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五章 花は折りたし梢は高し……でもないかも?
花は折りたし梢は高し……でもないかも?【2】
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七月が終わる頃、ようやく仕事にも慣れてきた。
まだまだ戦力とは言えないものの、少しずつ覚えたことを業務で活かせるようになっている。最初は疲労感に襲われていたけれど、最近は前ほどつらくはない。
もっとも、美容師時代よりもずっと勤務時間は短く、休憩だって毎日必ず決まった時間に取れるし、人間関係も思っていたよりもなんとかなっている。という状況を見れば、生活環境がグッとよくなっているのが大きな理由に違いないけれど。
それもこれも、すべて諏訪くんのおかげだ。
とはいえ、このまま今の生活を続けていれば、私は本当にダメ人間になりそうで不安で仕方がない。なんて思う反面、彼と過ごす時間はいつも穏やかで楽しくて、ついもう少し……なんて思うこともあるのだけれど。
「香月、危ないよ」
ぼんやりとしていた私は、左腕を掴まれて足を止める。
「信号、赤だから」
「あっ、ごめんね……」
数歩先の横断歩道の信号はまだ青になっていなかった。
「さっきから何度もボーッとしてるけど、考え事? 悩みがあるなら相談に乗るよ」
「ううん、そうじゃなくて……」
諏訪くんとのことを考えて心ここにあらずだった……なんて、目の前の彼にはなんとなく言いづらくて笑顔でごまかす。
直後、諏訪くんがハッとしたように私の腕から手を離した。
「ごめん、つい……」
平気だと言うように、咄嗟に首をブンブンと横に振る。申し訳なさそうにしていた彼は、わずかに安堵を浮かべて微笑んだ。
信号が変わり、諏訪くんに目配せをされて歩き出す。横断歩道を渡り終えると、彼は通行人の邪魔にならないように道の端で立ち止まった。
「どうしたの?」
「あのさ、香月」
神妙な雰囲気になった諏訪くんは、私をじっと見つめている。
「あ、なにか買い忘れちゃった?」
土曜日の夕食後、アイスを求めて近所のコンビニに繰り出した帰り道。そんな自分たちの状況から予想できた疑問を呈せば、彼が小さく笑ってかぶりを振った。
「答えたくなかったら、言わなくていいんだけど……。さっきみたいに俺が腕を掴んだりするのは平気なのか?」
そういえば、と思う。
会社ではまだ男性社員と接するのは緊張するし、不意に体が近づいたときにはつい身構えてしまう。
一方で、家で過ごしているときに諏訪くんと手が触れたり体がぶつかったりしても、意外にも体が強張るようなことはない。彼と距離が近いことにドキドキしていても、不快感や嫌悪感といった意味で動悸がすることも、不安を感じたこともなかった。
「そう、かも……。いざ考えてみると不思議だけど、平気なのは諏訪くんが相手のときだけなんだよね」
「香月、それって――」
「やっぱり、諏訪くんのことはすごく信頼してるからかな。お世話になりっぱなしで申し訳ないけど、昔も今もすごく親切にしてくれるし、感謝しかないよ」
にこにこと笑う私に、彼が唇を引き攣らせそうな顔でため息をついた。
「あっ、ごめんね! こんなこと言われても呆れちゃうよね……」
「いや、別に呆れはしないけど……」
諏訪くんの表情は複雑そうだ。呆れていなくても、それに近い感情を抱いたのは間違いないのだろう。
快適な暮らしに慣れ始め、すっかり緊張も和らいでいる今の私は、きっと自分で思うよりもずっと彼に対して図々しくなっているのかもしれない。だから、きっとこんな顔をさせてしまったのだ。
「なぁ、香月。家まで手を繋いで帰らないか?」
自身の不甲斐なさにため息をつきかけたとき、突拍子もない提案を寄越されて目を剥いた。一瞬、聞き間違いかと思ったほどだ。
その内容に戸惑い、理由を訊いていいのかわからなくて口が開けない。けれど、諏訪くんの双眸は真剣で、決して冗談じゃないことだけは伝わってきた。
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