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39.捕食者
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鏡のように磨き上げられた大広間の床。
滅多に使用されない部屋ということもあり、大理石の表面には傷ひとつない。ほんの、数分前までは。
今や床は大きく割れて砕け、そこから放射状に罅が走っている。
その中央に栗色の髪をした男がひとり蹲っている。
エルの攻撃によって変化の術を解かれた、ヘネスだ。その四肢には頑丈な枷と鎖。ヘネスの周囲には複雑な模様の円陣が描かれている。更に円陣の外側を10名ほどの武装した魔物が固めていた。
物理的な拘束は勿論だが、ヘネスが窮屈な体勢を強いられているのは、魔法による不可視の枷が大きな要因だろう。円陣の模様に織り込まれた魔法によってヘネスに負荷をかけている。
相手は竜の一種、破天竜である。少々の拘束では効果がない可能性もあるため、スイは通常の倍以上の拘束を命じた。過剰なまでの拘束力に、ヘネスの体の自由は殆ど奪われているはずである。恐らくは、頭を上げることすらかなりの力を要するだろう。
「大した変身能力だな」
エルは笑って腕を組み、ヘネスを見下ろす。その、今はヘネス以外の何者にも見えない姿を検分するかのように眺める。
「兄の差し金だろう。俺を殺してこいと言われたか」
問いかけに、ヘネスは無言だ。
先ほどから似たような質問を繰り返しているが、そのどれにもヘネスは反応を示さない。肩で浅い呼吸をしながら罅割れた床を見つめている。そこに彼の気をひくものがあるはずはなく、話す気はないという無言の抵抗だということは明らかだった。
ヘネスのこめかみを汗が伝う。相当な負荷がかかっているのだろう。頑強な破天竜だからと少し拘束を強くしすぎたかもしれない、とスイは思う。何しろ破天竜を拘束するなど初めてのことで、スイにも加減がわからなかった。
「エル様、少し弱めますか」
拘束が強すぎてよもや声もだせないのではないか。そう思っての問いかけに、エルはヘネスを一瞥して首を振る。
「必要ない。まあ、どうせ兄については話せんだろう。狂われたら厄介だしな」
その言葉に反応したのは、拘束されていたヘネスの方だった。
拘束されてから初めて見せる反応らしい反応は、息を呑む気配とその後にかすかに上げられた視線くらいのものだった。その視線は当然ながら、まっすぐに発言者であるエルを仰いでいる。
思わずヘネスを見遣ったスイは、一瞬だけ覗いたヘネスの表情に、驚愕の色が張り付いているのに気付く。
「……暗示が?」
スイの言葉にエルはゆるりと笑みを浮かべるだけで、肯定も否定もしない。
「別に無理に聞きだすこともないんだがな。こいつがここにいることそのものが答えのようなものだろう」
ヘネスが今、この場にいる。確かにそれ自体が動かぬ証拠ではあった。
ヴァスーラの所有物であるヘネスが、招かれたわけでもないのにこの城に居ることは、不自然に過ぎる。ヴァスーラとエルの間に親交は殆どなく、ヘネスはと言えばその立場にかなりの隔たりがある。彼らと同じ竜の種族とはいえ、軽々に行き来できるような間柄にはなり得ない。
つまり、どんな理由があったとしてもヘネスが自身の意思によって単独でエルを訪れることは万にひとつもないのだ。その行動はすべてヴァスーラの指示によるものとしか思えなかった。
「問題はどう処分するかだな。首だけにするか腕だけにするか……兄の出方もわからん」
悩む素振りでエルが溜息をつく。
物憂げではあるが、言ってる内容は物騒なことこの上ない。恐らくエルの中では処遇は決まっているのだ。
元々、エルは考えていることはあまり口に出さない。こうしてわざわざ言葉と態度で示しているのは、部下に、或いはヘネスに見せつけるため。
ふと、エルが俯けていた顔を上げた。何かを気にする素振りで周囲を見回す。
スイが一体どうしたのかと不審に思ったとき、不意に床が揺れた。
めまいのそれのように、或いは城全体が酩酊しているかのように、不安定にゆらりゆらりと揺れる。
あまり衝撃は強くないものの、常と違う様子に周囲に騒めきが広がる。
スイは咄嗟に身構え、窓の外を仰いだ。てっきり外の防壁が破られたものと思ったのだ。しかし、スイが確認する限り防壁に変化はない。きちんと作動しているようだ。
となれば、今の揺れは一体何なのか。
そう思いよくよく窓の外に目を凝らすと、防壁の外側に見慣れない薄い膜が揺れていることに気付く。光の加減で虹色に変化する膜は、スイでなければ視認が難しいような代物だ。
あちこちから小さな騒めきが起こる中、揺れの原因が見慣れない膜のせいではないかと直感したスイは、エルに視線を向けた。
「今の揺れは」
声を投げかけようとして、既にこちらを見ていたらしいエルと視線がぶつかる。
「問題ない。むしろ、これで幾分楽になる」
真紅の双眸には動揺の欠片も見受けられない。そのことに幾分安堵して、スイは首を傾げる。
「楽に? どういうことです」
「ああ……お前も知ってるだろう、例の仕掛けだ。アイシャがうまくやったようだな」
アイシャがエルの指示で地下の研究部屋に行っていることは、スイも知っている。仔細はわからないものの、アイシャが指示されたことがなにやら重要であることも、薄々気付いていた。
仕掛けだというそれは、スイが見る限り防壁の一種のように思えた。さほど強力な魔力も、何か派手な効果が見られるわけでもない。薄く均一に延ばされた魔力が膜の形をしてゆらゆらと循環しているような、そんな気配が感じられた。
「スイ、メーベルとノルに伝令を」
エルはそう言って、ヘネスのもとから数歩退く。スイの視線を捉え、近寄るよう手招いた。
スイが指示に従いエルの元へ近づくと、おもむろに腕を取られ、引き寄せられた。数センチ高い位置にあるエルの頭が傾ぎ、耳元に低めの声が落とし込まれる。
「魔法は一切使わず武器だけで戦え、と伝えろ」
スイは瞠目する。
それでは防御がおろそかになる。
魔法攻撃を受けた場合、盾だけでは防ぎきれない。そうでなくとも、ヴァスーラの兵は魔法に長けたものばかりである。今も前線では魔法による攻撃が主体だろうことは想像に難くなく、こちらの防御も魔法が主体になっているはずだった。
思わず出そうになったスイの反論に先んじて、エルが畳み掛ける。
「説明する時間はない、急げ。ああ、"鳥"は使うなよ。お前の部下を直接あいつらの元に送り込め、いいな」
鳥、というのはスイが使用する伝令用の魔法だ。小鳥の形を模した白い光の魔法である。
「はい」
「案ずるな――俺を信じろ」
当惑しつつ頷くと、微かな笑みの気配と共に最後にエルがそう付け足した。声にはいっそ傲慢なまでの自信が溢れている。それを感じ取り、騒めいた胸のうちが鎮まっていく。
スイは気付かれないよう息を零し、再びヘネスへと足を向けたその後ろ姿を見遣る。
疑問は残るが、エルがそういうならば信じるほかはない。
スイは円陣の周囲を固める部下を呼び寄せる。エルの命令を伝えると、部下もまた不思議そうな表情を浮かべたものの、すぐに従った。踵を返し駆け足で広間から飛び出す。
「もうひとつ聞きたいことがある」
一方のエルは、床に視線を落としたままのヘネスへと再度問いかける。
「本物の勇者はどうした」
ヘネスがようやく顔を上げた。
睨めつけるように、エルを見上げてヘネスは緩く瞬く。
「……どう、とは」
苦しい体勢なのは間違いなかったが、ヘネスの声は存外聞き取りやすいものだった。捕らわれ、正体を晒してから初めての言葉である。
「お前の能力については、ある程度聞いている。……ただ姿を模しただけではないだろう?」
高等な魔物の多くは変身能力が高い。けれど、実在の誰かに成りすますということは、また微妙に話が違ってくる。
稀にその対象の記憶までも忠実に再現できる魔物が存在するという話は、昔からよく聞かれていた。その能力が発現する種族が現状、破天竜のみであることも。
その能力の仕組みは、対象の一部を取り込むことで発揮される。取り込む量が多ければ多いほど、より正確に再現することが可能になると言われていた。取り込む――即ち「食べる」ことによって対象の情報を得るのだ。
ただ、その能力は諸刃の剣であった。
原因は多岐に渡るが、多くの個体は成体まで生存できない。そのため、能力の存在は夭逝を決定付ける負の因子と言われていた。元から滅多に発現しない能力である上に、更に成体となる個体が希少であったことから、その情報は広く出回ることはなく噂の域をでない。能力を得ている者が現存しているのか否か、それすら多くの魔物が知らなかった。
だが、ヘネスは精度の高い変化を見せつけた。
彼はその能力が発現するという破天竜の種族である。幾ら稀なケースだとはいえ、ヘネスがその能力を持っていると考えるのは妥当なところだ。
そして仮にそうだとすれば、どこかで本物の勇者と接触しているはずである。
スノウを知らない魔物ならいざ知らず、スイですら騙される程に精巧な変化。いつから摩り替わっていたのか、どこで摩り替わったのか、誰にも気付かれないほど鮮やかなその業。それを可能にさせるにはオリジナルと接触する他ない。ただ接触するだけではなく、最も高い精度を得て、且つ証拠も残らない――捕食という、方法をもって。
「……私の力をご存知なら、皆まで言わずともお分かりでしょう」
ヘネスはゆっくりと表情を変える。引き結ばれていた唇が、禍々しい笑みを象っていく。
唇の間から覗く赤い色に、スイは思わず目を逸らした。
勇者がどうなっていようと、スイには関係のないことだった。あんな弱い生き物どうなろうとも構わない、そう思っていたのに。
わかりきった結果を思うと、少しばかり胸が重くなるのはどういうことだろう。
「――そうだな、お前の言うとおりだ」
暫くの沈黙ののち、エルはあっさりと頷いた。
「出来としてはまあ悪くなかった。つまりはそういうことか。だが解せないな、何故勇者を選んだ? 魔物のほうが不自由しない筈だが」
ヘネスの目が僅かに揺れた。記憶を辿るように視線が動き、口を開く。
「ただの偶然です。貴方へ近づけるのなら誰でも構わなかった」
最前までの黙秘が嘘のように、さらりと言葉を紡ぐ。
ある種の「嘘」を感じたのは何もスイだけではなかったようだ。ヘネスを見下ろすエルの双眸が、探るようにその表情を観察している。
「偶然か……偶然といえば、この部屋は勇者を捕らえた場所でな。今こうして囚われているのが勇者の姿を模していたお前とは、不思議な偶然もあるものだな。
あの時は大変だったぞ。ここらの奴は皆不在でな、警備が最も手薄なときだったから」
エルは思い出したのか楽しげにくつくつと笑う。
突然の話題に、スイは当惑して眉根を寄せた。
勇者を迎え撃ったのはこの部屋だったとあとから聞いた。確かに間違いないが、今わざわざその話を持ち出す理由が分らない。
それは対するヘネスも同じだったらしい。笑みを引っ込め、エルを不審げに見つめている。
「お前が食った勇者は稀代の勇者だったらしい。そんな奴がたまたま手薄な時に侵攻してくるというのも、不思議な偶然だろう。
お前の頭に、そのときの奴の記憶はないか? 一体誰に唆されてこの城に乗り込んできたのか。いや、そもそもここが『城』だと奴に吹き込んだのは何者なのか、そのあたりの記憶があるはずだが」
どうだ、とエルは楽しげに笑んだままヘネスに畳み掛ける。
「これなら別に問題ないだろう。何せお前の記憶ではなく、勇者の記憶だ。まさか兄もそこまで関知しているとは思えん……となれば話すことはできるな?」
ヘネスは瞬きを繰り返す。口を開けて何かを言おうとして、躊躇うように再び閉ざされる。
「どうした、言えないのか? 無理に問い詰めて壊すのは本意ではないが……だが、おかしいな。これは兄には一切関係のないことのはずだ。隠すようなことは何もない、違うか?」
不思議そうな様子を装って、エルはヘネスに問いかける。遊んでいるのは明らかだった。
スイは当時のことをつらつらと思い返す。
エルの言うように、トラブルが頻発し城内が混乱していた時期である。四天王をはじめ幹部がこぞって駆り出され、城全体が手薄になったところを勇者に突かれたのだ。
勇者がヴァスーラの回し者ではないかという可能性は考えていたが、よもやその侵攻自体が仕組まれていたものだとは思いつきもしなかった。
エルの口ぶりから察するに、エルは確信しているようだった。
勇者の侵攻と敗退、そして王国軍の侵攻。それら全てがヴァスーラの企みなのだと。
そしてヘネスが口を割ろうとしないことが、何よりの証拠だった。
勇者の記憶を辿るだけならば、何のリスクもない。けれどその辿った先がヴァスーラに繋がるならば、ヘネスは真実を言わないだろう。暗示が掛けられていれば、尚更うかつに口にできない。
万一、口にすることで暗示の効果が現れればそれは即ちヴァスーラの仕業ということになりかねないからだ。
「やはり言えないか。当然だな、暗示が作用すれば廃人へ一直線だ」
エルは真紅の双眸を細めて、喉で笑う。傍目にはいつになく上機嫌に見えた。これほど饒舌に、且つ楽しげに笑うエルは非常に珍しい。
スイだけでなく他の幹部たちも当惑の表情を浮かべている。
滅多に使用されない部屋ということもあり、大理石の表面には傷ひとつない。ほんの、数分前までは。
今や床は大きく割れて砕け、そこから放射状に罅が走っている。
その中央に栗色の髪をした男がひとり蹲っている。
エルの攻撃によって変化の術を解かれた、ヘネスだ。その四肢には頑丈な枷と鎖。ヘネスの周囲には複雑な模様の円陣が描かれている。更に円陣の外側を10名ほどの武装した魔物が固めていた。
物理的な拘束は勿論だが、ヘネスが窮屈な体勢を強いられているのは、魔法による不可視の枷が大きな要因だろう。円陣の模様に織り込まれた魔法によってヘネスに負荷をかけている。
相手は竜の一種、破天竜である。少々の拘束では効果がない可能性もあるため、スイは通常の倍以上の拘束を命じた。過剰なまでの拘束力に、ヘネスの体の自由は殆ど奪われているはずである。恐らくは、頭を上げることすらかなりの力を要するだろう。
「大した変身能力だな」
エルは笑って腕を組み、ヘネスを見下ろす。その、今はヘネス以外の何者にも見えない姿を検分するかのように眺める。
「兄の差し金だろう。俺を殺してこいと言われたか」
問いかけに、ヘネスは無言だ。
先ほどから似たような質問を繰り返しているが、そのどれにもヘネスは反応を示さない。肩で浅い呼吸をしながら罅割れた床を見つめている。そこに彼の気をひくものがあるはずはなく、話す気はないという無言の抵抗だということは明らかだった。
ヘネスのこめかみを汗が伝う。相当な負荷がかかっているのだろう。頑強な破天竜だからと少し拘束を強くしすぎたかもしれない、とスイは思う。何しろ破天竜を拘束するなど初めてのことで、スイにも加減がわからなかった。
「エル様、少し弱めますか」
拘束が強すぎてよもや声もだせないのではないか。そう思っての問いかけに、エルはヘネスを一瞥して首を振る。
「必要ない。まあ、どうせ兄については話せんだろう。狂われたら厄介だしな」
その言葉に反応したのは、拘束されていたヘネスの方だった。
拘束されてから初めて見せる反応らしい反応は、息を呑む気配とその後にかすかに上げられた視線くらいのものだった。その視線は当然ながら、まっすぐに発言者であるエルを仰いでいる。
思わずヘネスを見遣ったスイは、一瞬だけ覗いたヘネスの表情に、驚愕の色が張り付いているのに気付く。
「……暗示が?」
スイの言葉にエルはゆるりと笑みを浮かべるだけで、肯定も否定もしない。
「別に無理に聞きだすこともないんだがな。こいつがここにいることそのものが答えのようなものだろう」
ヘネスが今、この場にいる。確かにそれ自体が動かぬ証拠ではあった。
ヴァスーラの所有物であるヘネスが、招かれたわけでもないのにこの城に居ることは、不自然に過ぎる。ヴァスーラとエルの間に親交は殆どなく、ヘネスはと言えばその立場にかなりの隔たりがある。彼らと同じ竜の種族とはいえ、軽々に行き来できるような間柄にはなり得ない。
つまり、どんな理由があったとしてもヘネスが自身の意思によって単独でエルを訪れることは万にひとつもないのだ。その行動はすべてヴァスーラの指示によるものとしか思えなかった。
「問題はどう処分するかだな。首だけにするか腕だけにするか……兄の出方もわからん」
悩む素振りでエルが溜息をつく。
物憂げではあるが、言ってる内容は物騒なことこの上ない。恐らくエルの中では処遇は決まっているのだ。
元々、エルは考えていることはあまり口に出さない。こうしてわざわざ言葉と態度で示しているのは、部下に、或いはヘネスに見せつけるため。
ふと、エルが俯けていた顔を上げた。何かを気にする素振りで周囲を見回す。
スイが一体どうしたのかと不審に思ったとき、不意に床が揺れた。
めまいのそれのように、或いは城全体が酩酊しているかのように、不安定にゆらりゆらりと揺れる。
あまり衝撃は強くないものの、常と違う様子に周囲に騒めきが広がる。
スイは咄嗟に身構え、窓の外を仰いだ。てっきり外の防壁が破られたものと思ったのだ。しかし、スイが確認する限り防壁に変化はない。きちんと作動しているようだ。
となれば、今の揺れは一体何なのか。
そう思いよくよく窓の外に目を凝らすと、防壁の外側に見慣れない薄い膜が揺れていることに気付く。光の加減で虹色に変化する膜は、スイでなければ視認が難しいような代物だ。
あちこちから小さな騒めきが起こる中、揺れの原因が見慣れない膜のせいではないかと直感したスイは、エルに視線を向けた。
「今の揺れは」
声を投げかけようとして、既にこちらを見ていたらしいエルと視線がぶつかる。
「問題ない。むしろ、これで幾分楽になる」
真紅の双眸には動揺の欠片も見受けられない。そのことに幾分安堵して、スイは首を傾げる。
「楽に? どういうことです」
「ああ……お前も知ってるだろう、例の仕掛けだ。アイシャがうまくやったようだな」
アイシャがエルの指示で地下の研究部屋に行っていることは、スイも知っている。仔細はわからないものの、アイシャが指示されたことがなにやら重要であることも、薄々気付いていた。
仕掛けだというそれは、スイが見る限り防壁の一種のように思えた。さほど強力な魔力も、何か派手な効果が見られるわけでもない。薄く均一に延ばされた魔力が膜の形をしてゆらゆらと循環しているような、そんな気配が感じられた。
「スイ、メーベルとノルに伝令を」
エルはそう言って、ヘネスのもとから数歩退く。スイの視線を捉え、近寄るよう手招いた。
スイが指示に従いエルの元へ近づくと、おもむろに腕を取られ、引き寄せられた。数センチ高い位置にあるエルの頭が傾ぎ、耳元に低めの声が落とし込まれる。
「魔法は一切使わず武器だけで戦え、と伝えろ」
スイは瞠目する。
それでは防御がおろそかになる。
魔法攻撃を受けた場合、盾だけでは防ぎきれない。そうでなくとも、ヴァスーラの兵は魔法に長けたものばかりである。今も前線では魔法による攻撃が主体だろうことは想像に難くなく、こちらの防御も魔法が主体になっているはずだった。
思わず出そうになったスイの反論に先んじて、エルが畳み掛ける。
「説明する時間はない、急げ。ああ、"鳥"は使うなよ。お前の部下を直接あいつらの元に送り込め、いいな」
鳥、というのはスイが使用する伝令用の魔法だ。小鳥の形を模した白い光の魔法である。
「はい」
「案ずるな――俺を信じろ」
当惑しつつ頷くと、微かな笑みの気配と共に最後にエルがそう付け足した。声にはいっそ傲慢なまでの自信が溢れている。それを感じ取り、騒めいた胸のうちが鎮まっていく。
スイは気付かれないよう息を零し、再びヘネスへと足を向けたその後ろ姿を見遣る。
疑問は残るが、エルがそういうならば信じるほかはない。
スイは円陣の周囲を固める部下を呼び寄せる。エルの命令を伝えると、部下もまた不思議そうな表情を浮かべたものの、すぐに従った。踵を返し駆け足で広間から飛び出す。
「もうひとつ聞きたいことがある」
一方のエルは、床に視線を落としたままのヘネスへと再度問いかける。
「本物の勇者はどうした」
ヘネスがようやく顔を上げた。
睨めつけるように、エルを見上げてヘネスは緩く瞬く。
「……どう、とは」
苦しい体勢なのは間違いなかったが、ヘネスの声は存外聞き取りやすいものだった。捕らわれ、正体を晒してから初めての言葉である。
「お前の能力については、ある程度聞いている。……ただ姿を模しただけではないだろう?」
高等な魔物の多くは変身能力が高い。けれど、実在の誰かに成りすますということは、また微妙に話が違ってくる。
稀にその対象の記憶までも忠実に再現できる魔物が存在するという話は、昔からよく聞かれていた。その能力が発現する種族が現状、破天竜のみであることも。
その能力の仕組みは、対象の一部を取り込むことで発揮される。取り込む量が多ければ多いほど、より正確に再現することが可能になると言われていた。取り込む――即ち「食べる」ことによって対象の情報を得るのだ。
ただ、その能力は諸刃の剣であった。
原因は多岐に渡るが、多くの個体は成体まで生存できない。そのため、能力の存在は夭逝を決定付ける負の因子と言われていた。元から滅多に発現しない能力である上に、更に成体となる個体が希少であったことから、その情報は広く出回ることはなく噂の域をでない。能力を得ている者が現存しているのか否か、それすら多くの魔物が知らなかった。
だが、ヘネスは精度の高い変化を見せつけた。
彼はその能力が発現するという破天竜の種族である。幾ら稀なケースだとはいえ、ヘネスがその能力を持っていると考えるのは妥当なところだ。
そして仮にそうだとすれば、どこかで本物の勇者と接触しているはずである。
スノウを知らない魔物ならいざ知らず、スイですら騙される程に精巧な変化。いつから摩り替わっていたのか、どこで摩り替わったのか、誰にも気付かれないほど鮮やかなその業。それを可能にさせるにはオリジナルと接触する他ない。ただ接触するだけではなく、最も高い精度を得て、且つ証拠も残らない――捕食という、方法をもって。
「……私の力をご存知なら、皆まで言わずともお分かりでしょう」
ヘネスはゆっくりと表情を変える。引き結ばれていた唇が、禍々しい笑みを象っていく。
唇の間から覗く赤い色に、スイは思わず目を逸らした。
勇者がどうなっていようと、スイには関係のないことだった。あんな弱い生き物どうなろうとも構わない、そう思っていたのに。
わかりきった結果を思うと、少しばかり胸が重くなるのはどういうことだろう。
「――そうだな、お前の言うとおりだ」
暫くの沈黙ののち、エルはあっさりと頷いた。
「出来としてはまあ悪くなかった。つまりはそういうことか。だが解せないな、何故勇者を選んだ? 魔物のほうが不自由しない筈だが」
ヘネスの目が僅かに揺れた。記憶を辿るように視線が動き、口を開く。
「ただの偶然です。貴方へ近づけるのなら誰でも構わなかった」
最前までの黙秘が嘘のように、さらりと言葉を紡ぐ。
ある種の「嘘」を感じたのは何もスイだけではなかったようだ。ヘネスを見下ろすエルの双眸が、探るようにその表情を観察している。
「偶然か……偶然といえば、この部屋は勇者を捕らえた場所でな。今こうして囚われているのが勇者の姿を模していたお前とは、不思議な偶然もあるものだな。
あの時は大変だったぞ。ここらの奴は皆不在でな、警備が最も手薄なときだったから」
エルは思い出したのか楽しげにくつくつと笑う。
突然の話題に、スイは当惑して眉根を寄せた。
勇者を迎え撃ったのはこの部屋だったとあとから聞いた。確かに間違いないが、今わざわざその話を持ち出す理由が分らない。
それは対するヘネスも同じだったらしい。笑みを引っ込め、エルを不審げに見つめている。
「お前が食った勇者は稀代の勇者だったらしい。そんな奴がたまたま手薄な時に侵攻してくるというのも、不思議な偶然だろう。
お前の頭に、そのときの奴の記憶はないか? 一体誰に唆されてこの城に乗り込んできたのか。いや、そもそもここが『城』だと奴に吹き込んだのは何者なのか、そのあたりの記憶があるはずだが」
どうだ、とエルは楽しげに笑んだままヘネスに畳み掛ける。
「これなら別に問題ないだろう。何せお前の記憶ではなく、勇者の記憶だ。まさか兄もそこまで関知しているとは思えん……となれば話すことはできるな?」
ヘネスは瞬きを繰り返す。口を開けて何かを言おうとして、躊躇うように再び閉ざされる。
「どうした、言えないのか? 無理に問い詰めて壊すのは本意ではないが……だが、おかしいな。これは兄には一切関係のないことのはずだ。隠すようなことは何もない、違うか?」
不思議そうな様子を装って、エルはヘネスに問いかける。遊んでいるのは明らかだった。
スイは当時のことをつらつらと思い返す。
エルの言うように、トラブルが頻発し城内が混乱していた時期である。四天王をはじめ幹部がこぞって駆り出され、城全体が手薄になったところを勇者に突かれたのだ。
勇者がヴァスーラの回し者ではないかという可能性は考えていたが、よもやその侵攻自体が仕組まれていたものだとは思いつきもしなかった。
エルの口ぶりから察するに、エルは確信しているようだった。
勇者の侵攻と敗退、そして王国軍の侵攻。それら全てがヴァスーラの企みなのだと。
そしてヘネスが口を割ろうとしないことが、何よりの証拠だった。
勇者の記憶を辿るだけならば、何のリスクもない。けれどその辿った先がヴァスーラに繋がるならば、ヘネスは真実を言わないだろう。暗示が掛けられていれば、尚更うかつに口にできない。
万一、口にすることで暗示の効果が現れればそれは即ちヴァスーラの仕業ということになりかねないからだ。
「やはり言えないか。当然だな、暗示が作用すれば廃人へ一直線だ」
エルは真紅の双眸を細めて、喉で笑う。傍目にはいつになく上機嫌に見えた。これほど饒舌に、且つ楽しげに笑うエルは非常に珍しい。
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