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番外編 古城 蒼(+伊織)①
しおりを挟む最近、少し気になることがある。
リビングには、悠也が持つスチームアイロンの蒸気音と、ついさっき風呂に行った潤がそのままにしていったテレビからの遠く賑やかな音だけが満ちていた。
悠也は、潤の白いカッターシャツにアイロンをかけている最中、近くのソファーに腰かける伊織をチラリと盗み見る。
足先を組み、背もたれに凭れかかって楽な姿勢を取った彼は、夕食を終えてからかれこれ1時間程、手の内のスマートフォンを黙々と操作し続けていた。
「伊織、何かアイロンかけたほうが良い服あるか?」
「…んー」
「どっちだよ」
「……いや、ない」
「……」
問いかければ一応反応は返してくれるが、視線がこちらに向けられることは無い。
悠也は、手元で綺麗に伸ばされた温かいシャツを少しだけ高く持ち上げ目の前でハンガーに通すと、その一枚の布に隠れるようにしてごくごく小さく息を吐いた。
ここ何週間か、伊織は何か欲しいものでもあるのかバイトのシフトを増やしたらしい。
そのせいで深夜に帰宅することが多くなり、朝も授業の時間ギリギリまで眠っているため、活動時間が重ならない俺達は顔を合わせる機会がガクンと減ってしまった。
そして、たまに今日のように早く帰ってきたとしても、伊織はスマホの画面に釘付けで気軽に会話が出来るような雰囲気でもないのである。
少し前までであれば、伊織は気づかない内にするっと俺の横に来てくつろいでいたし、スマホもそこで弄っていたりしていた。
気に入った写真や画像があれば逐一俺に「これ見て」と共有してきていたものだが、最近はむしろ避けられているような気さえする。この前なんか、隣に座ったらあからさまに携帯伏せられたし。
いやね、見られたく無いものもあるだろうし別にそれはいいんだよ。
だけど、今までは伊織が何も気にしてない風だったってこともあって、その変化がほんの少しだけ気になってしまう。特に、コミュニケーションが全く取れていない今は。
ふいに、トイレだろうか、伊織が立ちあがり、スマホをローテーブルの上に置いて部屋から出て行く。
手を伸ばしたらギリギリ届きそうな場所に置かれたそれは、画面が明るいままだった。
そこで、悠也に悪い考えがよぎる。
いいやダメだ、プライバシーの侵害だ!などと良心が咎めたが、でも少しだけ!一瞬チラッと見るだけだから!AVとかでも全然気にしないし!と何度も自分に言い訳をして、
小さなその画面をゆっくり覗きこみ──、
ポコン
軽快な音と共に、薄目で確認しようとしていた伊織のスマホ画面に、メッセージアプリからの通知が表示される。
文がはっきり表示されたそれに、一瞬で悠也の目は釘付けにされた。
『昨日夜楽しかったね♪ また行こう~(^^)』
送信者の名前は、明らかに女性のものだった。
昨日…って、確か伊織は、大学が終わった後深夜までバイトって言ってたよな?
えっと、その後に?
それとも、バイトっていうのは嘘で、本当は──、
「──ちょっと、」
いつの間にか戻ってきた伊織が、少し焦った風に机からスマホを取り上げる。
「…見た?」
「い、いや、見てない」
咄嗟に悠也の口から出たのは、罪悪感からくる嘘の言葉だった。
その返答に伊織は、分かりにくいが少し安心したように表情を緩ませて、
「勝手に人のスマホ見ようとすんなよな。 変態」
悠也を見下ろしながら冷たく突き放すような物言いをした伊織は、そのまま自室へと戻っていった。
リビングに取り残されたのは、ポカンと口を開き間の抜けた表情を晒す悠也一人だけ。
しかし悠也も、伊達に歳を重ねているわけじゃあない。
まあそんなこともあるか…、と深く意識し過ぎないように努めていた、その翌日の事だった。
仕事帰りに食材の買い物をしようと、そのままスーパーに向かっていた時、偶然、会社付近で伊織を見かけたのだ。
外で姿を見るのも何だか久々で、ここら辺に何か用があったのかな?と不思議に思い、声をかけようと手を上げたところで、俺の声は別の高い声と重なって消える。
「伊織! ごめんお待たせ~!」
「いや、俺もさっき来たし」
「待って、その返し完全に彼氏じゃん!」
長い髪を緩く巻いた、おそらく伊織と同じ大学生であろう女性が、俺より先に伊織に駆け寄る。どうやら待ち合わせをしていたようだった。
明るそうな彼女の声と、年相応に笑う伊織を認識し、俺は咄嗟に背を向けて足を動かす。
伊織は、今日もバイトだと言っていた。
夕飯は食べてくるからいらない、と。
…いや別に、伊織も女の子の友達いるだろうし。
その人と遊んだりするのは全くおかしいことじゃないし。
俺に説明するのが面倒だからって理由とかで、夕飯がいらない理由を「バイト」って言うのも理解できる。
伊織には伊織の付き合いがある。
それを俺が、邪魔していい訳がない。
そう思って、モヤモヤと泥がまとわりつくような心を無視して、見なかったことにしようと、意識しないようにしようとしていたんだよ。
その時までは。
「は?」
「だから、浮気してるんじゃねぇのって。 あの古城ってやつと」
朝食に、同僚の古城から貰ったベーコンを出した時のことだった。
取引先から大量に渡されたものを消費してくれ、とそんな理由で渡されたものだった。
それを伝えて、返ってきたのが伊織のその台詞だ。
「いや、そんなわけないじゃん」
「どーかな。 こんなの普通は、別部署の人間にわざわざ渡さないんじゃねぇの?
前に、肩抱かせたりしてたし。 こっちは会社で悠也が何しててもわかんねぇから」
社員の中で唯一会ったことのある古城に対して、何故か前から警戒しているらしい伊織だったから、その発言が嫉妬から来たものだというのはわかっていた。
しかし、タイミングがタイミングだったのと、俺の事を信頼してない風な言われ方に、
流石に、カチンと来る。
「伊織が思うならそうなんじゃない?」
言い争うのも面倒になって、さっさと会社へ行こう、と悠也は会話を打ち切るが、自然と普段より冷たい声が出た気がした。
「…何だよその言い方。 ちゃんと否定しろよ」
「否定はした。 それをさらに疑ったのは伊織だろ」
自室に鞄とスーツのジャケットを取りに歩く悠也の後ろを、どこか戸惑った感じの伊織が追いかけてくる。
言い方が頭に来はしたけど、伊織が嫉妬する気持ちが全面的に嫌な訳ではないし、悠也も本気で怒っている訳ではなかった。焦った風に「何怒ってんの」と追いかけてくる伊織が少し面白くて、吹き飛んでしまったというのもあったが。
だから、玄関にまで無言でちょこちょこと付いてきた伊織に、「本当に何もないから安心しろ」と、笑って言うつもりでいたのだ。
その仏心は、
「悠也が浮気してたら、俺も浮気し返してやる」
出勤直前に言われた伊織のその言葉で、塵となって消えたが。
………こいつ、自分が疑われるような事してる自覚ないのか?
浮気し返す??何言ってんの??というか、やろうと思えば出来るの??
そのたった一言の台詞は、見事、的確に悠也の地雷をぶち抜いた。
悠也はふーーっと大きく息を吐いてから、ゆっくり扉を開け、振り返りざま伊織に満面の笑みを向けて言う。
「――伊織、お前、ホントあの男にそっくりだな」
「……え、」
バタン!!!
言い終わったと同時に激しく閉められた玄関の扉を、伊織は呆然と見つめた。
実はずっとリビングにいた潤が、その頬袋に白米を詰めながら玄関通路に顔を出し、
「破局秒読み?」との鋭い一言を伊織に投げた。
*
今回は伊織が悪い。
悠也は、最初こそ据わった目でパソコンのキーボードを打ち鳴らしながら、怒りの感情を沸々と体内で滾らせていたが、時間が経って冷静になると、徐々にそれ以外のことも考えられるようになる。
悠也は溜息を吐きながら、手に取った資料を眺めるふりをして、今朝のことを想い返していた。
伊織が浮気する気がないだろうことも、していないだろうってことも分かる。
分かるというか、そこは普通に信頼している。
結構誠実なやつだから、本当に俺以外に好きな人が出来た時には、そこらへんしっかりけじめつけそうだし。
そうなった時はもう俺の気持ちどうこうは関係ないだろう、…と一応思ってはいるのだ。
だからというのもあって、伊織から俺への信頼と、俺から伊織への信頼どちらもを踏みにじった今朝のあの「浮気してたらし返す」発言には、流石にカッとなった。
伊織も、売り言葉に買い言葉って感じで言ったんだろうけど、それにしてもモラルどっかに落としてきたのかと言いたくなる台詞だったな。
…そして俺も、伊織が父親に似ていると嫌味を言ったのは完全に勢いだ。俺があの人のことを良く思っていないことは、伊織も分かっているだろうと思って言った。
確かに伊織の顔は父親似だし、潤曰く雰囲気も似ているらしい。本人もそれは自覚していることだと思う。
でも、本気で中身まで全部似ていると思ってるわけじゃないし、二人にとってはいい父親らしかったあの人を否定したいわけでもなかった。
…言葉的には否定した感じになってしまったけど。
潤もリビングで聞いてたかもだし、悪いことしたかな…。後で謝ろう。
伊織と付き合い始めた当初、あの人のこととの関連を考えなかったわけではない。
もしかすると、俺は幼少期にあの人に愛されたかったと無意識に思っていて、それを伊織に求めているんじゃないかって。だけど、その自己分析は早々にないと言いきれた。
伊織に思うのは、通常父親に求めるだろう、包み込んで欲しいと思うような愛情ではなくて。
守ってやりたくて、少し支えられたくもあって、
でも一番は、隣で一緒に歩いていきたいというそんな対等な思いだ。
伊織はあの人じゃない。わかってる。俺だってあの人じゃないんだから。全人類が不倫するわけでもないし。
だからまあ、…帰ったら、話し合わなきゃなあ。
全く頭に入っていはいない資料を机に置いて、しかし一応別ジャンルに対する思考にはキリが付いたので、悠也は丸まっていた背筋をグッと伸ばした。
大分冷静になったし、家に帰ったらやることも考えがまとまったが、感じた腹立たしさは依然胸の隅で小さく居座り続けてはいる。
そりゃあそんなにすぐ消えるわけもないか。
お酒とか飲んで、パーっと発散できるような事があればいいんだけどなー。
誘う相手なんて居ないしなー。
…泣いてないけど。
悠也がそんなことを考えていると、
「おっす高崎」
聞き慣れた声が名前を呼んだ。
「──古城、何かあった?」
「いや? たまたま資料もらいに通りかかっただけ。 高崎が俺のイケ顔が見たい頃かなーと思って見せに来てやったぞ。 感謝しろ」
「押し売り感が凄いな…。 あ、それはそうとベーコンありがとう。今朝食べたけど美味かった! 弟も喜んでたよ」
約1名を覗いてだけど。
「おー良かった良かった。 営業部全員に配っても消費しきれなかったから助かったわ。 伊織君と…、潤君だったっけ? もう俺が養育したと言っても過言じゃないな」
「いやそれは過言だろ」
はははと笑う古城は、どうやら営業の外回り前にここに寄ったみたいだ。同行するのであろう早乙女君が、入り口付近で居心地悪そうにソワソワしている。
可哀想だから早く戻ってやってくれ。
「あのベーコン、俺は酒のつまみにすっかな」
その、古城が何となしに言った台詞に、俺はバッと敏感に反応した。
誘う相手、いたかもしれない。
社内で唯一友人と呼べるかもしれない人は古城だけだし、飲もうぜと誘われたことも複数回あった(その時は断ったけど)から、俺と食事を共にすることを嫌がっているわけじゃないだろう。
何故か伊織に浮気相手かもと疑われている人物だが、俺から見たらそれは絶対ないと言い切れる。だってどう見てもそういう相手には困ってないだろうし。
それに、今朝の伊織の言葉を肯定するようで葛藤はあったが、少し、少しだけ伊織に意趣返しの意図も込めて。
「古城、今夜…開いてるか?」
俺は初めて、古城を食事に誘った。
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