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第8話
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試しに雨の当たらない桜の陰になっている雑草に火を点けようとしたが、ライターが雨でやられたのか上手く点火できない。前からやってきた女性の花見客が慌てて雨から逃げ帰って行く。
車道にパトカーがサイレンを鳴らして走ってきた。まさかなと見送ると、だいぶ後ろの方で停車した。先ほど火を点けた辺りだ。
〈どうすんだよ! 捕まりたくねぇよ!〉
恐慌をきたした佐島に今主導権を握られるわけにはいかない。
「家でロクロを回す。今見たもので何か作れるはず」
俺の言葉に佐島は絶句する。
パトカーから警官が二人降りてくるのが見えた。そこに駆け寄るサラリーマンも。俺は慌てずに川に向かう。身体に刺さるような水温が足から這い上がってきた。膝まで濡れる覚悟はしていたが、今ならまだ引き返せるとも思う。背後に人声を聞き、探されているという焦燥感が体温となり、凍えた足を前へと運ばせてくれた。川幅自体は広くないので、あっさり渡り切ることができた。にわか雨も上がり、気分も高揚する。
川向こうの車道まで土手を上がって振り返ると、警官が川を超えずに引き返すのが見えた。パトカーまで戻り、こちら側の道に来るつもりだろうか。それにしても警察が来ることは想定外だった。最初の放火の時点で通報されたか、たまたま通ったパトカーを先ほどのサラリーマンが捕まえたのか。前者の確率は高いが、どちらにしてもナイスタイミグと褒めたくなるような登場だ。
〈これからどうすればいいんだ。俺は犯罪者だ。警察に捕まって、就職なんて一生できなくなる〉
黙れ佐島。俺は自分にとって良いことをした。いや、自分じゃない。俺はいつも佐島を支えてきたんだぞ? 佐島が勝手に俺のせいにして責任をなすりつけても構わないように俺は生まれてきた。俺は佐島を精神的に守るために深淵からやってきたんだからな。
怯えた佐島のアフターケアをするのも俺の仕事の一つだ。自宅アパートにどうやって逃げ帰ればいいのか分からないと佐島は言うだろう。
俺はI公園を南下し、堂々と先ほどのサラリーマンのいた場所を通って帰宅した。あの三人組はパトカーと同行したのか、それとも雨で引き上げたのか知らないがあの場にはもういなくなっていた。
玄関で靴と靴下を脱ぎ、緩慢な動作で着替えを箪笥とクローゼットから取り出す。慌てずに行動しているのに、佐島は早口に急き立てる。
〈もう俺の顔は割れている。いつ玄関に警察が現れるかも分からないのに、家に帰るなんて〉
宛てもなく歩き続ける方が危険だ。まぁ、佐島のたわごとは『いても立ってもいられない』というだけの話だ。
電動ロクロを出したままにしておいて良かった。
良いインスピレーションが得られたので、テーマは桜と火で決まりだ。毎日先ほどの火を思い出せるようにしたい。
何を作るかだが、できれば毎日使えるものがいいだろう。そうだ、コーヒーカップを作ろう。ソーサーとマグをセットで作るか。
先にソーサーを作る。中心から親指で外に広げる作業がほとんどだ。淵を倒すときにミスさえしなければ平らで綺麗なソーサーができる。コーヒーカップの取っ手が当たらないように平べったく作るのがこつだ。それからコーヒーカップを置くための凹みをへらで作る。あっという間にソーサーは完成した。
次にカップだ。ソーサーの上に置くことを考え、大きく作らないようにする。
カップそのものは簡単にできる。中を綺麗にし、淵も整えロクロから切り離す。そのカップを逆さまにして棒状の台に乗せてからロクロに置く。コップの裏と側面を削っていく。ここでロクロから外して桜と火の絵柄を彫り刻む。桜と炎を交互に描く斬新な絵柄だが、やり過ぎても問題ないだろう。完成作品を使うのは俺だけなんだから。
最後に粘土で取っ手をつける。棒状に練り伸ばしてUの字に曲げる。接合部分に傷を作り、どべを塗って接合すれば取っ手の出来上がりだ。
完成させるのにかかった時間は、俺の中ではかなり速い三十分だ。桜の花びらを舐めるような炎が美しいと自画自賛する。ため息しか出ないので、しばらくテーブルの上に飾ることにした。ふと、くしゃみをする。時計は四時を過ぎていた。
髪から水滴が滴った。無我夢中で作陶したので、髪が濡れたままだ。着替えた長袖シャツが湿っており体温が逃げていく気がする。
このコーヒーカップの色味だが、やはり炎を表現するために焦げ茶色になるような釉薬を塗る必要があるだろう。飴釉が最適だと思う。桜が焼ける香ばしい香りが漂ってきそうな色合いを今から想像すると、完成が楽しみだ。
インターホンが鳴る。来客なんてめったにない。Amazonで粘土や釉薬が届くときぐらいだ。カメラにスーツ姿の伯父さんが苛立たし気に身体を揺すって立っていた。まさか、伯父さんが乗り込んでくるとは思わなかった。躊躇ってしまったが、居留守を使うわけにもいかない。伯父さんは俺が在宅していると直感で分かっている。就職活動を頑張っていると思われていない証拠でもあるが。
玄関を開けると、長身痩躯の伯父さんは紳士然としており姿勢よく、軽くお辞儀した。
「会うのは久しぶりだな。少し身長が伸びたんじゃないか?」
子供扱いされたような気がしたが、中に入って下さいと促す。伯父さんは当然というように狭い玄関に身体をねじ込んでくる。俺は部屋の電気を点ける。太陽光だけで作陶していたので、蛍光灯の白々しい灯りに部屋が照らされると生活感が返って失せる気がした。自分のアパートなのに他人の家を訪問しているかのように伯父さんに椅子を勧めて、俺は突っ立った。
「お茶を入れてもらえるか?」
「あ、はい。冷たいのしかないですが」
まだ温かいお茶を好む人が多い季節だが、俺はもう冷たいお茶に切り替えている。伯父さんはなんでもかまわんよと口先だけで言った。眉間に皺が浮かんでいる。
〈怒られるぞ。嘘ついたこと〉
佐島は早くも冷や汗をかかんばかりにうろたえている。そのせいで、コップにお茶を注ぐときに少しこぼしてしまう。俺はコップの側面の水滴を布巾で拭う。
「なんでもいいから早くしてもらえるか?」
伯父さんは貧乏ゆすりこそしないが、声が苛立っている。お茶を出すと座りなさいと促される。どちらがもてなされているのか分からない。
「どうして私が来たのか分かるな? 本来なら電話でこと足りる用事だ。誰もが潔白だった」
伯父さんが咎めるように言う。俺は困った顔を作る。伯父さんは俺に説教をしに来たんだろう。
「哲也を困らせたかったわけじゃないだろう?」
父を困らせるメリットはない。伯父さんは一呼吸置いて、眉を怒らせる。
「人にはついていい嘘とやめておいた方がいい嘘があると思うんだが。お前は身内を混乱させる遊びでもやっているのか?」
「伯父さんに来訪する糸口を見つけてもらえるとは思わなくて」
「なんだって?」
「俺の就職活動に意見してもらって、いつも助かると思ってたんだけど、どうも自分で納得できるようにしないといけない気がする。もう放って置いて欲しくて嘘をついた。だけど、それが裏目に出てこんな小さいアパートまで来てもらえるなんて夢にも思わなかったな」
伯父さんは瞠目して面食らっている。怒鳴られた方がましなのだが、伯父さんは考えをまとめるのに手間取っているのか胸ポケットからアイコスを取り出した。
「哲也はお前に嘘をつかれても平然としていた。私の妻もな。私だけが取り越し苦労をしたわけだ。火のないところに煙は立たなかった。お前の言葉で私だけが妻を怪しみ、妻に疑ったことを詫びた。なかなか屈辱的だったよ」
伯父さんはアイコスを吹かし始める。俺が煙を嫌そうに眺めると伯父さんは手で俺を追い払うように促す。
「嫌なら換気扇を回せ」
俺はますます自分の家なのに勝手が分からなくなる。換気扇をかけるともう一度座るように促された。
伯父さんはテーブルの上で片づけられていない電動ロクロと整然と並んだコーヒーカップとソーサーの粘土に気づく。眉間の皺をより深く刻み「こんなもの」と口の中で舌が小さく発音している。
それから、片手で作品を床にはたき落した。潰れて折り紙のように重なった。俺も佐島も不思議と冷静に作品を眺めた。焼く前だからまだ再生できると心の隅で静かに念じた。
「一つ提案があるんだが。こんなお遊びはもうやめにして、小売店を紹介してやるからそこで働いてみないか?」
斡旋はしないと宣言したくせに嘘つきだ。
「まぁ、私の会社というわけではないが。印刷会社の子会社だ。あそこなら私の監督の目も行き届く」
誰がそんなところに行くかと思うと笑みが零れ落ちそうになる。伯父さんと同じ会社系列に勤めると考えただけで噴飯ものだ。もう就職活動などやめだ。粘土を壊した伯父さんとは話し合う価値はない。
「俺、陶芸家になるから」
やることは決まった。放火もしたし手遅れかもしれないが、これから何をどうしたいかのビジョンが見えた。
遠くでサイレンが聞こえる。消防車の警報音も家の近くを通過していく。
これまで佐島が悩んできたことは、小さかった。衣食住さえなんとかすればいいのだ。贅沢は言わない。シンプルにやりたいことだけをやるのだ。欲望のままに行動すれば、お金が必要になる。そのときに、職は自ずと必要になって来るだろう。
「何をたわけたことを抜かしているのか」
伯父さんの言葉に丁寧さが欠けはじめる。
「哲也ものんびりした性格だったが、お前ほど間抜けじゃない。ぐずでのろまで、今頃進路を考えて、あげく陶芸家だと? 陶芸家は職業と呼べるようなものじゃない」
頭に来る発言に伯父さんの血の気の良い顔を殴りつけたくなった。陶芸家は稼げる職業ではないのかもしれないが、それの何が悪いのか。
〈D、頼むから伯父さんに逆らわないで、ちゃんと就活してくれ〉
佐島黙れ。ここは怒ってもいいところだ。だが、俺は怒りとは別に心が満たされるのを感じた。伯父さんが罵るほどに、愉悦に浸れた。陶芸がこれほど俺たちにとって大切なものだと気づけた。
消防車の音が増える。あちこちからI公園に向かっているんだろう。雨が降って鎮火したかもしれないとはいえ、桜が冷え切った俺の代わりに一瞬でも燃えたと思うと、心臓の鼓動が早くなる。
「お前が何を考えているのかはまったく分からん。奇行、蛮行、多少は多めに見てやる。名刺を渡しておく。子会社の人事担当だ。明日にでも携帯に電話をしてみろ。私から企画部に回してやってくれと言づけておく。お前はこのままだと不幸になる」
伯父さんは名刺を置いて席を立った。玄関から自分の家のように出て行く。
「伯父さん、ごめんなさい」
〈D、素直に謝ってくれて助かる。でもどうしたんだ急に〉
佐島は不思議がる。
「何も必要ないんです。仕事も、生活も」
伯父さんは聞く耳を持たず、振り返りもせず去って行った。
「生まれながらに幸福で、何も必要としていなかったんです。粘土以外は」
口に出してみると喉に痰がからむときの粘り気を口内で感じた。
〈……本当に幸せな奴は火なんか見たくならないのに〉
俺は佐島を消すために電動ロクロの待つ屋内に戻った。
車道にパトカーがサイレンを鳴らして走ってきた。まさかなと見送ると、だいぶ後ろの方で停車した。先ほど火を点けた辺りだ。
〈どうすんだよ! 捕まりたくねぇよ!〉
恐慌をきたした佐島に今主導権を握られるわけにはいかない。
「家でロクロを回す。今見たもので何か作れるはず」
俺の言葉に佐島は絶句する。
パトカーから警官が二人降りてくるのが見えた。そこに駆け寄るサラリーマンも。俺は慌てずに川に向かう。身体に刺さるような水温が足から這い上がってきた。膝まで濡れる覚悟はしていたが、今ならまだ引き返せるとも思う。背後に人声を聞き、探されているという焦燥感が体温となり、凍えた足を前へと運ばせてくれた。川幅自体は広くないので、あっさり渡り切ることができた。にわか雨も上がり、気分も高揚する。
川向こうの車道まで土手を上がって振り返ると、警官が川を超えずに引き返すのが見えた。パトカーまで戻り、こちら側の道に来るつもりだろうか。それにしても警察が来ることは想定外だった。最初の放火の時点で通報されたか、たまたま通ったパトカーを先ほどのサラリーマンが捕まえたのか。前者の確率は高いが、どちらにしてもナイスタイミグと褒めたくなるような登場だ。
〈これからどうすればいいんだ。俺は犯罪者だ。警察に捕まって、就職なんて一生できなくなる〉
黙れ佐島。俺は自分にとって良いことをした。いや、自分じゃない。俺はいつも佐島を支えてきたんだぞ? 佐島が勝手に俺のせいにして責任をなすりつけても構わないように俺は生まれてきた。俺は佐島を精神的に守るために深淵からやってきたんだからな。
怯えた佐島のアフターケアをするのも俺の仕事の一つだ。自宅アパートにどうやって逃げ帰ればいいのか分からないと佐島は言うだろう。
俺はI公園を南下し、堂々と先ほどのサラリーマンのいた場所を通って帰宅した。あの三人組はパトカーと同行したのか、それとも雨で引き上げたのか知らないがあの場にはもういなくなっていた。
玄関で靴と靴下を脱ぎ、緩慢な動作で着替えを箪笥とクローゼットから取り出す。慌てずに行動しているのに、佐島は早口に急き立てる。
〈もう俺の顔は割れている。いつ玄関に警察が現れるかも分からないのに、家に帰るなんて〉
宛てもなく歩き続ける方が危険だ。まぁ、佐島のたわごとは『いても立ってもいられない』というだけの話だ。
電動ロクロを出したままにしておいて良かった。
良いインスピレーションが得られたので、テーマは桜と火で決まりだ。毎日先ほどの火を思い出せるようにしたい。
何を作るかだが、できれば毎日使えるものがいいだろう。そうだ、コーヒーカップを作ろう。ソーサーとマグをセットで作るか。
先にソーサーを作る。中心から親指で外に広げる作業がほとんどだ。淵を倒すときにミスさえしなければ平らで綺麗なソーサーができる。コーヒーカップの取っ手が当たらないように平べったく作るのがこつだ。それからコーヒーカップを置くための凹みをへらで作る。あっという間にソーサーは完成した。
次にカップだ。ソーサーの上に置くことを考え、大きく作らないようにする。
カップそのものは簡単にできる。中を綺麗にし、淵も整えロクロから切り離す。そのカップを逆さまにして棒状の台に乗せてからロクロに置く。コップの裏と側面を削っていく。ここでロクロから外して桜と火の絵柄を彫り刻む。桜と炎を交互に描く斬新な絵柄だが、やり過ぎても問題ないだろう。完成作品を使うのは俺だけなんだから。
最後に粘土で取っ手をつける。棒状に練り伸ばしてUの字に曲げる。接合部分に傷を作り、どべを塗って接合すれば取っ手の出来上がりだ。
完成させるのにかかった時間は、俺の中ではかなり速い三十分だ。桜の花びらを舐めるような炎が美しいと自画自賛する。ため息しか出ないので、しばらくテーブルの上に飾ることにした。ふと、くしゃみをする。時計は四時を過ぎていた。
髪から水滴が滴った。無我夢中で作陶したので、髪が濡れたままだ。着替えた長袖シャツが湿っており体温が逃げていく気がする。
このコーヒーカップの色味だが、やはり炎を表現するために焦げ茶色になるような釉薬を塗る必要があるだろう。飴釉が最適だと思う。桜が焼ける香ばしい香りが漂ってきそうな色合いを今から想像すると、完成が楽しみだ。
インターホンが鳴る。来客なんてめったにない。Amazonで粘土や釉薬が届くときぐらいだ。カメラにスーツ姿の伯父さんが苛立たし気に身体を揺すって立っていた。まさか、伯父さんが乗り込んでくるとは思わなかった。躊躇ってしまったが、居留守を使うわけにもいかない。伯父さんは俺が在宅していると直感で分かっている。就職活動を頑張っていると思われていない証拠でもあるが。
玄関を開けると、長身痩躯の伯父さんは紳士然としており姿勢よく、軽くお辞儀した。
「会うのは久しぶりだな。少し身長が伸びたんじゃないか?」
子供扱いされたような気がしたが、中に入って下さいと促す。伯父さんは当然というように狭い玄関に身体をねじ込んでくる。俺は部屋の電気を点ける。太陽光だけで作陶していたので、蛍光灯の白々しい灯りに部屋が照らされると生活感が返って失せる気がした。自分のアパートなのに他人の家を訪問しているかのように伯父さんに椅子を勧めて、俺は突っ立った。
「お茶を入れてもらえるか?」
「あ、はい。冷たいのしかないですが」
まだ温かいお茶を好む人が多い季節だが、俺はもう冷たいお茶に切り替えている。伯父さんはなんでもかまわんよと口先だけで言った。眉間に皺が浮かんでいる。
〈怒られるぞ。嘘ついたこと〉
佐島は早くも冷や汗をかかんばかりにうろたえている。そのせいで、コップにお茶を注ぐときに少しこぼしてしまう。俺はコップの側面の水滴を布巾で拭う。
「なんでもいいから早くしてもらえるか?」
伯父さんは貧乏ゆすりこそしないが、声が苛立っている。お茶を出すと座りなさいと促される。どちらがもてなされているのか分からない。
「どうして私が来たのか分かるな? 本来なら電話でこと足りる用事だ。誰もが潔白だった」
伯父さんが咎めるように言う。俺は困った顔を作る。伯父さんは俺に説教をしに来たんだろう。
「哲也を困らせたかったわけじゃないだろう?」
父を困らせるメリットはない。伯父さんは一呼吸置いて、眉を怒らせる。
「人にはついていい嘘とやめておいた方がいい嘘があると思うんだが。お前は身内を混乱させる遊びでもやっているのか?」
「伯父さんに来訪する糸口を見つけてもらえるとは思わなくて」
「なんだって?」
「俺の就職活動に意見してもらって、いつも助かると思ってたんだけど、どうも自分で納得できるようにしないといけない気がする。もう放って置いて欲しくて嘘をついた。だけど、それが裏目に出てこんな小さいアパートまで来てもらえるなんて夢にも思わなかったな」
伯父さんは瞠目して面食らっている。怒鳴られた方がましなのだが、伯父さんは考えをまとめるのに手間取っているのか胸ポケットからアイコスを取り出した。
「哲也はお前に嘘をつかれても平然としていた。私の妻もな。私だけが取り越し苦労をしたわけだ。火のないところに煙は立たなかった。お前の言葉で私だけが妻を怪しみ、妻に疑ったことを詫びた。なかなか屈辱的だったよ」
伯父さんはアイコスを吹かし始める。俺が煙を嫌そうに眺めると伯父さんは手で俺を追い払うように促す。
「嫌なら換気扇を回せ」
俺はますます自分の家なのに勝手が分からなくなる。換気扇をかけるともう一度座るように促された。
伯父さんはテーブルの上で片づけられていない電動ロクロと整然と並んだコーヒーカップとソーサーの粘土に気づく。眉間の皺をより深く刻み「こんなもの」と口の中で舌が小さく発音している。
それから、片手で作品を床にはたき落した。潰れて折り紙のように重なった。俺も佐島も不思議と冷静に作品を眺めた。焼く前だからまだ再生できると心の隅で静かに念じた。
「一つ提案があるんだが。こんなお遊びはもうやめにして、小売店を紹介してやるからそこで働いてみないか?」
斡旋はしないと宣言したくせに嘘つきだ。
「まぁ、私の会社というわけではないが。印刷会社の子会社だ。あそこなら私の監督の目も行き届く」
誰がそんなところに行くかと思うと笑みが零れ落ちそうになる。伯父さんと同じ会社系列に勤めると考えただけで噴飯ものだ。もう就職活動などやめだ。粘土を壊した伯父さんとは話し合う価値はない。
「俺、陶芸家になるから」
やることは決まった。放火もしたし手遅れかもしれないが、これから何をどうしたいかのビジョンが見えた。
遠くでサイレンが聞こえる。消防車の警報音も家の近くを通過していく。
これまで佐島が悩んできたことは、小さかった。衣食住さえなんとかすればいいのだ。贅沢は言わない。シンプルにやりたいことだけをやるのだ。欲望のままに行動すれば、お金が必要になる。そのときに、職は自ずと必要になって来るだろう。
「何をたわけたことを抜かしているのか」
伯父さんの言葉に丁寧さが欠けはじめる。
「哲也ものんびりした性格だったが、お前ほど間抜けじゃない。ぐずでのろまで、今頃進路を考えて、あげく陶芸家だと? 陶芸家は職業と呼べるようなものじゃない」
頭に来る発言に伯父さんの血の気の良い顔を殴りつけたくなった。陶芸家は稼げる職業ではないのかもしれないが、それの何が悪いのか。
〈D、頼むから伯父さんに逆らわないで、ちゃんと就活してくれ〉
佐島黙れ。ここは怒ってもいいところだ。だが、俺は怒りとは別に心が満たされるのを感じた。伯父さんが罵るほどに、愉悦に浸れた。陶芸がこれほど俺たちにとって大切なものだと気づけた。
消防車の音が増える。あちこちからI公園に向かっているんだろう。雨が降って鎮火したかもしれないとはいえ、桜が冷え切った俺の代わりに一瞬でも燃えたと思うと、心臓の鼓動が早くなる。
「お前が何を考えているのかはまったく分からん。奇行、蛮行、多少は多めに見てやる。名刺を渡しておく。子会社の人事担当だ。明日にでも携帯に電話をしてみろ。私から企画部に回してやってくれと言づけておく。お前はこのままだと不幸になる」
伯父さんは名刺を置いて席を立った。玄関から自分の家のように出て行く。
「伯父さん、ごめんなさい」
〈D、素直に謝ってくれて助かる。でもどうしたんだ急に〉
佐島は不思議がる。
「何も必要ないんです。仕事も、生活も」
伯父さんは聞く耳を持たず、振り返りもせず去って行った。
「生まれながらに幸福で、何も必要としていなかったんです。粘土以外は」
口に出してみると喉に痰がからむときの粘り気を口内で感じた。
〈……本当に幸せな奴は火なんか見たくならないのに〉
俺は佐島を消すために電動ロクロの待つ屋内に戻った。
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