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真広の仕事は十時で終わる。
帰る準備をして急いで家に帰っても家に着く頃には十時二十分は過ぎていた。
小白はもう寝ているので真広はいつも静かに靴を脱ぎ、ドアを閉める。居間では風呂から上がったすっぴんの妹が眼鏡をかけて図書館のバーコードが付いた本を読んでいた。
「ただいま」
「おかえりなさい」真理恵は本を読んだまま応えた。「お風呂が冷める前に入ってください。できるだけ追い炊きは押さないように」
「うん。分かってるよ」
真広は鞄を椅子の上に置き、ヤカンから麦茶をコップに注ぐと空いている椅子に座った。
「その、正社員のテストを受けられるみたいなんだ」
真理恵は驚いて本から兄へと目線を動かした。
「それはおめでとうございます。よかったわね」
「ああ。うん。これでボーナスも出る。まだ受かってないからこれからだけど」真広はおずおずと尋ねた。「それでその、SPIって分かるかい?」
「参考書を持ってますよ。私の部屋にあるんで使うならどうぞ。ああでも古いから新しいのを買った方がいいかもしれませんね。まあでも、本当によかったですね」
「うん。頑張るよ」
真広の報告が終わると真理恵はパンを閉じて眼鏡を外した。
「それでその、あの話なんですけど……」
「あの話?」
真理恵は母親の部屋を見て「あの子の」と付け加えた。
「ああ」真広は頷いた。「養子の」
真理恵は少し緊張して「ええ」と頷いた。
「その、今日はあの子と公園に行ったんです。ほら、昔よく遊んだ砂場の大きい」
「ああ。うん。行ったね。楽しんでたかい?」
「多分。友達もできたみたいです。男の子の。その子が連れて行ってくれたんです。坂の上にある屋敷に。そこは子供を預かってる……というか、なんて言えばいいんでしょう。その、リビングを開放してるみたいなんです。子供なら誰でも来ていいってところで」
「へえ。そんな家があるのか。知らなかったな」
「ええ。それで、あの子はそこを気に入っているみたいなんです。だからその、預けるというわけではないですけど、一人で家にいるよりはマシだと思って」
「大人もいるのかい?」
「はい。私と同じくらいのお姉さんが」
「まあ、それならいいんじゃないか。信用できるなら、家だと寂しいだろうし」
「でも心配もあるんです。今日も迷子になったみたいで、しばらく戻ってこなかったんです。庭も広いですし、大きい子もいますから」
「そうだな……。でもそういう場所も子供には必要なのかもしれない。幼稚園とかも、立派な社会だ」
「……かもしれません。あなたはあの人と同じことを言うんですね。管理者になるなと」
「管理者?」
真理恵は真広に昼の出来事を話した。真広は小さく笑った。
「それはその、中々手強いお婆さんだな」
「ええ。まったく。言ってることのほとんどは分かりませんでした。でもその、分かったことはあります。つまりその、子供は自分とは違うってことは」
真広は静かに頷いた。
「そうだな。それはそうだ。それが普通なんだろう」
真理恵は溜息をついて頷いた。
「……ええ。でしょうね。私達はそれを知らないわけです。そういった普通を。そこまで見透かされているとしたら少し悔しいですけど」
真理恵は苦笑しながら顔をしかめた。だが笑みはすぐに固くなる。
「結局そうなんです。あの子は強い。だから残る問題は私なわけです。それは分かってますよ。だけど私の身にもなってくださいよ。結婚も出産も諦めたのに今更五才の子を育てろなんて。母親になれだなんて。ええ。分かってます。考えすぎだって。でも色々と見聞きするんですよ。本屋とかネットとかで。子供はこう育てろとか、親と一緒にいるべきだとか、母乳で育てろとか」
「母乳ってお前……」
真広は呆れて笑う。真理恵は開き直ったように頷いた。
「ええ。そうですよ。馬鹿馬鹿しい。東大だとか医者だとか稼げる子供だとか、全部が全部馬鹿馬鹿しい。分かってます。だけど考えてしまうんです。大丈夫なのかって。……私達みたいなことにならないのかって」
少し沈黙が流れた後、真広は重々しく頷いた。
「そうだな……。まあ、分かるよ。僕らが普通にやれるか。人並みとは言えない僕らが、あの子を」
真理恵が泣きそうになりながら頷くと真広は続けた。
「だけど誰かがやらないといけない。あの子は誰かといるべきだ。あの子を助けてくれる大人と。そしてそれは僕らしかいない。ならやるしかないんだ。大体の問題は準備していない時にやってくる。けど準備ができてないとできないはちがう。だろう?」
「……かもしれません」
「そういうものだよ。やってみるしかない。そしたら多分、大抵の問題はなんとかなる」
真理恵は呆れながら溜息をつき、笑った。
「兄さんはいいですね。いつもそういう風に考えられて。私にはとても」
「仕方ないさ。そう考えるしかなかった。思うんだけど、世の中に不幸はない。全てなにかが起こっただけで、それを不幸にするのは自分だ。もちろんこれは理想論でイヤになることだってある。だけどそこから少しマシにすることはできるはずだ」
「できるでしょうか?」
「できるさ。それにできてる。できなきゃ今頃みんな首を吊ってるよ」
過激な冗談に真理恵は笑いながらも注意した。
「あの子の前でそういうことは言わないでくださいね」
「分かってるさ。これは、大人の問題だ」
真理恵は頷き、そして小さく息を吐いた。
その顔は先ほどまでとは違いすっきりしている。
「分かりました」
「なにを?」
「兄さんの案ですよ。できるかどうかは分かりませんけど、まあ、なんとかなるでしょう」
真理恵は吹っ切れたように笑った。
「もうあれこれと考えるのが馬鹿らしくなりました。耳のこともありますけど、あの子が悪いことはなに一つありませんからね。だけど伝えるのはもう少し先にしましょう」
「どうして?」
「あの子にも時間が必要です。急にこんな知らないおじさんとおばさんが親になるなんて言われてもついていけないでしょう。それにまだ伯父さんのことを気にしているみたいですし。そちらの問題も解決できるならしておいた方がいいですよ」
真広は少し残念そうに肯定した。
「それはまあ、そうかもしれないな……」
「そうですよ。あの子の人生はあの子のものですからね。それに私達だって解決しないといけない問題がたくさんあります。やるべきはまずそちらからでしょう」
「……厳しいな」
「それが人生です」
真理恵がそう言った後、二人の間に小さな沈黙が訪れ、そして互いに微笑した。
問題は解決しなかったが、二人とも前に進む覚悟はできたみたいだった。
もう夜の十一時になっている。それから真広は風呂に向かい、真理恵は参考書をテーブルの上に持ってきた。
真理恵が寝るために二階へと上がると居間は誰もおらず、しんとした。
その横の部屋では寝ていたはずの小さなねこの耳がぴくりと動いた。
帰る準備をして急いで家に帰っても家に着く頃には十時二十分は過ぎていた。
小白はもう寝ているので真広はいつも静かに靴を脱ぎ、ドアを閉める。居間では風呂から上がったすっぴんの妹が眼鏡をかけて図書館のバーコードが付いた本を読んでいた。
「ただいま」
「おかえりなさい」真理恵は本を読んだまま応えた。「お風呂が冷める前に入ってください。できるだけ追い炊きは押さないように」
「うん。分かってるよ」
真広は鞄を椅子の上に置き、ヤカンから麦茶をコップに注ぐと空いている椅子に座った。
「その、正社員のテストを受けられるみたいなんだ」
真理恵は驚いて本から兄へと目線を動かした。
「それはおめでとうございます。よかったわね」
「ああ。うん。これでボーナスも出る。まだ受かってないからこれからだけど」真広はおずおずと尋ねた。「それでその、SPIって分かるかい?」
「参考書を持ってますよ。私の部屋にあるんで使うならどうぞ。ああでも古いから新しいのを買った方がいいかもしれませんね。まあでも、本当によかったですね」
「うん。頑張るよ」
真広の報告が終わると真理恵はパンを閉じて眼鏡を外した。
「それでその、あの話なんですけど……」
「あの話?」
真理恵は母親の部屋を見て「あの子の」と付け加えた。
「ああ」真広は頷いた。「養子の」
真理恵は少し緊張して「ええ」と頷いた。
「その、今日はあの子と公園に行ったんです。ほら、昔よく遊んだ砂場の大きい」
「ああ。うん。行ったね。楽しんでたかい?」
「多分。友達もできたみたいです。男の子の。その子が連れて行ってくれたんです。坂の上にある屋敷に。そこは子供を預かってる……というか、なんて言えばいいんでしょう。その、リビングを開放してるみたいなんです。子供なら誰でも来ていいってところで」
「へえ。そんな家があるのか。知らなかったな」
「ええ。それで、あの子はそこを気に入っているみたいなんです。だからその、預けるというわけではないですけど、一人で家にいるよりはマシだと思って」
「大人もいるのかい?」
「はい。私と同じくらいのお姉さんが」
「まあ、それならいいんじゃないか。信用できるなら、家だと寂しいだろうし」
「でも心配もあるんです。今日も迷子になったみたいで、しばらく戻ってこなかったんです。庭も広いですし、大きい子もいますから」
「そうだな……。でもそういう場所も子供には必要なのかもしれない。幼稚園とかも、立派な社会だ」
「……かもしれません。あなたはあの人と同じことを言うんですね。管理者になるなと」
「管理者?」
真理恵は真広に昼の出来事を話した。真広は小さく笑った。
「それはその、中々手強いお婆さんだな」
「ええ。まったく。言ってることのほとんどは分かりませんでした。でもその、分かったことはあります。つまりその、子供は自分とは違うってことは」
真広は静かに頷いた。
「そうだな。それはそうだ。それが普通なんだろう」
真理恵は溜息をついて頷いた。
「……ええ。でしょうね。私達はそれを知らないわけです。そういった普通を。そこまで見透かされているとしたら少し悔しいですけど」
真理恵は苦笑しながら顔をしかめた。だが笑みはすぐに固くなる。
「結局そうなんです。あの子は強い。だから残る問題は私なわけです。それは分かってますよ。だけど私の身にもなってくださいよ。結婚も出産も諦めたのに今更五才の子を育てろなんて。母親になれだなんて。ええ。分かってます。考えすぎだって。でも色々と見聞きするんですよ。本屋とかネットとかで。子供はこう育てろとか、親と一緒にいるべきだとか、母乳で育てろとか」
「母乳ってお前……」
真広は呆れて笑う。真理恵は開き直ったように頷いた。
「ええ。そうですよ。馬鹿馬鹿しい。東大だとか医者だとか稼げる子供だとか、全部が全部馬鹿馬鹿しい。分かってます。だけど考えてしまうんです。大丈夫なのかって。……私達みたいなことにならないのかって」
少し沈黙が流れた後、真広は重々しく頷いた。
「そうだな……。まあ、分かるよ。僕らが普通にやれるか。人並みとは言えない僕らが、あの子を」
真理恵が泣きそうになりながら頷くと真広は続けた。
「だけど誰かがやらないといけない。あの子は誰かといるべきだ。あの子を助けてくれる大人と。そしてそれは僕らしかいない。ならやるしかないんだ。大体の問題は準備していない時にやってくる。けど準備ができてないとできないはちがう。だろう?」
「……かもしれません」
「そういうものだよ。やってみるしかない。そしたら多分、大抵の問題はなんとかなる」
真理恵は呆れながら溜息をつき、笑った。
「兄さんはいいですね。いつもそういう風に考えられて。私にはとても」
「仕方ないさ。そう考えるしかなかった。思うんだけど、世の中に不幸はない。全てなにかが起こっただけで、それを不幸にするのは自分だ。もちろんこれは理想論でイヤになることだってある。だけどそこから少しマシにすることはできるはずだ」
「できるでしょうか?」
「できるさ。それにできてる。できなきゃ今頃みんな首を吊ってるよ」
過激な冗談に真理恵は笑いながらも注意した。
「あの子の前でそういうことは言わないでくださいね」
「分かってるさ。これは、大人の問題だ」
真理恵は頷き、そして小さく息を吐いた。
その顔は先ほどまでとは違いすっきりしている。
「分かりました」
「なにを?」
「兄さんの案ですよ。できるかどうかは分かりませんけど、まあ、なんとかなるでしょう」
真理恵は吹っ切れたように笑った。
「もうあれこれと考えるのが馬鹿らしくなりました。耳のこともありますけど、あの子が悪いことはなに一つありませんからね。だけど伝えるのはもう少し先にしましょう」
「どうして?」
「あの子にも時間が必要です。急にこんな知らないおじさんとおばさんが親になるなんて言われてもついていけないでしょう。それにまだ伯父さんのことを気にしているみたいですし。そちらの問題も解決できるならしておいた方がいいですよ」
真広は少し残念そうに肯定した。
「それはまあ、そうかもしれないな……」
「そうですよ。あの子の人生はあの子のものですからね。それに私達だって解決しないといけない問題がたくさんあります。やるべきはまずそちらからでしょう」
「……厳しいな」
「それが人生です」
真理恵がそう言った後、二人の間に小さな沈黙が訪れ、そして互いに微笑した。
問題は解決しなかったが、二人とも前に進む覚悟はできたみたいだった。
もう夜の十一時になっている。それから真広は風呂に向かい、真理恵は参考書をテーブルの上に持ってきた。
真理恵が寝るために二階へと上がると居間は誰もおらず、しんとした。
その横の部屋では寝ていたはずの小さなねこの耳がぴくりと動いた。
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