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32.闇
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魔物でごった返す廊下を、マナは走っていた。
いよいよ人間との戦が始まり、城内は騒がしい。
ある程度の規律は保たれているものの、魔物たちがそれぞれの手段で命令に伝達にと走り回るので城内はちょっとした混沌と化していた。
マナのように廊下を走る者が大半だが、天井を這う者や飛行するもの、果ては壁を伝うものもいる。
マナ自身、飛行が可能であることは背中の羽が示している。蝙蝠の系統に連なるため、他に比べて衝突せずに飛べる自信はある。ただ、人型を維持した上でとなると少々勝手が違う。
当然ながら、本来の姿の方が飛行は楽なのだ。だが人型を解くことはできない。そのため仕方なく足を使っての移動となっていた。
多くの魔物の行方は決まっている。
城の正面、正門だ。
人間の軍隊は正面から攻めてきていた。
ずいぶん律儀なものだとマナは思ったが、仲間に「非力な人間では城壁を上ることはできない」と言われて納得した記憶がある。
そのため必然的に戦力は最下層に集められることとなり、集合の命令は幾度となく耳にしていた。
だが、マナはその流れに逆らう形で進んでいる。
おかげで先ほどから幾度となく衝突しそうになっているが、引き返すわけにもいかない。
「なあ、武器庫って何処だ?」
走りながら問いかけてきた隣を走る男に、マナは苛立ちと共に声を投げつけた。
「この奥!」
睨み上げながら言ってやると、相手はやれやれと言いたげな視線を寄越して溜息をつく。
緑色の髪に金色の目。口元からは長い牙と長い舌が時折のぞく。
外見は色こそ違えど人に近く、彼もまたマナと同じ魔族であることを表していた。その本質が蛇であることは、露出した肌にうっすらと浮かぶ緑色の鱗が証拠だ。
「そうカリカリすんなって。お前いっつもキレてるよな」
そうまるで他人事のように言う男――ネルム。
誰のせいだと思ってるのか、と喉元まででかかった言葉をマナは呑みこんだ。
彼らが今走っているのは、最下層から二つ階段を上ったところだ。このあたりはマナが普段過ごす階より随分と下層であり、どちらかというと人型をしていない魔物が大半だ。
マナを含め、魔族といわれる魔物は比較的人型に近い姿をしている。そして、今その魔族のほとんどは表で戦闘の真っ最中であった。
現在廊下を行き来しているのは、彼らの命令を受けた魔獣や魔人たちだ。
「なあ、お前は別にいいんだぜ? オレの武器だしさ、お前戻っても」
珍しく殊勝なことを言い出したネルムを、マナはぎろりと睨む。
「武器庫の場所を聞くような馬鹿に任せていたら、戦いが終わってしまうだろ」
「誰が馬鹿だよ、武器庫くらいみりゃ分かるっつーの」
鼻で笑って言うが、マナはそれが単なる強がりだと疑っていない。どうしようもなく、この男はプライドだけは高いのだ。
だから交戦中に剣が折れてもなお、余裕のあるフリをしていた。確かに大抵は予備の武器を持っている。だがネルムがそれを持っていないことをマナは知っていた。何故なら、それはマナの手の中にあるのだから。
マナもまた、愛用の武器を修理中で手放していた。それを見兼ねたネルムが、使えと押し付けてきたのが今マナが手にしている剣だ。
それでこうして城の武器庫へとわざわざ替わりの武器を取りにいかねばならないとは。皮肉なものだとマナは自嘲する。
「別にお前のためじゃない」
元はといえばマナが武器を持たなかったのが、すべてだ。だから、剣が壊れたネルムを守ったのも、そのまま武器庫へと取って返しているのも、すべては自分が撒いた種。ネルムという蛇男は確かに鼻にかかる嫌な奴だが、これは己の責任だ。
そう思わず呟いた言葉は、幸いにもネルムには届いていなかったようだ。
「ん? なんだ、何か言ったか?」
首を傾げて覗き込んでくるのへ、マナは険のある眼差しを返す。
「別に。この馬鹿って言っただけだ」
「てめぇ、かわいくねぇな」
「うるさい。叫ぶぞ」
「この非常時に叫ぶとか、そっちの方が馬鹿だろ」
因みにマナの"絶叫"は窓を破壊するだけの威力がある。
「少しは黙れ」
話すことが得意ではないマナは苛立ちと共に言い放つ。戦いの高揚でつい喋りすぎたらしい。喉に違和感があり、ともすれば本来の声が出てしまいそうだ。
ネルムはそんなマナをちらりと見遣り、肩を竦める仕草をした。走りながら器用なことである。
「短気だな……あ」
笑みを含んだ呟きが、途中で切れる。ネルムはゆるゆると足を緩め、通り過ぎた廊下を振り返る。
「ネルム? どうした?」
「いや……なんか、あっちが気になる」
「あっち?」
首を傾げてネルムの視線の先を仰ぐが、獣の姿に近い魔物が行き来しているだけで、特に異変は見つからない。
「何かあるのか?」
「……いや、何もない、と思うんだけど……」
自信なさげにいいながら、ネルムは引き寄せられるように廊下を戻っていく。
ごったがえす魔物の間を縫って、気になると言ったあたりの部屋に向かう。
「ネルム、まて」
そんなことより武器を取るのが先だろ、とマナは懸命に声を張るが、喧騒に掻き消されていく。
それでもマナの言いたいことは伝わったのだろう、ネルムはマナを振り返り軽く手を振った。
「先行ってくれ。ていうか、むしろ取ってきてくれよ」
よく通る声でなんとも図々しい言葉を寄越すと、ネルムは手近な部屋の扉を開けて中を覗く。
暫くして首を傾げながら扉を閉め、今度は隣の部屋の扉に手をかける。
何をやってるのかと呆れながら、マナはため息と共に踵を返した。
言うとおりにするのは癪だが、ここでぼんやりとネルムの奇行を眺めていても始まらない。これは貸しにしようと心に決めて、マナは武器庫へと急ぐ。
その姿が小さくなったころ、ネルムは三番目の扉に手をかけていた。
かちりと回る取っ手に、不意にネルムは寒気を覚える。
うっすらと浮かんでいた鱗が、一瞬で全身に露わになる。硬化する鱗は、彼の直感が危険を訴えた証だ。
「……誰か、いるのか」
ネルムは扉を開けながら、低く問いかける。
いるとすれば仲間であるはずだ。この城に仕える、同じ魔物。
もしかしたら、人間の侵入者ということもあり得る。
ネルムもまた多くの魔物と同様に、人間を脅威だとは思っていなかった。だがそれは単独での話である。完全武装の相手が複数人いれば、正直なところ無傷でいられる自信はない。
果たして、部屋の中に広がっていたのは漆黒の闇だった。
採光のための小さな窓がひとつあるだけの、物置のような部屋だ。雑多に詰まれた荷物からは不穏な気配はしない。
赤い舌をちろりと出して、ネルムは首を傾げる。
「人の匂いはしないな……気のせいか?」
合点がいかない様子で、ネルムは扉を閉めようとして。
その手首を何かが掴んだ。
「っ!?」
驚き、咄嗟に引っ込めようとするが、思わぬ力で締め上げられ思うようにならない。息をつくまもなくそのまま室内に引きずりこまれる。
開け放した扉の軋む音。その長い影が室内に弧を描き、何者かの手によって静かに閉められる。
窓から伸びる薄い灯りだけが室内を淡く照らす。
背後から伸びた腕に喉を塞がれ、声は音にならなかった。
視界を塞ぎにくる長い指が、暗闇を連れてくる。
それが男のものだと認識したのを最後に、ネルムの意識は闇に呑まれた。
「ネルム、何してるんだ」
マナがネルムを発見したのは、相変わらずの場所だった。
別れる前と殆ど移動していない部屋の前。通りに背を向け、僅かに開いた扉から室内を見つめているようだ。
マナはつかつかと歩み寄る。
行きかう魔物たちは先ほどより幾分減っていた為、難なくネルムの傍らにたどり着く。
「なかなか来ないと思っていたら、まだ何か気になってるのか」
ため息をついて、マナは武器を差し出す。予備の剣とネルムから借りていた剣の二本だ。
鞘同士が触れ合い、耳障りな金属音を立てた。
もう片手には、マナの武器が握られている。いかにも量産品といった形の弓で、マナとしては不本意だが仕方ない。念のため剣もベルトに挿している。
一刻も早く武器を渡してしまおうと伸ばした腕に、けれどもネルムは視線すら寄越さない。
「……ネルム?」
首を傾げて伺うと、ネルムが緩慢な仕草で振り向いた。
「……ああ、マナ」
どことなく疲れているような、気だるげな声にマナは益々首を傾げる。
疲労するような状況はなかったはずだ。むしろそういう意味では、武器庫まで走り、二人分の武器を追加調達してきたマナの方が疲労している。
「怪我でもしたのか」
またつまらない虚勢を張ったのか、と呆れた眼差しを送ると、ネルムは乾いた笑いを零した。
「いや。大丈夫だ。怪我はしてない」
その金色の双眸にマナは違和感を覚える。口元から覗く割れた舌が、やけに赤い。問いかけようとしたマナを遮って、ネルムが言葉を重ねた。
「なんかいるような気がしたけど、気のせいだったみたいだ。何もいなかった」
溜息をついて、僅かに開いていた扉をぴたりと閉める。
「気のせい? そのせいで武器庫まで走らされたんだけど」
「仕方ないだろ、オレはお前と違って敏感なんだよ」
肩を竦めるネルムには悪びれる素振りはない。すっかりいつもどおりのその姿に、マナは抱いたばかりの違和感を頭の隅へと追いやった。
「とにかく、早いとこ戻るぞ」
ぐ、と剣を押し付けると、受け取ったネルムは感触を確かめるように何度か柄を握る。
「もっといいのなかったのかよ」
あまつさえそんな文句を垂れるネルムに、マナは盛大な舌打ちで返した。
「うるさい。気に入らないなら自分で取って来い」
「いや、それは面倒だからいい」
ネルムは予備の剣をベルトに挿しながら、歩き出す。
その後を追いながら、マナは先ほど感じた不自然さをやはり気のせいだと片付ける。
「ああ、そうだ。悪かったなマナ。助かった」
ふと振り向いたネルムが、思い出したように礼を述べた。
珍しいこともあるものだ。
そう内心呟いて、マナはネルムを睨む。
「無駄口たたいてる暇があったら走れ」
言い捨てて駆け出す。
「なんだよ、可愛げねぇな」
背中にネルムの呆れたような声が飛んでくるが、振り返らない。随分と時間を食ってしまっている。早く戻らねばならないのだ、悠長に歩く暇はない。
だから彼女は知らない。
マナを見つめるネルムの瞳。金色のはずのそれが、漆黒の闇を湛えて不穏に笑んでいたことを。
スノウが窓の外に怪しげな影を見つけ戸惑っていた頃。
城の外では事態は更に進行していた。
森の中は常と変わらない静寂に包まれていたが、その木々の影に見慣れない姿がある。
体勢を低くし息を潜めているのは、鎧に身を包んだ兵士だ。
一人二人ではない。よく見れば、森のあちこちに潜む気配がある。
カディスに駐留していた、王国軍である。
ガレオス率いる『白翼部隊』は昨夜のうちに、王国軍は未明にこの地へと到着した。
ガレオスを指揮官に据えた本隊は現在、『正門』があるという城の西側に陣取っている。
生い茂る下草と岩陰で息を潜めて彼らが見守る先には、漆黒の重厚な門。
一枚岩を大きくくり抜いた観音開きの門には、鋭い突起物がついた鎖が幾重にも巻かれていた。篝火ひとつないそこを二頭の『門番』が寝そべる形で守っている。
額に巨大な角をもつ、狼を思わせる魔物だ。夜行性で滅多に人前に現れることはないが、時折軍隊が駆り出されることもある厄介な魔物である。
朝靄が周囲に漂い始め、僅かに軍隊が動いた。
門の最も近くにいる兵士達より後方、木々を盾にするように身を潜めているのは、弓部隊である。彼らが護るような形で背後に控える十数人の魔法使いが、静かに詠唱を始めた。時を同じくして剣と盾で武装した歩兵が少しずつ門に近づいていく。弓部隊は矢を番え、射撃の体制に入った。
無風だった森の中に、どこかからか一陣の風が舞い込む。
魔法使いの詠唱と共に、風はあちこちから舞い込んでくる。どこか不自然とも思えるそれに、兵士の誰一人として気に留める様子はない。
靄が風によってかき乱され、視界が濁る。
『門番』が落ちつかなげに首を巡らせた。吹き付ける風と濁る視界に、何かを感じ取ったのだろう。
夜行性である彼らは、夜と朝の境目にあたるこの時分が最も感覚が鈍る。それを理解しているからこそ、彼らは必要以上に周囲を警戒し始めていた。
だが、朝靄が邪魔をして『門番』の視界に不審なものは映らない。
低く警戒の唸り声を漏らしながら、のそりと体を起こす。
最初の朝日が森の中に差し込んだ。靄に乱反射し、森の中が漂白される。
そこに、風を切る音ともに矢が打ち込まれた。
立て続けに射掛けられた矢は、過たず二頭の『門番』の急所をことごとく射抜く。逆光にもかかわらずその腕は正確だ。
一頭が鳴き声一つ上げずに崩れ落ちた。
もう一頭は額や目から矢を生やしながらも、その場に留まっていた。ふらつく足元で門へと近づく。
そして、鋭い叫びを上げて重厚な門に激しく体を打ちつけた。
間をおかずして、門が勢いよく開く。
血まみれで絶命した『門番』の体を押しのけて現れるのは、魔物の大群だ。
野生の獣に良く似た姿のものから、人間たちにとっては初めて目にするような魔物までが、開け放たれた城門から溢れだす。
そのどれもが既に戦闘態勢なのは、初めて対峙する人間たちの目にも明らかだった。
だが、構えた兵士達の顔に動揺は見られない。
詠唱が一際大きくなり、弓が大きく引き絞られる。
「突撃!」
兵士たちが一斉に門に押し寄せる。
戦いの幕が上がった。
いよいよ人間との戦が始まり、城内は騒がしい。
ある程度の規律は保たれているものの、魔物たちがそれぞれの手段で命令に伝達にと走り回るので城内はちょっとした混沌と化していた。
マナのように廊下を走る者が大半だが、天井を這う者や飛行するもの、果ては壁を伝うものもいる。
マナ自身、飛行が可能であることは背中の羽が示している。蝙蝠の系統に連なるため、他に比べて衝突せずに飛べる自信はある。ただ、人型を維持した上でとなると少々勝手が違う。
当然ながら、本来の姿の方が飛行は楽なのだ。だが人型を解くことはできない。そのため仕方なく足を使っての移動となっていた。
多くの魔物の行方は決まっている。
城の正面、正門だ。
人間の軍隊は正面から攻めてきていた。
ずいぶん律儀なものだとマナは思ったが、仲間に「非力な人間では城壁を上ることはできない」と言われて納得した記憶がある。
そのため必然的に戦力は最下層に集められることとなり、集合の命令は幾度となく耳にしていた。
だが、マナはその流れに逆らう形で進んでいる。
おかげで先ほどから幾度となく衝突しそうになっているが、引き返すわけにもいかない。
「なあ、武器庫って何処だ?」
走りながら問いかけてきた隣を走る男に、マナは苛立ちと共に声を投げつけた。
「この奥!」
睨み上げながら言ってやると、相手はやれやれと言いたげな視線を寄越して溜息をつく。
緑色の髪に金色の目。口元からは長い牙と長い舌が時折のぞく。
外見は色こそ違えど人に近く、彼もまたマナと同じ魔族であることを表していた。その本質が蛇であることは、露出した肌にうっすらと浮かぶ緑色の鱗が証拠だ。
「そうカリカリすんなって。お前いっつもキレてるよな」
そうまるで他人事のように言う男――ネルム。
誰のせいだと思ってるのか、と喉元まででかかった言葉をマナは呑みこんだ。
彼らが今走っているのは、最下層から二つ階段を上ったところだ。このあたりはマナが普段過ごす階より随分と下層であり、どちらかというと人型をしていない魔物が大半だ。
マナを含め、魔族といわれる魔物は比較的人型に近い姿をしている。そして、今その魔族のほとんどは表で戦闘の真っ最中であった。
現在廊下を行き来しているのは、彼らの命令を受けた魔獣や魔人たちだ。
「なあ、お前は別にいいんだぜ? オレの武器だしさ、お前戻っても」
珍しく殊勝なことを言い出したネルムを、マナはぎろりと睨む。
「武器庫の場所を聞くような馬鹿に任せていたら、戦いが終わってしまうだろ」
「誰が馬鹿だよ、武器庫くらいみりゃ分かるっつーの」
鼻で笑って言うが、マナはそれが単なる強がりだと疑っていない。どうしようもなく、この男はプライドだけは高いのだ。
だから交戦中に剣が折れてもなお、余裕のあるフリをしていた。確かに大抵は予備の武器を持っている。だがネルムがそれを持っていないことをマナは知っていた。何故なら、それはマナの手の中にあるのだから。
マナもまた、愛用の武器を修理中で手放していた。それを見兼ねたネルムが、使えと押し付けてきたのが今マナが手にしている剣だ。
それでこうして城の武器庫へとわざわざ替わりの武器を取りにいかねばならないとは。皮肉なものだとマナは自嘲する。
「別にお前のためじゃない」
元はといえばマナが武器を持たなかったのが、すべてだ。だから、剣が壊れたネルムを守ったのも、そのまま武器庫へと取って返しているのも、すべては自分が撒いた種。ネルムという蛇男は確かに鼻にかかる嫌な奴だが、これは己の責任だ。
そう思わず呟いた言葉は、幸いにもネルムには届いていなかったようだ。
「ん? なんだ、何か言ったか?」
首を傾げて覗き込んでくるのへ、マナは険のある眼差しを返す。
「別に。この馬鹿って言っただけだ」
「てめぇ、かわいくねぇな」
「うるさい。叫ぶぞ」
「この非常時に叫ぶとか、そっちの方が馬鹿だろ」
因みにマナの"絶叫"は窓を破壊するだけの威力がある。
「少しは黙れ」
話すことが得意ではないマナは苛立ちと共に言い放つ。戦いの高揚でつい喋りすぎたらしい。喉に違和感があり、ともすれば本来の声が出てしまいそうだ。
ネルムはそんなマナをちらりと見遣り、肩を竦める仕草をした。走りながら器用なことである。
「短気だな……あ」
笑みを含んだ呟きが、途中で切れる。ネルムはゆるゆると足を緩め、通り過ぎた廊下を振り返る。
「ネルム? どうした?」
「いや……なんか、あっちが気になる」
「あっち?」
首を傾げてネルムの視線の先を仰ぐが、獣の姿に近い魔物が行き来しているだけで、特に異変は見つからない。
「何かあるのか?」
「……いや、何もない、と思うんだけど……」
自信なさげにいいながら、ネルムは引き寄せられるように廊下を戻っていく。
ごったがえす魔物の間を縫って、気になると言ったあたりの部屋に向かう。
「ネルム、まて」
そんなことより武器を取るのが先だろ、とマナは懸命に声を張るが、喧騒に掻き消されていく。
それでもマナの言いたいことは伝わったのだろう、ネルムはマナを振り返り軽く手を振った。
「先行ってくれ。ていうか、むしろ取ってきてくれよ」
よく通る声でなんとも図々しい言葉を寄越すと、ネルムは手近な部屋の扉を開けて中を覗く。
暫くして首を傾げながら扉を閉め、今度は隣の部屋の扉に手をかける。
何をやってるのかと呆れながら、マナはため息と共に踵を返した。
言うとおりにするのは癪だが、ここでぼんやりとネルムの奇行を眺めていても始まらない。これは貸しにしようと心に決めて、マナは武器庫へと急ぐ。
その姿が小さくなったころ、ネルムは三番目の扉に手をかけていた。
かちりと回る取っ手に、不意にネルムは寒気を覚える。
うっすらと浮かんでいた鱗が、一瞬で全身に露わになる。硬化する鱗は、彼の直感が危険を訴えた証だ。
「……誰か、いるのか」
ネルムは扉を開けながら、低く問いかける。
いるとすれば仲間であるはずだ。この城に仕える、同じ魔物。
もしかしたら、人間の侵入者ということもあり得る。
ネルムもまた多くの魔物と同様に、人間を脅威だとは思っていなかった。だがそれは単独での話である。完全武装の相手が複数人いれば、正直なところ無傷でいられる自信はない。
果たして、部屋の中に広がっていたのは漆黒の闇だった。
採光のための小さな窓がひとつあるだけの、物置のような部屋だ。雑多に詰まれた荷物からは不穏な気配はしない。
赤い舌をちろりと出して、ネルムは首を傾げる。
「人の匂いはしないな……気のせいか?」
合点がいかない様子で、ネルムは扉を閉めようとして。
その手首を何かが掴んだ。
「っ!?」
驚き、咄嗟に引っ込めようとするが、思わぬ力で締め上げられ思うようにならない。息をつくまもなくそのまま室内に引きずりこまれる。
開け放した扉の軋む音。その長い影が室内に弧を描き、何者かの手によって静かに閉められる。
窓から伸びる薄い灯りだけが室内を淡く照らす。
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視界を塞ぎにくる長い指が、暗闇を連れてくる。
それが男のものだと認識したのを最後に、ネルムの意識は闇に呑まれた。
「ネルム、何してるんだ」
マナがネルムを発見したのは、相変わらずの場所だった。
別れる前と殆ど移動していない部屋の前。通りに背を向け、僅かに開いた扉から室内を見つめているようだ。
マナはつかつかと歩み寄る。
行きかう魔物たちは先ほどより幾分減っていた為、難なくネルムの傍らにたどり着く。
「なかなか来ないと思っていたら、まだ何か気になってるのか」
ため息をついて、マナは武器を差し出す。予備の剣とネルムから借りていた剣の二本だ。
鞘同士が触れ合い、耳障りな金属音を立てた。
もう片手には、マナの武器が握られている。いかにも量産品といった形の弓で、マナとしては不本意だが仕方ない。念のため剣もベルトに挿している。
一刻も早く武器を渡してしまおうと伸ばした腕に、けれどもネルムは視線すら寄越さない。
「……ネルム?」
首を傾げて伺うと、ネルムが緩慢な仕草で振り向いた。
「……ああ、マナ」
どことなく疲れているような、気だるげな声にマナは益々首を傾げる。
疲労するような状況はなかったはずだ。むしろそういう意味では、武器庫まで走り、二人分の武器を追加調達してきたマナの方が疲労している。
「怪我でもしたのか」
またつまらない虚勢を張ったのか、と呆れた眼差しを送ると、ネルムは乾いた笑いを零した。
「いや。大丈夫だ。怪我はしてない」
その金色の双眸にマナは違和感を覚える。口元から覗く割れた舌が、やけに赤い。問いかけようとしたマナを遮って、ネルムが言葉を重ねた。
「なんかいるような気がしたけど、気のせいだったみたいだ。何もいなかった」
溜息をついて、僅かに開いていた扉をぴたりと閉める。
「気のせい? そのせいで武器庫まで走らされたんだけど」
「仕方ないだろ、オレはお前と違って敏感なんだよ」
肩を竦めるネルムには悪びれる素振りはない。すっかりいつもどおりのその姿に、マナは抱いたばかりの違和感を頭の隅へと追いやった。
「とにかく、早いとこ戻るぞ」
ぐ、と剣を押し付けると、受け取ったネルムは感触を確かめるように何度か柄を握る。
「もっといいのなかったのかよ」
あまつさえそんな文句を垂れるネルムに、マナは盛大な舌打ちで返した。
「うるさい。気に入らないなら自分で取って来い」
「いや、それは面倒だからいい」
ネルムは予備の剣をベルトに挿しながら、歩き出す。
その後を追いながら、マナは先ほど感じた不自然さをやはり気のせいだと片付ける。
「ああ、そうだ。悪かったなマナ。助かった」
ふと振り向いたネルムが、思い出したように礼を述べた。
珍しいこともあるものだ。
そう内心呟いて、マナはネルムを睨む。
「無駄口たたいてる暇があったら走れ」
言い捨てて駆け出す。
「なんだよ、可愛げねぇな」
背中にネルムの呆れたような声が飛んでくるが、振り返らない。随分と時間を食ってしまっている。早く戻らねばならないのだ、悠長に歩く暇はない。
だから彼女は知らない。
マナを見つめるネルムの瞳。金色のはずのそれが、漆黒の闇を湛えて不穏に笑んでいたことを。
スノウが窓の外に怪しげな影を見つけ戸惑っていた頃。
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額に巨大な角をもつ、狼を思わせる魔物だ。夜行性で滅多に人前に現れることはないが、時折軍隊が駆り出されることもある厄介な魔物である。
朝靄が周囲に漂い始め、僅かに軍隊が動いた。
門の最も近くにいる兵士達より後方、木々を盾にするように身を潜めているのは、弓部隊である。彼らが護るような形で背後に控える十数人の魔法使いが、静かに詠唱を始めた。時を同じくして剣と盾で武装した歩兵が少しずつ門に近づいていく。弓部隊は矢を番え、射撃の体制に入った。
無風だった森の中に、どこかからか一陣の風が舞い込む。
魔法使いの詠唱と共に、風はあちこちから舞い込んでくる。どこか不自然とも思えるそれに、兵士の誰一人として気に留める様子はない。
靄が風によってかき乱され、視界が濁る。
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夜行性である彼らは、夜と朝の境目にあたるこの時分が最も感覚が鈍る。それを理解しているからこそ、彼らは必要以上に周囲を警戒し始めていた。
だが、朝靄が邪魔をして『門番』の視界に不審なものは映らない。
低く警戒の唸り声を漏らしながら、のそりと体を起こす。
最初の朝日が森の中に差し込んだ。靄に乱反射し、森の中が漂白される。
そこに、風を切る音ともに矢が打ち込まれた。
立て続けに射掛けられた矢は、過たず二頭の『門番』の急所をことごとく射抜く。逆光にもかかわらずその腕は正確だ。
一頭が鳴き声一つ上げずに崩れ落ちた。
もう一頭は額や目から矢を生やしながらも、その場に留まっていた。ふらつく足元で門へと近づく。
そして、鋭い叫びを上げて重厚な門に激しく体を打ちつけた。
間をおかずして、門が勢いよく開く。
血まみれで絶命した『門番』の体を押しのけて現れるのは、魔物の大群だ。
野生の獣に良く似た姿のものから、人間たちにとっては初めて目にするような魔物までが、開け放たれた城門から溢れだす。
そのどれもが既に戦闘態勢なのは、初めて対峙する人間たちの目にも明らかだった。
だが、構えた兵士達の顔に動揺は見られない。
詠唱が一際大きくなり、弓が大きく引き絞られる。
「突撃!」
兵士たちが一斉に門に押し寄せる。
戦いの幕が上がった。
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