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39-2.捕食者

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「まあ、それはいい。大体の予想はついている」

 エルは首を振ってそう言うと、右手を陣の中へと伸ばす。陣に織り込まれた魔法は、特に影響をうける様子も及ぼす様子もなく、すんなりと侵入を許している。
 エルの指が、陣の中央で蹲るヘネスの頭部へと触れた。

「兄からどう聞いているかは知らないが、俺はそう気が長いほうじゃない。焦らされるのも言葉遊びもいい加減飽きてきた。月並みだが、命が惜しいならそろそろ素直に答えてもらおうか」

 心底疲れたというようにため息をつき、エルはヘネスの頭部を鷲掴む。長い指が左右のこめかみに食い込み、上に引き上げられるような形でヘネスがのけぞった。

「……っ、」

 ヘネスが大きく息を呑む。拘束された腕が上がり、額を掴むエルの手を引き剥がそうともがく。
 だがその指はヘネスの胸のあたりで宙を掻くばかりで、エルの手には到底届かない。
 それも当然だ。ヘネスは通常の倍以上の負荷がかかっている状態である。本来ならば腕を上げるどころか指を動かすことすら億劫な筈だった。
 手足の鎖が耳障りな音を立て、無理やり晒された喉元がひくりと上下した。

「もう一度訊く。これが最後だ」

 途端にエルの指に力が入ったのが傍目にもわかった。
 ヘネスが弾かれたように身体を反らせ、声にならない叫び声をあげた。はくはくと開く口から潰れた声が漏れる。

「勇者はどこだ」

 一段と低くエルが問いかけた。そこに滲むのは紛れもない苛立ちだ。
 エルが力を緩めたのだろう、ヘネスは荒い呼吸を繰り返していたが、やがて落ち着いてきたのか静かに息を吐いた。

「……どこ、にも」

 エルの表情には変化がない。話そうとするヘネスを凝視しているだけだ。

「分っておいでの、はずです。私が勇者の姿を得るために、何をしたのか。さすがに稀代の勇者というだけはある……上質な……っ」

 言い募るヘネスの声が途切れた。こめかみを掴むエルの指先から赤い筋が流れる。それはヘネスの顎を伝い、床に真紅の花を咲かせる。

「そうか」

 再びヘネスが体を痙攣させる。食いしばった歯の間から苦しげに呻く。
 その様子を淡々と眺め、エルはごく軽い動作で頷いた。

「なら、用済みだな」

 さらりと、エルが言う。
 ヘネスを見つめる真紅の双眸には何の感情も揺れていない。そこにあるのは、路傍の石を見るような冷たい光だけだ。
 ヘネスを捕らえていない左手が陣の中へ差し入れられる。胸の辺りで尚ももがいているヘネスの右腕を掴んだ。
 実にあっさりとした動きで、ヘネスの右腕が反対側へと折り曲げられた。
 およそ、ヒトを模した姿では曲がり得ない方向に無理やりねじられた腕が鈍い音を立て、同時にヘネスの口から鋭い悲鳴が上がる。そしてありえない方向に捻じ曲がった腕を、エルは自然な動作で元の位置に戻し、まるで枯れ枝を折るかのような何気ない動きで――引き千切った。
 ヘネスの口から絶叫が迸る。
 最早何の意味もなさない獣のような叫びの中、加害者であるエルは眉ひとつ動かさない。
 傷口からは鮮血がとめどなく溢れ、見る間に陣を赤く染める。
 エルの左手に残されたヘネスの腕だったものは、暫くして青白い炎に包まれた。高温の炎によって肉塊は瞬きほどの間に炭化し、エルの指からぱらぱらと零れ落ちる。その腕に嵌められていた枷が、鈍い音を立てて床に落ちた。
 そして、空いた左手をエルは再びヘネスへと伸ばした。今度は、その固定された首へと。
 その意図は明白だった。
 ヘネスもそれを悟り、恐らく無意識にエルの手から逃れようと身をよじる。つかまれた指の隙間から覗く漆黒の双眸は、激しい動揺に揺れている。
 誰もが凍りついたように動けなかった。
 あっさりと展開される残虐な光景に、慣れているはずの魔物たちが衝撃に固まっていた。戦場では珍しくないものだったし、残虐性は魔物なら誰しも持つ性である。それぞれの隣にいる魔物がそれを発揮したところで、これほど衝撃は受けなかっただろう。
 彼らが動揺したのは、それを行ったのがエルであるという一点だった。
 いくら城主らしくなってきたとはいえ、長くエルを知る幹部たちである。エルの本来の性格が、戦いに向かないものであることは殆どが知っていた。これまでも時折、強者らしい傲慢さや残酷さの片鱗を伺わせることはあったが、それでも認識を改めさせるまでには至らなかったのだ。
 エルに城主らしさが備わってきた、ただそれだけの感覚だった。
 けれど、こうしてその姿を目の当たりにして、彼らは自身の認識の甘さに気付かされた。
 その手を血で染めてなお、動かない表情。
 まるで邪魔になった枝を切り落とすような、事務的なその行為。
 血に酔うわけでも、怒りに身を任せての行動でもなく、淡々と確実に命を削っていく。
 そこには邪魔者に対する苛立ちはあれど、強烈な感情は伴わない。怒りも憎しみも、悦びすらもなく、当然ながら躊躇いも存在しない。
 エルは間違いなく強者だった。
 その存在そのものが、強者たるよう定められた種族。竜に連なる種族同士とはいえ、エルとヘネスでは存在の格が違う。エルにとってはヘネスは雑草にも等しく、目障りだから処分する、という程度の感覚でしかないのだ。
 巨大な竜が、己の足元の蟻を気にしないのと同じように。

「エル、様」

 スイは必死にひりついた喉を動かした。
 ヘネスを死なせてしまうには、早すぎる。
 まだ何一つ聞き出せてはいないのだ。ここにいること自体がすべての証拠だと言っても、ヘネスから聞き出すべき事柄はまだ少なくない。
 だがその懸命な声はスイの意思に反して、小さく漏れた程度だ。当然ながらエルには届かない。
 恐怖に萎縮しているのだと、分ってはいてもどうすることもできない。この程度のことで恐れている場合ではない。そう自らを叱咤するが、それ以上行動を起こせそうになかった。
 エルの左手が、ヘネスの首にひたりと添えられる。
 いけない、とスイが再び口を開きかけたとき。

「あれ、捕まえたの」

 場違いなほどのんびりした声がかけられた。
 その声にエルの体が強張る。

「ゆ、勇者……?」

 呆然とスイが呟く。
 声に振り向いた先、扉から歩いてくる人影を見出す。
 思わず疑問符で問いかけてしまったのは、その人物が頭から雑巾にも等しいぼろぼろの布を被っていた為だ。どこで調達したものか、ほぼ全身を隠せてしまうような大きな布である。
 珍しく声を詰まらせたスイへ、その人物は襤褸に包まれた頭を傾げてみせた。
 布の間から伸びた手が、頭部の布を僅かに押し上げる。周囲に晒されるのは少女めいた端正な顔と、透き通るような青い目だ。白い肌に落ちかかる髪は白金に煌き、ぼろぼろのいでたちにそぐわない。
 白金の髪に青の目。先ほどまでヘネスが化けていたものと寸分違わぬ姿の、勇者スノウ

「お前……今までどこに」

 ヘネスの頭部を掴み、左手をその首に添えたまま、エルが低く問いかけた。
 スノウの方を向いてはいるものの、俯き加減でその表情までは窺い知れない。
 その不穏な様子に気付かない筈もなかったが、スノウは相変わらずの暢気な調子で答える。

「ん? 言ってなかった? 邪魔にならないように隠れとこうと思って、別な部屋に行ってたんだよ。そしたらそこでヘネスと鉢合わせてさ。警告しなきゃと思ってエルを探しに来たんだけど……必要なかったみたいだね」

 焦って損したな、とスノウは笑みを浮かべる。
 その乾いた笑みと床を舐めた視線から察するに、状況自体は理解しているらしい。惨状を前に平然としているのは、やはり腐っても勇者というところか。
 動かないスイと、同じく動けない魔物たちを前に、スノウは再び首を傾げる。

「どうしたの、変な顔して……あ、そっか、俺邪魔だよね?」

 魔物たちの間に広がる奇妙な緊張感に、漸く不安なものを覚えたようだ。大きく息を呑む気配がして、青い目が忙しなく周囲を泳ぐ。もたつく手つきで既に不要であるはずの襤褸を再び被りなおし、両手でしっかりと頭部を押さえた。

「えっと、俺もう暫く隠れとく。あっちの、あっちの部屋。何か用があったら呼んで。俺がいたってできること何もないし、うん、それがいい」

 扉を指差し、なにやら納得するように頷いて、早口でまくし立てた。
 呆気にとられるスイの背後で、重い音が響く。
 はっとして振り向くと、床にヘネスが倒れていた。
 床についた両肩が激しく上下している様子から見て、どうやら生きてはいるようだ。横向きの額は苦悶に歪み、肩口からは血がとめどなく流れている。体の下に敷かれた陣はヘネスの血で一面赤く染まっていた。一見瀕死のようにも見えるが、魔物にとって腕の切断程度では致命傷にもならない。まして、ヘネスは竜の種族である。生命力は他の魔物の比ではない。
 その傍らに佇むエルの視線がまっすぐにスノウに向けられる。

「待て」

 温度を失った声が、スノウに飛ぶ。
 己に向けられたものではないとわかっていても、スイは体を強張らせる。
 だが、スノウにはその声が届かなかったらしい。或いは意図して無視を決め込んだのか。エルの言葉に従う素振りもなく、むしろ追い立てられるように踵を返すと広間から出るべく駆け出そうとした。
 勢い風を孕んだぼろ布の裾が、ひらりと広がる。
 その先端を、エルの指が捉え。
 遠慮の欠片もなく、強い力で引っ張った。

「あいたっ」

 自然、頭をそのまま後ろに引っ張られたスノウが、勢いよくのけぞる。

「ちょ、何するんだよ! 首痛める!」

 文句を言いながら振り向いたスノウの目の前には、あっという間に距離を詰めてきたらしいエルの姿がある。その手に握られているのは、スノウの体を覆っているぼろ布の裾だ。
 スノウを見返す真紅の双眸は、何の感情も映していない。

「勇者、か」

 ぽつりと零した声に、スノウは眉根を寄せる。気になることがあるものの発言をためらっている様子だ。普段と違うエルの様子に戸惑っているらしい。

「……そうだけど。……あー、か、肩書きはね」

 実態はちょっとアレだけどね、とスノウは視線を明後日の方向へ泳がせた。

「……ああ、そうだな」

 相槌を打ったエルの双眸がふと和らいだ。纏っていた硬質な空気が解けたのを感じて、幹部たちが揃って息をつく。スイも無意識に詰めていた息を吐き、己の喉をさすった。

「どうしたの、エル。何か様子が……」
「いや、少し苛立っただけだ」

 スノウの布の裾から指を離し、そう答えるエルは既に普段通りの姿を取り戻している。

「ふうん? じゃあ俺はこれで」
「どこへいく」
「え、そのへんの部屋とか。取り込み中みたいだし人間おれがいちゃ不味いでしょ」
「お前がその格好でうろうろするほうが不味いな。ネコはどうした」
「い、今頃それ言う? 魔力が戻ったんだよ、だから」
「まあそれはどうでもいいが」

 なら聞かないでよ、と間髪いれずにスノウが突っ込む。

「ここにいろ。またどこぞの輩に食われでもしたら面倒だ」
「……? 食べられた記憶はないけど」

 事情がわからないスノウはこてんと首を傾げるだけである。
 疑問符を浮かべるスノウには答えず、エルは扉のほうに顔を向けた。

「スイ、そろそろアイシャが戻る。こちらへ」

 スイを顧みたその真紅の瞳は、常と変わらない光を取り戻している。エルが口にしたのは、ヘネスとは関係のない事柄だ。思わぬことにさしものスイも反応が遅れる。
 はい、と返事をしようとしたとき、扉が勢い良く開いた。
 飛び込んできたのは藍色の髪をした、見知った顔。相変わらず武装すらしていない丸腰の彼は、エルの姿を認めると真っ先に叫んだ。

「なんですかあれ! すげぇビビったんですけど!」

 それがアイシャの第一声であった。
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