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1. 秘密の話をしようか
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◇◇◇
何の変哲も無い平穏な人生を送ってきた。人から見たら、そう思われるだろう。私の人生の大半は、そんなありきたりのものだ。
けれどひとつだけ。
人には言えない秘密があった。
言いたいけど言えない。そんな可愛らしい秘密ではない。暗い井戸の底に沈めて蓋をして閉じ込めて、決して見ないようにしている。そんな薄暗い嫌な記憶だ。
あれは小学一年生の春。入学したての間もない頃。私は男に誘拐された。
イタズラ目的に車で連れ去られたのだ。「悪戯」とは、なんだろうなと思う。適当に濁した言葉が、妙に軽い印象を与えて笑わせる。被害者への配慮なのか、加害者への配慮なのかさっぱりわからない。はっきり言えばいいのに。男が幼女に性的暴行を加えたと。
あのときの男の顔、交わした会話、体を弄る手の感触、吐きかける息の生暖かさも。
全部全部覚えている。
今でも鮮明に思い出す。
幸いだったのは、通りがかった近所の人に現場を目撃されたこと。
男は慌てて車から私を降ろし、適当な言葉をかけて逃げていった。
私は男の顔をしっかりと記憶した。
翌日の朝、校内放送で生徒が不審者に遭遇したことが流れた。誰も、私が被害者であることは知らない。こうした事件が起きたとき、被害者の情報は往々にして伏せられるものだ。ざわつく教室の片隅で、ひとり私は居心地の悪い思いをしていた。
その日は全校集会があり、生徒たちは列を作って体育館へ向かうことになった。私も遅れないように列に加わる。校長先生はあのことをまた話すのだろうか。そう思うと足取りは重かった。
体育館の入口では、先生たちが声をかけながら子どもたちに並ぶ場所を指示している。
そんななか、一人の男性教師と目があった。私をひたりと見据えると、男の笑みが深まる。
私は与えられた場所で、体育座りをしていたが、頭の中は混乱していた。どうしよう。どうしたらいい?校長先生の話も、まるで耳に入ってこない。
最後の方になり、一人の男性教師が壇上に上がった。間違いない。あの男だ。
男がゆっくりと、生徒たちに別れの言葉を掛ける。
そのとき初めて、その男が今日でこの学校を去ることを知った。
いなくなる。私の前からいなくなる。けれど。
「……教頭先生は、校長先生として新しい学校で……」
ああ、そうか。最後だから。だから、あんなことをしたんだ。これまでも同じように、生徒にあんなことをしてきたんだろうか。そして次もまた、同じことを繰り返すのだろうか。
家に帰ってから、姉に打ち明けた。学校に、犯人に似た男がいたと。姉は言った。「誰にもいっちゃだめ。学校にいられなくなるよ」
このときの姉の言葉の、なんと正しかったことか。
当時もし、教頭が自校の生徒に暴行を働いたことをマスコミが取り上げたら、とんでもない醜聞になっただろう。私も無事ではすまなかったはずだ。
私は結局、その秘密を、親にも警察にも誰にも打ち明けないことに決めた。病院の診察の結果、私の体には何一つ異常が無い事が確認され、すぐに発見されたお陰で幸い何もされていないと判断された。
誰に何をされたのか、どこまでされたのか。真相は全て闇の中。やがて事件の記憶は薄れ、話題にものぼらなくなった。
ただひとつだけ。私はそれ以降、男性に対して恋愛感情を抱くことが難しくなった。
だって、汚いから。
私を穢そうとする悍ましい存在だから。
分かっている。皆がみんなそうではないと。単なる友人としてなら、知り合いなら、普通に笑顔で接することができる。
けれど、私に恋愛感情を向けてくる人は気持ち悪いのだ。
理屈ではなく、触らないでと腕を振り払いたくなる。
誰も、誰も私を穢さないでほしい。
こうした気持ちは、完全に消えることは無いだろう。
いや。やめて。離して。助けて。
無意識に口をついて出るのはいつもそんな言葉ばかり。
隣で心配そうに私を見つめる男の目を見て思う。この目は知っている。私に恋い焦がれる目だ。あの男と同じ。私は悟った。ああ、この男もまた、私を穢すのだと。
終
何の変哲も無い平穏な人生を送ってきた。人から見たら、そう思われるだろう。私の人生の大半は、そんなありきたりのものだ。
けれどひとつだけ。
人には言えない秘密があった。
言いたいけど言えない。そんな可愛らしい秘密ではない。暗い井戸の底に沈めて蓋をして閉じ込めて、決して見ないようにしている。そんな薄暗い嫌な記憶だ。
あれは小学一年生の春。入学したての間もない頃。私は男に誘拐された。
イタズラ目的に車で連れ去られたのだ。「悪戯」とは、なんだろうなと思う。適当に濁した言葉が、妙に軽い印象を与えて笑わせる。被害者への配慮なのか、加害者への配慮なのかさっぱりわからない。はっきり言えばいいのに。男が幼女に性的暴行を加えたと。
あのときの男の顔、交わした会話、体を弄る手の感触、吐きかける息の生暖かさも。
全部全部覚えている。
今でも鮮明に思い出す。
幸いだったのは、通りがかった近所の人に現場を目撃されたこと。
男は慌てて車から私を降ろし、適当な言葉をかけて逃げていった。
私は男の顔をしっかりと記憶した。
翌日の朝、校内放送で生徒が不審者に遭遇したことが流れた。誰も、私が被害者であることは知らない。こうした事件が起きたとき、被害者の情報は往々にして伏せられるものだ。ざわつく教室の片隅で、ひとり私は居心地の悪い思いをしていた。
その日は全校集会があり、生徒たちは列を作って体育館へ向かうことになった。私も遅れないように列に加わる。校長先生はあのことをまた話すのだろうか。そう思うと足取りは重かった。
体育館の入口では、先生たちが声をかけながら子どもたちに並ぶ場所を指示している。
そんななか、一人の男性教師と目があった。私をひたりと見据えると、男の笑みが深まる。
私は与えられた場所で、体育座りをしていたが、頭の中は混乱していた。どうしよう。どうしたらいい?校長先生の話も、まるで耳に入ってこない。
最後の方になり、一人の男性教師が壇上に上がった。間違いない。あの男だ。
男がゆっくりと、生徒たちに別れの言葉を掛ける。
そのとき初めて、その男が今日でこの学校を去ることを知った。
いなくなる。私の前からいなくなる。けれど。
「……教頭先生は、校長先生として新しい学校で……」
ああ、そうか。最後だから。だから、あんなことをしたんだ。これまでも同じように、生徒にあんなことをしてきたんだろうか。そして次もまた、同じことを繰り返すのだろうか。
家に帰ってから、姉に打ち明けた。学校に、犯人に似た男がいたと。姉は言った。「誰にもいっちゃだめ。学校にいられなくなるよ」
このときの姉の言葉の、なんと正しかったことか。
当時もし、教頭が自校の生徒に暴行を働いたことをマスコミが取り上げたら、とんでもない醜聞になっただろう。私も無事ではすまなかったはずだ。
私は結局、その秘密を、親にも警察にも誰にも打ち明けないことに決めた。病院の診察の結果、私の体には何一つ異常が無い事が確認され、すぐに発見されたお陰で幸い何もされていないと判断された。
誰に何をされたのか、どこまでされたのか。真相は全て闇の中。やがて事件の記憶は薄れ、話題にものぼらなくなった。
ただひとつだけ。私はそれ以降、男性に対して恋愛感情を抱くことが難しくなった。
だって、汚いから。
私を穢そうとする悍ましい存在だから。
分かっている。皆がみんなそうではないと。単なる友人としてなら、知り合いなら、普通に笑顔で接することができる。
けれど、私に恋愛感情を向けてくる人は気持ち悪いのだ。
理屈ではなく、触らないでと腕を振り払いたくなる。
誰も、誰も私を穢さないでほしい。
こうした気持ちは、完全に消えることは無いだろう。
いや。やめて。離して。助けて。
無意識に口をついて出るのはいつもそんな言葉ばかり。
隣で心配そうに私を見つめる男の目を見て思う。この目は知っている。私に恋い焦がれる目だ。あの男と同じ。私は悟った。ああ、この男もまた、私を穢すのだと。
終
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