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36-2.新たな敵

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 一方エルは、次の指示をするべく視線を巡らせていた。
 残す四天王と幹部に、幾つか指示をせねばならない。そう思ってその姿を探しているのだが、今のところそれらしい姿はないようだった。
 やはり自ら上層へ行く方が早いのではないだろうか、と考えを巡らせているエルの袖を、何かが引っ張る。
 ある程度の予想はついていたため、驚きも警戒もなく振り向いた。

「エル、待って」

 いつの間に移動してきたものか、ごく近い位置にスノウの姿がある。
 周囲の魔物たちはスノウに全く注意を払っていないようだった。普通なら、これだけ魔物がいてエルのすぐそばまで移動を許すとは由々しき事態だ。しかし、スノウならばさもありなん、とエルはあっさり納得していた。
 見下ろした青い双眸には、相変わらず殺気や害意といった負の感情は見られない。穏やかな落ち着いた光の中にあるのは、僅かな緊張だ。

「何だ」
「外の兵士……王国軍も撤退させないと。城の周囲は危険だ」

 エルの問いに、スノウは声を潜めて答える。
 エルは真紅の目を僅かに狭めた。鋭い眼差しがスノウを探るように凝視する。
 暫くの沈黙の後、エルは低い声音で問いかけた。

「知らんな。なぜ俺が人間の、しかも王国軍のことなど?」

 突き放す口調に、けれどもスノウは頓着する様子もなく言い募る。その青い双眸はうろうろと彷徨い、ここではないどこかを見つめ思案に沈んでいるようにもみえた。

「兵団が現れたのは結界の内側なんでしょう? なら急がなきゃ。すぐに外は戦場になる」

 魔物同士の戦場に巻き込まれれば人間などひとたまりもないはず、とスノウ。
 確かにそれはそうだろう。ただの魔物の「群れ」ならともかく、攻めてくるのはヴァスーラの配下だ。こちらの攻撃で逃げ惑っている程度の軍隊では、障害物にすらならない。
 だがそれは、エルには関係のないことである。
 エルは魔物の長であり、人間の兵士を案じる理由も義務もない。それどころか、魔物側からすれば王国軍の壊滅は歓迎である。もっと言えば、今このとき邪魔さえしなければ、どれだけの数が死のうが生きようが一切がどうでもいい。
 撤退したければすればいい。歯向かいたければ歯向かえばいい。ただ、邪魔をすれば容赦なく滅ぼすまでのこと。
 それを、不可抗力とはいえこの城で過ごしていたスノウが理解していないとは思えない。

「勇者、なぜそれを俺に言う必要がある。そう思うならお前がどうにかすればいいだろう?」

 心ここにあらずのスノウに、エルはやや口調を緩めて囁く。
 潜められた声を耳にして、漸くスノウは視線をエルとあわせた。少し高い位置にあるエルの双眸をひたと見返して、ややあって目を逸らす。

「……そう、だね。エルには関係ない。俺が気にしているだけだ。これでも勇者だから……わかるでしょ?」

 歯切れ悪く応じたスノウは、困ったような表情を浮かべる。それへ、エルは微かに首を傾けてみせる。

「理解できんな。そもそも俺が人間おまえのことなどわかる筈がない」

 我々は違うのだから。そう思いを込めて見返すと、スノウは数回瞬きをしたあと目を伏せた。
 ふるりと振られる白金の頭が、長い吐息を漏らす。

「……そうだったね。俺もエルが何を考えてるかなんてわからないもの。当然だね」

 苦笑交じりに呟かれた言葉のあと、スノウは笑顔を浮かべた。状況にそぐわない綺麗な笑みは、どこか作り物めいて見える。

「ああそうだ、エルの考えは知らないけど、アイツを呼ぶのは頂けないと思うよ」
「呼ぶ? 誰をだ」
「破天竜」

 掴みどころのない笑みを唇に浮かべたまま、スノウは囁く。悪戯を思いついたような、棘を含んだ眼差しで。
 対するエルの顔には、目に見えて緊張が走った。真紅の双眸に複雑な色が閃いたが、一瞬のうちにそれは拭い去られている。

「……呼んだ覚えはないな。どこで見た」
「東の裏側だよ、さっき言った場所」
「……なるほどな」

 合点がいった、とエルは口の端だけを吊り上げる。
 勇者の侵入と結界の内側への侵攻。そして、紛れ込んだ鼠。
 なるほどヴァスーラは、本格的にこちらを潰す気のようだ。それも、周囲の目を誤魔化す形で。
 獰猛な笑みを浮かべたエルをまじまじと見上げて、スノウもまた笑みを深める。

「有益な情報だったみたいだね。なら、見返りが欲しいんだけどいいかな?」
「ほう? 見返りとは面白いな。己の立場はわかっているか、勇者?」
「やだなあ、分かってるよ。俺は勇者、エルは魔物。だから見返りを頂戴って言ってるんじゃないか。取引だよ、取引。どう考えてもエルが有利なんだから、いいでしょ?」
「では言ってみろ」

 エルが促せば、スノウは少し考える素振りを見せ、首を傾げた。

「外の王国軍の兵士たち。全員とは言わないから、なるべく死なないようにして欲しいんだよ。エルと戦いにきたのに、結果的に巻き添えなんて可哀そうだからさ」

 頼むよ、と気安い口調でスノウは言う。

「……約束はできんぞ」

 沈黙の後、ため息と共にエルが吐き出す。
 その前向きに後ろ向きな譲歩を得て、スノウは漸く双眸を和ませた。スノウが漏らした吐息には、隠し切れない安堵が滲んでいる。

「ありがとう。じゃあ、俺は邪魔にならないように隠れとくね」

 先刻行使した魔法は十分に威力のあるものだったが、スノウはあっさりと退場を宣言する。どうやら戦力外の自覚が身に染み付いてしまっているものらしい。
 宣言されたエルはといえば、何と答えようもなかったため軽く頷くにとどめる。
 スノウはエルの背後へちらりと視線をやり、エルへと曖昧な笑みを向けて踵を返した。
 その視線にエルが背後を振り返ると、少し離れた場所に見知った姿を見出す。メーベルとファザーンだ。
 ちょうど良い、と呼びかけようとして、エルは口を閉ざす。彼らに指示をするより先に、言っておかねばならないことがある。

「アイシャ」
「はい!」

 その大して大きくもない呼びかけに、アイシャが駆け寄る。その後方では、拘束された人間たちが暴れながらも連行されていく。いつの間にかアイシャの召喚した植物は姿を消し、大きく割れた床だけが晒されていた。
 それを見るともなしに眺めながら、エルはアイシャに指示を出す。

「次は地下にいけ」
「は……ち、地下ですか」

 当惑する様子のアイシャに手を伸ばし、その手首に触れる。するとアイシャの手首に鮮やかな朱色の文字が浮かび上がった。目的地まで直通の、いわば通行手形のようなものだ。

「これで直に行ける筈だ。そうだな……とりあえずはこの城を破壊する勢いで暴れて来い」
「……へっ? 暴れ……?」
「使うなら炎がいいだろうな。湖を中心に破壊してこい」
「はぁ」

 盛大に疑問符を浮かべている部下を見遣り、エルは眉間に皺を刻む。

「心配するな、その程度で壊れるほどヤワな城じゃない。とっとと行け、一刻を争う」

 不機嫌な様子のエルに、アイシャはびしっと音がしそうな勢いで居住まいを正した。

「畏まりましたっ」

 そのまま踵を返し、手近な魔方陣へと慌しく駆け出した。その様子を見送って、エルは小さく呟く。

「スイ、聞こえるか。こちらに来い」

 恐らくは正面の援護にあたっているだろうスイに呼びかける。
 暫くして、軽い音と共に水色の姿がエルの背後に降り立った。

「お呼びでしょうか」
「援護は」
「カメリアに任せてあります」
「カメリア? 戻ったのか」
「はい、そのことで後ほど二、三ご報告が」
「ああ。その前に、ひとつ頼まれて欲しい」
「何なりと」
「人間の……王国軍の撤退を」

 エルを見つめる金色の双眸に、怪訝な色が揺れる。さすがに彼の予想の範疇を超えていたらしい。説明する必要を感じて、エルは口を開く。
 説明を一通り聞いたスイはなおも釈然としない表情をしていたが、それは感情面の問題であることは明らかだった。優秀な彼はエルの意思を正しく汲み取っているだろう。

「……畏まりました。すぐに取り掛かります」

 エルが頷くのを確認すると、スイは再び軽い音を残して姿を消した。
 ひらりと後に舞うのは、数枚の羽だ。
 瑠璃色に輝く、巨大な猛禽の羽。
 すぐ傍に落ちてきたそれを手のひらに掬い取り、エルは短く息を吐く。脳裏に蘇るのは先ほどのスノウの姿。

「……ありがとう、か」

 手のひらの羽を見下ろし、エルは口元を緩める。それは何かを堪えているような、苦しげな笑みだった。

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