が清掃スタッフとして雇えてもらえて約1年が経つ。こんな風に特殊過ぎる絵に関われているだなんて、いや、そもそも動く絵画なんてものが存在することさえ、きっと昔の俺が聞いたら目玉を落として驚くことだろう。
そう。基本的にこの絵画館は一般開放されていない。厳重な警備の中、完全紹介制による上流階級の更に一握りの人間だけしか見ることの出来ない、超絶レアな絵画なのである。
本来であれば、一般市民の俺なんかには一生目にすることすら叶わなかったもの。それなのに俺が今この職に就けているのは、正直運によるところが大きい。
元々絵を見るのは好きだった。その日も近場の無料開放されている小さな美術館で、新しい展示物が増えたというので見に行って……。そこで、あのヘラジカのヘラさんが描かれた絵と出会ったのだ。
作者不明の展示物。客はもはや俺しか居ないんじゃないかと錯覚する程閑散とした室内で、まさか絵の中の動物が動き出し、絵の枠いっぱいに顔が映り込む程近付いて来るなんて思いもよらなかった。徐々に近付いて来る様子は正直何のホラーかと思った。
すかさず職員に伝えて、一日も経たない内に何故か俺は正体不明の黒服達によってその絵と共にヴァーミリオンの絵画館に連れてこられ、流れるように館長のゴールドさんと出会い、何とも軽い感じで「君ここで働いてみる?」とスカウトを受けて、俺も勿論断る理由が無かったので即決。そして弾丸採用。元々雇用してもらっていた職場にはその足で辞表を出しに行った。
あれは今思い出しても怒涛の1日だったな……。
まあそんな昔話はいいとして。
今回上司から聞いた話というのは、端的に言えば俺の出世の話だった。どうやら風景や多種の動物が描かれた絵画が展示されているこの第一階層での清掃業務で、俺が動物に懐かれていることを評価されたらしい。他の階層でも仕事をしてみないかと提案されたのだ。
セキュリティが厳しいこの絵画館では、それぞれの階層において一定の権限を持っている者でなければ上の階層へと立ち入る事すら許されていない。そしてこの第一階層は最下層。勿論俺も上層の絵を目にしたことは無かった。
この階層の動物達は好きだし愛着もあるが、純粋にヴァーミリオンが描いた他の絵も見てみたいという好奇心に勝るものは無く。俺は上司からの打診に二つ返事で頷いたのだった。
そうして冒頭に戻る。
上昇するエレベーターの中。自分と同じ、清掃用の黒い作業服を纏った上司が問う。
手に滲む汗を何度も何度もズボンに擦りつけていた俺は、その声でバッと弾かれたように顔を上げて、緊張から一直線に引き伸ばされていた唇を震わせた。
「はい!『絵画内に外界の物質を持ち込まない』、『絵画内の物質を持ち出さない』です!」
「うん、それが分かれば大丈夫。後はあっちでも上司や先輩の言う事をよく聞いて。
辛くなったらいつでも戻って来ていいからね、グレイ君」
ウインクと同時に名を呼ばれた、その瞬間。ポーンと軽い音が響いて目の前の扉がゆっくりと開く。上方の電光表示には、『2』という数字が明々と刻まれていた。
「頑張ってね」と、エレベーターの中で見送ってくれる上司に後ろ髪を引かれながら、しかしその激励に応えるために、俺は微かにぼやける視界を無理矢理腕で拭って、
新たな職場に足を踏み入れるのだった。
──数日前──
俺の仕事は、少し特殊だと思う。
「──わっ!びっくりした!!」
見晴らしの良い草原。その前方から草をかき分けて勢いよく走って来た小型の犬達を、間一髪で避ける。身体が傾いたからか、俺の右肩に乗っていた小鳥が抗議するようにバサバサと羽ばたいて数度俺の耳を叩いた。それに「ごめんごめん」と謝っていると、先程後ろへと駆け抜けて行ったかに思えた犬達が、俺の足の隙間から1匹、また1匹と頭を出して構って欲しそうにこちらを見上げて来る。愛らしい姿に堪らず目じりが和らいで、…しかしそれはすぐに申し訳なさそうなものに変わる。
「ごめんな。遊ぶのは掃除が終わってからなんだ」
そう言って俺──グレイは、じゃれつく犬達の内1匹の頭部にくっついていた灰色のモヤのようなものを、持っていた大きめのブラシでそっと絡め取った。
しかしその行動は、グレイが彼らを構おうとしているとでも勘違いさせてしまったのか、犬達はよりはしゃいだようにウロチョロと俺の足元を駆け回り始める。
それを止めたのは、真隣で響いた「ブオオ…」というやや高めの鳴き声だった。
「あ、」
グイグイと鼻先で優しくグレイの灰髪頭を押してくるのは、横に広い酷く立派なツノを持つ、グレイが見上げるほどに巨大なヘラジカ。彼は自身の体長より数十倍小さな犬達に、長いまつ毛に覆われた黒目を向けると、もう一度「ブオオ、」と静かに鳴いた。
それは我が子の粗相を諌めるような、厳しくも優しい響きで。
犬達もそれを感じ取ったのか、ヘラジカとグレイの顔を数度見比べてから再び元気よく走り出して、それほど遠くない場所で仲間同士じゃれつき出す。おそらくそこでグレイの仕事が終わるのを待つつもりなのだろう。
犬達を諌めてくれた礼を言おうと改めてヘラジカのヘラさん(これはグレイが勝手に呼んでいる名前だ)を見上げて、
「ヘラさんありが…と、って、また『霞』集めてくれたの!?俺がやるからいいって言ってるのに…」
ヘラさんの力強く、そして白くて美しかった角は、今は見る影が無い程薄黒いモヤで覆われていた。
ヘラさんは慌てるグレイを宥める様に、ゆっくりとした動きで地面へ横たわる。角にグレイの手が届くように、位置を下げてくれたのだ。
ブラシを一旦腰に下げていた袋に仕舞い、同じ場所から白い布を取り出す。グレイは彼に感謝を伝えながら、灰色の『霞』を乾いた布で丁寧に拭いとった。
グレイの毎日の業務内容は、この『霞』を専用の道具で取り除くことだ。
本来『霞』はここら一帯に転々と散らばっており、清掃とは基本それを探すところから始めるものだが、ヘラさんはグレイよりも先にその『霞』を集めてグレイを手伝ってくれることが多かった。
ありがたいけど、他の動物達のようにもっと寛いでいいんだよ、と毎度お馴染みの言葉を送るが、ヘラさんもまたいつもの様に耳を伏せて聞いていないふりをする。グレイが清掃スタッフの仕事に就いてから1年間、変わらないやりとりだった。
布が段々と黒く染まっていくのとは逆に、ヘラさんの角が元の白さを取り戻していく様は見ていて気持ちがいいものだ。
片方の拭き取りを終えてまた別の布巾を取り出そうとしていた時、背後から声がかかる。
「彼が自分の身体に触れさせて、ましてや清掃の手伝いまでしてくれるスタッフなんて君だけだよ。グレイ君」
「! グリーン階層長、お疲れ様です!」
「相変わらず好かれているみたいだね」
いつの間に近くに来ていたのか、振り向いた先で手を振るのはグレイの上司であるグリーンだ。彼はグレイの周りに集っていた動物達を見回すと、その笑みをより一層深くした。
「ちょっと話したいことがあるんだけど、今いいかな?」
「あ、はい。何でしょう」
「ここじゃ何だから、ひとまず絵の中から出ようか」
「はい!……ちょ、痛っ、やめ、痛い痛い!?」
ずっと肩にとまっていた小鳥が、まるで抗議するようにグレイの頬を嘴で何度もつつく。上司のグリーンはそれを微笑まし気な表情で見やって、
「横取りをするつもりはありませんよ。すぐに戻させますから、少しだけ待っていて下さい」
チラリと一瞬だけグリーンに目をやった風な小鳥は、数秒も経たない後にグレイの肩から飛び立ちヘラジカの背へと居場所を移す。
それを見届けたグレイ達は、数歩行った先、この草原には到底似合わない異質さでぽっかりと浮かぶ大きな四角い枠へと何の躊躇も無く手を翳した。
途端にぐわん、まるで脳を一回転させたみたいにグレイの見えていた世界は大きく揺らいで、
次の瞬間、そこはもう『絵画館』だった。
立て掛けられていた脚立を降りて顔を上げれば、そこに展示されているのは先程までグレイらが居た草原を切り取った絵画。中心で未だ伏せたままのヘラさんは、こちらをジッと見てから、「早くしてよね」と言わんばかりに静かに目を伏せる。
「行こう。グレイ君」
「はい!」
俺の仕事は清掃スタッフだ。
何処って、勿論、絵画の中の。
ヴァーミリオンの絵画館。
その名の通り、その昔ヴァーミリオンという一人の画家が描いた、世にも珍しい動く絵画が展示される唯一無二の場所である。
誰も真似出来ない、現代の科学では証明出来ない魔法のようなその絵画。そんな絵は管理も特殊で、温度や湿度管理は勿論のこと、それとは別に特別な清掃業務が発生する。それが今の俺達の仕事である、実際に絵の中へ入り、中の『霞』を取り除くというもの。
この『霞』の実態はまだよく分かっていないらしいが、空気中に飛ぶ埃だったり、そんな外界の物質が入り込み絵の中で固まったものではないかと言われている。これを放置すると絵画が劣化してしまうので、清掃スタッフの手によるこまめな掃除が必要なのだ。
勿論その際に自身の持ち物などを絵画内に置いて行くなどということをしてはいけない。それが霞を発生させて絵の品質を下げる可能性があるからだ。
同時に絵の中の物を持ち出すのも当然禁止。いくら光り輝く宝石も、見たことが無い程美味しそうなケーキも、絵の中にある物質は全て絵具で出来ている。外界へと取り出したそれに当然絵の中と同等の価値は無く、また取り出した分だけその絵画の絵具量が減少し品質劣化を招くのだ。良いことなど一つも無い。
これは絵画館の破ってはいけない二大規約で、違反したものは即刻クビもあり得る非常に厳しい禁則事項だ。
その他に、規約には入ってないが絶対に守らなければならない不文律のようなものが1つ。それは絵画内の生物の機嫌を損ねない事。彼らが過度なストレスを感じることで霞が発生する例もあるらしい。実際に昔、それが原因で一枚の絵が駄目になった事もあると噂で聞いた。
絵画内の生物達は、どれだけ動きや質感が本物と似通っていようとも、そこに存在する無機物と同じく結局は絵具の塊でしかない。しかし不思議なことに、彼らには自我やそれぞれ異なる性格を有しており、更には人間の言葉も理解出来るのだ。そのため俺達は、無機物相手ではなく、個としての敬意を持って彼らとコミュニケーションをとることを大事にしている。
…だからこそ起こり得る悲劇を防ぐため、そんな不文律があるのだろうけど。
俺が清掃スタッフとして雇えてもらえて約1年が経つ。こんな風に特殊過ぎる絵に関われているだなんて、いや、そもそも動く絵画なんてものが存在することさえ、きっと昔の俺が聞いたら目玉を落として驚くことだろう。
そう。基本的にこの絵画館は一般開放されていない。厳重な警備の中、完全紹介制による上流階級の更に一握りの人間だけしか見ることの出来ない、超絶レアな絵画なのである。
本来であれば、一般市民の俺なんかには一生目にすることすら叶わなかったもの。それなのに俺が今この職に就けているのは、正直運によるところが大きい。
元々絵を見るのは好きだった。その日も近場の無料開放されている小さな美術館で、新しい展示物が増えたというので見に行って……。そこで、あのヘラジカのヘラさんが描かれた絵と出会ったのだ。
作者不明の展示物。客はもはや俺しか居ないんじゃないかと錯覚する程閑散とした室内で、まさか絵の中の動物が動き出し、絵の枠いっぱいに顔が映り込む程近付いて来るなんて思いもよらなかった。徐々に近付いて来る様子は正直何のホラーかと思った。
すかさず職員に伝えて、一日も経たない内に何故か俺は正体不明の黒服達によってその絵と共にヴァーミリオンの絵画館に連れてこられ、流れるように館長のゴールドさんと出会い、何とも軽い感じで「君ここで働いてみる?」とスカウトを受けて、俺も勿論断る理由が無かったので即決。そして弾丸採用。元々雇用してもらっていた職場にはその足で辞表を出しに行った。
あれは今思い出しても怒涛の1日だったな……。
まあそんな昔話はいいとして。
今回上司から聞いた話というのは、端的に言えば俺の出世の話だった。どうやら風景や多種の動物が描かれた絵画が展示されているこの第一階層での清掃業務で、俺が動物に懐かれていることを評価されたらしい。他の階層でも仕事をしてみないかと提案されたのだ。
セキュリティが厳しいこの絵画館では、それぞれの階層において一定の権限を持っている者でなければ上の階層へと立ち入る事すら許されていない。そしてこの第一階層は最下層。勿論俺も上層の絵を目にしたことは無かった。
この階層の動物達は好きだし愛着もあるが、純粋にヴァーミリオンが描いた他の絵も見てみたいという好奇心に勝るものは無く。俺は上司からの打診に二つ返事で頷いたのだった。
そうして冒頭に戻る。
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