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1巻

1-3

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 桜輔は助手席のドアを開けてくれ、咲良は緊張しつつシートに腰掛ける。すると、運転席に回った彼との距離が近いことに、どうにも身の置き場がないような感覚を抱いた。

(運転席と助手席の距離って、こんなに近かったっけ……?)
「じゃあ、店に向かいます」
「はい。よろしくお願いします」

 咲良が咄嗟に平静を装って丁寧に頭を下げれば、桜輔が口元をわずかに緩めた。微かなその変化は、きっと瞬きをしていれば見過ごしていただろう。
 緊張感でいっぱいになりそうだった咲良だが、彼のわかりにくい変化に気づけたことが嬉しくて、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
 店は桜輔が選び、予約までしてくれていた。これではお礼にならない気もしたが、『こちらで手配しておきます』と言われてお願いしたのだ。
 スペイン料理をメインにしたバルの店内は、壁にスペインの街とおぼしき写真が何枚も飾られ、テーブルごとに壁で仕切られており半個室になっている。
 個室なら気まずさが勝るかもしれないが、咲良の中に抵抗感はなかった。それに、このタイプのテーブルなら人目をあまり気にせずにいられる上、ゆっくり話せるだろう。

「素敵なお店ですね。よく来られるんですか?」
「同期と一度来ただけですが、料理がうまかったので。あ、スペイン料理は大丈夫ですか?」
「はい。パエリアとか生ハムが好きです」
「じゃあ、それは頼みましょう」

 桜輔は外見こそ取っ付きにくそうだが、話してみると意外と会話が途切れない。表情の変化はわかりづらいものの、怒っているわけではなく無愛想なだけだと思えば気にならなかった。
 そもそも、先日は咲良が落ち着くまで一緒にいてくれ、頻繁に電話までくれている。そういったところに始まり、今日は車の乗降時にドアを開けてくれたり、咲良の好みを尋ねつつメニューを選んでくれたりと、気遣いができて優しい人だとよくわかる。

(セツさんの話だと独身だってことだけど、恋人とかいないのかな?)

 ふとそんなことを考えてハッとする。
 もし彼に恋人がいれば、こうして会っているのは良くないことではないだろうか。そんな思いがよぎり、慌てて口を開いた。

「あの……堂本さんって恋人とかいらっしゃいますか?」

 注文を終えるなり尋ねた咲良に、桜輔が意表を突かれたように瞠目どうもくする。

「い、いや……そういう人はいませんが……。どうしてですか?」

 戸惑いを浮かべる彼の表情に、咲良はホッと息をついた。

「良かったです。もしそういう方がいらっしゃれば、こうしてお会いするべきじゃなかったと心配してしまったので……」

 きょとんとした桜輔が、ため息交じりに眉をひそめる。咲良は自分が失言したのかと不安を覚えたが、一瞬気まずくなった空気はすぐに溶けた。

「お待たせいたしました。ドリンクと生ハムです」

 タイミング良く来てくれた店員に感謝しつつも、数十秒前の桜輔の様子が気になる。そんな咲良を余所に、彼は「食べましょう」と短く告げた。
 咲良はノンアルコールのサングリアに、桜輔はウーロン茶に口をつける。途端、先ほどまでに反して沈黙に包まれた。
 お礼を、と言ったのは咲良だ。しかし、咲良は男性と二人きりで食事をしたことなんてない。
 恋人どころか好きな人もできないまま、二十七年。そんな咲良から、気の利いた言葉が出てくるはずがない。
 彼も気まずいのか、生ハムを二枚食べたきり、手も口も動かしていなかった。

(えぇっと、何か話題を……。川辺さんのことと電話のお礼は車で言ったから、それ以外で……。ひだまりの利用者さんなら男性でも普通に話せるのに……)

 グルグルと考えていたとき、自分たちの共通の話題を見つけた。

「セツさんって、素敵な方ですよね。明るくてお話が上手で、ときには冗談も言ってくれて……セツさんと話すと、いつも元気をもらえるんです」

 桜輔の瞳が和らぎ、咲良は自身の選択が間違っていなかったことに安堵する。

「マニキュアを選ぶときはすごく楽しそうにしてくださって、ネイルが完成すると満面の笑みを見せてくださるんです。私、いつもそれがすごく嬉しくて」

 夢中でセツを褒めていると、彼の双眸そうぼうがどんどん柔らかくなっていく。一見するとやっぱりわかりにくいが、よく見れば先ほどまでと全然違っていた。

「そうですか。ですが、祖母は一時期、あまり元気がなかったんです。でも、いつからかあなたの話をするようになって、元の明るい祖母になっていきました。祖母がまた笑顔を見せてくれるようになったのは、深澤さんのおかげだと思います」
「え?」
「祖母の足が悪くなったのは、祖父が亡くなった直後のことでした。車椅子での生活を余儀なくされたことで、祖母は以前より自分で探していたひだまりに入ると言い、一人で今後の身の振り方を決めてしまいました」

 ためらいを覗かせながらも、桜輔の口調はしっかりとしたものだった。ただ、そこには後悔が滲んでいるようにも感じる。

「祖母は、誰にも迷惑をかけたくなかったんでしょうね。もともと自分のことは自分でしたいというタイプの人間ですし、人に頼るのもあまり得意ではない人ですから、家族に介護をさせるよりも施設に行く方がいいと思ったんでしょう」
「そう、だったんですね……」
「ひだまりには本当は祖父と入居するつもりで、二人で見学にも行ってたそうです。でも、結果的にこうなってしまいました。『みなさんが良くしてくれるから心配しないで』と言いながらも、以前のような笑顔は見せなくなって……」

 セツの話しぶりを思い返せば、夫婦仲はとても良かったのだろうと想像できる。老後を夫と二人で過ごすつもりで見学に行った施設に一人で入るのは、いったいどれだけ心細かっただろうか。

「俺も家族もできる限り施設に通いましたが、祖母の元気がないのは明らかでした」

 セツの気持ちを考えれば、咲良の鼻の奥がツンと痛んだ。

「でも、ある日面会に行ったら、祖母が昔と同じような笑顔を見せてくれたんです。そのときに真っ先に爪を見せてくれて、『ボランティアさんにしてもらった』と。祖母はあなたの話をたくさんしてくれました」

 桜輔が咲良を真っ直ぐ見つめる。その双眸そうぼうは、とても優しかった。

「嬉しかった。また笑ってくれるようになったことも、祖母に笑うきっかけを与えてもらえたことも。だから、あなたに会えたらお礼を言いたいと思ってたんです」

 咲良が目を見張れば、彼が目尻を下げる。笑顔というには足りない表情なのに、嬉しそうなのが伝わってくる。
 その瞬間、咲良の鼓動が大きく高鳴った。
 ドキドキと脈打つ心音のせいか、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。けれど、決して嫌な感覚ではない。
 甘さを孕んだ苦しさなのに、心に広がっていくのは喜びだけ。
 セツを笑顔にする手助けができていたのなら嬉しい。桜輔にそんな風に言ってもらえたことも、とても嬉しい。
 だから、芽生えた喜びはそのせい。ただ、胸の奥を締めつけるような甘切ない感覚が生まれた理由がわからない。

「祖母をまた笑顔にしてくれて、ありがとうございました。あなたとの時間は、きっと祖母にとってかけがえのないものだと思います」

 たかが、ボランティアだ。同僚には理解されず、ボランティアをしていると話せば半笑いを返されたことも少なくはない。
 偽善だと言われたことはないが、それらしい言葉を向けられたこともある。あの花見で咲良がボランティアでひだまりに行っていると同僚の誰かが話したとき、男性陣の中には理解できないと言わんばかりに笑っている者もいた。

「ボランティアと聞いてますし、ずっと続けることは難しいとも思いますが、ひだまりに通っていただける間は祖母の話し相手をしていただければ嬉しいです」

 けれど、桜輔は違う。
 セツのことを差し引いても、咲良を気遣った上で咲良のやってきたことをきちんと認めてくれている。そんな気がした瞬間、咲良の胸の奥からグッと熱が込み上げてきた。

(何これ……。胸が苦しくて、熱を持ったみたいで……でも嫌じゃない)

 初めて抱く感覚に、困惑してしまう。それなのに、嫌ではないという気持ちだけは明確に存在している。
 無愛想だと聞いていた桜輔が、こんなにも話してくれることも嬉しかった。

「……と、話してばかりですね。いい加減に食べましょうか」

 ちょうど運ばれてきたパエリアとアヒージョからは、魚介類やニンニクとオリーブオイルの香りが漂い、空腹の胃を刺激してくる。
 ところが、好物を前にした咲良はというと、ちっとも食が進まない。お腹は確かに空いているのに、胸がいっぱいで食欲がどこかにいってしまったようだった。

「口に合いませんでしたか?」
「い、いいえ! すごくおいしいです!」

 咲良の様子を窺う彼に、慌てて笑みを返す。そのままスプーンを口に運び、「おいしいです」ともう一度言った。

(いけない……。気を遣わせたよね……)

 それからはどんな話をしたのかはよく覚えていない。あまり口数が多くないと思っていた桜輔が色々と話してくれていたが、咲良は食べるのと相槌あいづちを打つだけで精一杯だったからである。
 緊張のせいか、お酒を飲んでいないのに頬が熱い。胸がいっぱいなのに無理して食べたからか、余計に胃のあたりが苦しくなってきた。
 平静を装っているつもりだが、何か粗相をしていないだろうか。
 そんなことばかり考えていた咲良を余所に、彼はいつの間にか会計を済ませ、当たり前のように家まで送ってくれた。


   * * *


 七月も終わる頃。
 咲良は、一紗が働く美容室、『Duоデュオデ』を訪れた。

「今日はどうする?」
「髪は毛先を整える程度にしてほしいんだけど、カラーはまだ決めてなくて」
「夏だし明るくする?」
「うーん……そうだなぁ」

 タブレット端末で見せられたのは、彼女のようにブリーチをしているであろう明るい髪色ばかりだ。流行りのインナーカラーもあるが、どれもピンと来ない。

(堂本さんって、どんな髪色が好きなのかな? 真面目そうな人だから、あんまり明るい色は好きじゃない気がするなぁ……)

 ついそんなことを考えた自分に驚き、咲良の中に戸惑いが芽生えた。
 二人で食事に行ったのは、もう十日ほど前のこと。
 結局はアパートの前まで送ってもらったため、お茶でも出した方がいいのかと思って勇気を出してみると、あっさりと断られた。

『いくら警察官でも家にまで上がられるのは抵抗があるでしょうし、そもそもそういったお気遣いは不要です』

 口調こそ冷たく感じたが、それが咲良を思いやってのことだというのは伝わってきた。
 ただ、本心では抵抗感はなかった。もちろん、狭い家で男性と二人きりになれば緊張はするだろうと予想はできたが、彼に限っては怖いとは思わない。
 自分でも不思議ではあるものの、それだけは確信していた。だから、断られたときにはほんの少しだけ残念な気持ちにもなったのだ。

(結局、お礼にならなかったな……。堂本さん、迷惑だって思ったりしたかな……)
「咲良? 聞いてる?」

 桜輔のことを考えていると一紗に顔を覗き込まれ、咲良はハッとした。

「疲れてる? 仕事が忙しいの?」
「そういうわけじゃないんだけど……」

 話せば長くなるが、彼女とはこのあと食事に行くことになっている。
 咲良と一紗は親友でもあるが、互いに客でもある。いつか独立するという同じ夢を持ち、応援も兼ねて指名し合っているのだ。
 高校時代からの付き合いのため、それぞれの好みは把握している。ネイリストと美容師としても信頼し合っており、客として店に訪れた日は夕食を共にするのが恒例だ。

「あとで聞いてくれる?」
「オッケー。じゃあ、とりあえずカラーを決めようか」

 彼女の笑顔に心強さを感じ、咲良はタブレットを見ながら髪色を決めた。


 すっかり日が暮れた頃、咲良と一紗はデュオから程近い居酒屋に来ていた。
 ドリンクと料理を注文し、まずは喉を潤してお腹を落ち着かせる。
 結局、髪はいつも通り暗めのブラウンに染めた。長さもほとんど変わらないため、一見すると変化がないように思える。
 しかし、ヘッドスパで頭がすっきりし、トリートメントのおかげで艶も出た。彼女が丁寧にブローをしてくれたため、いつもはまとまりづらいふわふわの髪質も今は落ち着いている。

「もっと明るくしちゃっても良かったと思うけどなー」
「金髪にしたときのこと、覚えてるでしょ? 私には似合わなかったから明るい色はもういいよ」
「いや、あれは痴漢対策だっただけね! 今ならもっと似合うようにするって」

 就職後、電車での痴漢被害に悩む咲良の髪を明るく染めることを提案したのは、一紗だ。
 それまでは目立たないように地味な格好をしていたが、効果がなかった。そこで『逆にすればいいんじゃない?』と言った彼女のアドバイスで金髪にしたのだ。
 結果的にあまり意味はなく、何よりも金髪が似合わなかったことにより、その作戦は一度きりで終わってしまったのだけれど……

「そういえば、何か話があるんだよね? まさか、また変な男に狙われてるとかじゃ……」
「それはもう解決したんだけど」
「えっ? ちょっと待って! 解決したってことは何かあったの?」

 思わず口が滑った咲良に、一紗が「聞いてないんだけど!」と眉を寄せる。

「そういうときは真っ先に相談しろって言ってるじゃん!」
「ご、ごめんね……。確信がないわけじゃなかったんだけど、相談するほどひどい被害ってわけでもなくて……」
「違うでしょ! 何かあってからじゃ遅いから、いつも相談してって言ってるのに。咲良のことだから、どうせ私に話せば心配させるとか思ったんでしょ?」

 図星を突かれて小さくなった咲良は、彼女に一部始終を話すしかなかった。川辺のことはもちろん、どんな風に解決したのか……ということまで。

「何その人! めちゃくちゃ親切すぎない? おばあさんが咲良にお世話になってるからって、普通そこまでしないでしょ」
「きっと、すごく責任感が強くて真面目な人なんだと思う。セツさん……その、堂本さんのおばあさんも、そんな感じのことを話してたし」
「でもねぇ……下心がないとは限らないよ? 警察官だってただの男だろうし」
「堂本さんはそんな人じゃないよ! 助けてくれたときも食事に行ったときもすごく紳士的だったし、私が『うちでお茶でも』って言っても私を思いやって丁寧に断ってくれたし」
「え? 咲良が男を家に誘ったの?」
「誘ったって……。そういうのじゃないからね? ただ、お礼って意味で……。それに、堂本さんは結局すぐに帰ったし」

 あの日、桜輔は洋菓子セットは受け取ってくれたが、咲良ができたお礼はそれだけだ。食事代は出させてもらえず、家まで送ってもらったため、むしろさらに恩ができてしまった。
 何のために食事に行ったのか……
 彼はあれ以降も電話をくれていて、咲良はどうやって恩返しをすればいいのかわからなかった。

「いやいや、咲良が自分からそんなこと言うなんて今までならありえなかったじゃん! 何で? その人、めちゃくちゃ優しいとか男っぽくないとか?」

 食いつく一紗をたしなめるように、咲良は首を大きく横に振る。

「優しいのは間違いないけど、すごく男性っぽいよ。職業柄なんだろうけど、鍛えてるのが一目でわかるくらい体格がいいし、身長も高いし」
「……でも、その人は平気なんだ?」
「助けてくれたのもあるし、セツさんのお孫さんで警察官だからだと思うんだけど……堂本さんのことは初対面のときから怖くなくて、苦手意識もなかったかな」
「なるほどねぇ」

 ビールをグビッと飲み干した彼女が、にんまりと口元を緩める。その目は明らかに何か言いたげで、咲良はりんごサワーのグラスに口をつけて続きを待った。

「ひょっとして、恋……かもよ?」

 突拍子もない言葉に、喉を通るところだった液体が引っかかる。むせた咲良が慌てておしぼりを口に当てると、一紗はなおも楽しそうに笑っていた。

「なっ……そんなわけ……っ」
「どうかな~? 親友の目から見れば、ないとは言い切れないと思うなぁ」

 咲良の頭の中に、〝恋〟という文字が浮かんでは消えていく。
 絶対に違うと言いたいのに、なぜか上手く言葉が出てこなかった。


   四 急接近


 八月中旬の日曜日。
 咲良は、ひだまりを訪れた。
 マハロには年末年始以外の店休日がなく、お盆期間も営業している。しかし、一店舗につきネイリストが二十名ほど配属されているため、シフト制ではあるものの休暇はきちんと取れる。
 お盆シーズンは客足が減ることもあり、スタッフは半数しか出勤しない。咲良も二日間の夏季休暇とシフトを合わせ、今日からの四日間は休みだった。
 初日の今日は、ひだまりを訪れた。
 前回の土曜日に続いて、今回のボランティアの日が日曜日になったのは、ひだまりの事務員とスケジュールの話し合いで決まったこと。あくまで偶然だった。
 けれど、咲良の心の片隅には桜輔に会えるかもしれない……という気持ちもあった。
 食事に行ったとき、彼の非番は土日だと聞いた。警察官だからシフト制なのかと思っていたが、そうではない部署もあるのだとか。
 警察組織に関する知識はなく、個人的なことを詮索するのも気が引けて詳しくは訊けなかったものの、土日が休みなら今日ひだまりに来る可能性だってある。

「こんにちは」
「あっ、咲良ちゃん! こんにちは」

 咲良の挨拶に藤野が笑みを返し、周囲にいた入居者たちも笑顔になる。リビングが一気に明るい雰囲気に包まれ、みんなが我先にと咲良に話しかけた。

「ほらほら、みなさん。まずは咲良ちゃんに休憩させてあげないと。今日も暑い中、ここまで来てくれたんだよ。お話はネイルやマッサージのときにね」

 入居者たちの勢いに圧倒されかけた咲良に、藤野がすかさず助け船を出す。咲良は彼にお礼を込めて会釈をし、ひとまず荷物を置かせてもらった。

「あれ? セツさんはお部屋ですか?」
「うん。今日もお孫さんが来られてるんだ」

 咲良の鼓動が小さく跳ね、脳裏には桜輔の顔が浮かぶ。
 しかし、セツには彼以外にも孫がいるはず――
 ぬか喜びが怖くて冷静でいようと努めたとき、「咲良ちゃん!」と嬉々とした声が響いた。

「待ってたのよ~。今日も話したいことがたくさんあるの」

 満面の笑みのセツの後ろには、車椅子を押す桜輔がいる。目が合った瞬間、咲良は胸の奥が高鳴ったことを自覚したが、それをごまかすように咄嗟に頭を下げた。

「咲良ちゃんの人気は衰えないね~。でも、みなさん、咲良ちゃんは一人しかいないからね。取り合いたい気持ちはわかるけど、順番だよ」

 藤野の言葉に、入居者たちが楽しそうに笑う。和気藹々わきあいあいとした雰囲気に反し、咲良は自分の心臓が落ち着きをくしていくのを感じていた。

(一紗があんなこと言うから……!)

 この気持ちは、恋なんかではないはず。一紗に指摘されてから何度もそう思うようにしてきたが、いざ桜輔と会うと拍動は高鳴るばかり。
 彼の顔をまともに見ることができず、つい視線を逸らしてしまう。まるで彼女の言葉を肯定している気がして、咲良は首をブンブンと横に振った。

「咲良ちゃん? どうかした?」

 不思議そうな顔をする藤野に、「何でもないです」と微笑する。変に思われないようにしたいのに、ネイルボックスを広げる手が彷徨さまよいそうだった。
 セツの順番が来たのは、それから三時間近くが経った頃。
 最初こそリビングにいたセツだったが、少し疲れた様子だったため部屋で待ってもらうことになり、そのままなりゆきで咲良がセツのもとに行くことになった。
 ドアをノックすると、聞こえてきたのは桜輔の「どうぞ」という返事。咲良は一瞬ためらったが、そっとスライド式のドアを開けた。

「失礼します。セツさん、咲良です」

 セツはベッドで眠っており、傍らにいる彼は椅子に腰かけて読書をしていたようだ。

「すみません、すぐに起こします」
「え? でも……」
「起こすように言われてるんです。声をかけなかったら、あとで俺が怒られますから」

 戸惑う咲良に、桜輔が穏やかな眼差しを向ける。今日初めて真っ直ぐ目が合ったことに鼓動が大きく弾んだ咲良を余所に、彼が「ばあちゃん」と優しく声をかけた。

「咲良さんが来たよ」

 名前で呼ばれたことに、心臓がドキリと音を立てる。咲良に向けられたわけではなくても、桜輔の声音で自分の名前が紡がれることが何だかくすぐったい。
 川辺の前で呼び捨てされたのは演技だったが、今はそうじゃないとわかっている。そのせいか、桜輔との距離が近づいたようにも思えた。

(……って、何考えてるの! 堂本さんは、セツさんに私のことを話すために名前で呼んだだけだろうし……こんな風に思うなんておかしいよ)

 自分自身に言い聞かせた咲良がセツを見ると、ちょうど目を開けたところだった。

「……ん、もう順番?」
「ああ。一時間半くらい寝てたけど、まだ眠るなら今日はやめておくか?」
「嫌よ。月に一度の機会なんですもの」
「無理するなよ。やっと風邪が治ったんだから」
「平気よ。今日もすごく楽しみにしてたんだもの」

 どうやら、セツは夏風邪を引いていたらしい。病み上がりなら体力が落ちているだろう。

「セツさん、今日はベッドで施術しましょうか」
「そんな……悪いわ。車椅子に移るから、ちょっと待ってちょうだい」
「無理しないでください。ベッドを起こせば、そのテーブルでできますから」

 部屋の隅に置かれているベッドサイドテーブルを指差し、咲良が「そうしましょう」と笑う。

「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわね。ごめんなさいね」
「謝らないでください。今日も爪を可愛くしましょうね!」

 咲良の満面の笑みに、セツが頬をほころばせる。桜輔は安堵したように表情を和らげ、テーブルを設置するのを手伝ってくれた。

「咲良ちゃんの中指の爪、キラキラしてて素敵ね。そういうのもできるの?」
「あっ、これはマグネットネイルというもので、マニキュアではできないんです。独特の手法が必要なので、ジェルネイルでしかできなくて……。すみません」
「残念だわ……。でも、咲良ちゃんはいつも可愛くしてくれるから、こうしてマニキュアを塗ってもらえるだけで充分よ。この青色も海みたいでとても綺麗だし、毎日眺めてたの」

 微笑むセツの言葉は、心からのものだとわかる。
 一か月前にセツの爪に塗った、海をイメージしたコバルトブルーのマニキュアはあちこちげているが、それでも嬉しそうに笑う姿を見ると、やっぱりこのボランティアをしていて良かったと思う。

「まずは落としていきますね」
「ええ。まだ少し色が残ってるからもったいないけど、今日もよろしくね」

 咲良は大きくうなずき、除光液でマニキュアを落としていく。
 年齢を重ねるごとに爪が伸びる速度は遅くなるため、セツの爪はそこまで長くなっていない。伸びた分だけ丁寧に切り、やすりをかけて甘皮の処理も終えた。

「どんな色がいいですか? 今日も一番人気だったのは青系でしたよ」
「そうねぇ……前回と前々回は青だったし、今回は違う色がいいんだけど、桜輔はどう思う?」
「ばあちゃんの好きな色を選ばせてもらえばいいだろ」
「あなたに訊いてるのよ」
「俺に訊かれてもわからないって、前にも言ったじゃないか」
「やっぱり女心がわからない子ね。じゃあ、咲良ちゃんにお任せしようかしら。私、咲良ちゃんのセンスがすごく好きなの。その爪も自分でしたんでしょ? いつも素敵だなって思ってるのよ」

 咲良は気恥ずかしいような気持ちを抱き、けれどそれ以上に喜びに包まれた。


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