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27.奇襲

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 一体どういうことだ、と彼は唇を舐める。
 ひび割れたそこは舌の感触にぴりりとした痛みを返してきた。
 だが、それすらも今の彼には些細なことだ。その痛みを把握するよりも先に、彼の感覚は周囲に潜む気配を探している。
 彼の周囲にはうっそりと茂る低木と、丈の長い草。乱立する木々が、濃い影となって夜の中にそびえている。
 茂みの中に身を隠しつつ、枝葉の影から前方の空間を見つめた。そこに動く気配はない。
 ただ彼の直感とも呼ぶべきものだけが、聞こえないはずの獣の息遣いを聞いている。

「……見えるか」

 声を潜めて問いかけると、左側から「いいえ」と低い答えがある。
 茂みの間から更に暗い闇の中を伺いながら、再び今度は右側へ声をかける。

「いるか」

 短いその問いに、右からは僅かに間をおいて「います」という言葉が返ってくる。
 何を、とは聞くまでもなかった。
 彼は背後にそっと合図をして、後ろの部下たちを下がらせる。低く伏せるように指示を出し、囁くように言う。

「近くの街まで跳べるか? 全員を」
「……全員は難しいかと。少尉お一人ならば可能ですが」

 首を振りながら答える相手は、顔の大半を深いフードで隠している。
 当初こそ、この出で立ちを胡乱に思っていた彼だったが、今ではこれがあくまでも礼装なのだと知っている。そのフードの奥で困ったような表情をしているだろうことも。

「ならこのまま隠し続けることは?」
「夜明けまでならば。ただ、の状態である必要があります」

 つまりは、こうして茂みや木々の陰に身を伏せて息を殺している状態ならば、ということだ。
 夜明けまではまだ数時間ある。それまでこの姿勢を維持するのは結構な労だ。
 彼はつかの間視線を彷徨わせ、忙しく思考する。
 だが、脱出する方法の大半が潰えた今、他に選択肢はないように思えた。
 彼は大きく頷き、背後の部下にいくつか指示を伝える。
 右隣では、フードの下から低い詠唱が始まる。それに答えるように、その後ろからもぽつりぽつりと詠唱の声が聞こえてくる。
 彼はそっと息を吐いて、夜空を見上げた。
 鬱蒼と茂る枝葉に遮られ、星は見えない。隙間から覗くのは漆黒の闇。
 そもそも星は出ていただろうか、と考えて彼は瞑目する。
 夜明けにはまだ時間がある。その頃までに、何とかこの窮地を脱する方法を考えねばならない。森の中を見咎められず、街へと逃げのびる方法を。
 そうでなければ、見つかるのが先か相手が諦めるのが先か。
 お手上げだ、とは胸のうちだけで呟いて、彼はひたすら空を仰ぎ続けた。
 移りゆく空の色を、恐々として見つめながら。




 遡ること数時間前。
 銀の森プラータ・セルバでは、王都から派遣された精鋭集団『黒鷺部隊』が野営をしていた。
 魔物の「城」と目されているカディス近くの岩山である。
 大地を割ってそびえ立つ巨大な岩山は、鬱蒼とした銀の森に濃いシルエットとなって浮かび上がっていた。昼間は漆黒の鳥が群がり甲高い鳴き声を上げているが、夜ともなればさすがに静寂に包まれている。
 それがただの岩山でないことは、当初から多くの人間が理解していた。
 鬱蒼とした森から突き出す岩山は、不自然極まりないものだ。周辺に広がるのは平坦な森であり、似たような岩山は存在しない。加えて、そのいただきに群がる漆黒の鳥の姿は、はっきりとここに何かがあると伝えていた。
 事実、魔物の被害は岩山の方角に多く、森での目撃情報も多かった。だが同時に、人々が手に負えないほどの強力な魔物や、数が押し寄せてきたことは殆どなかった。
 だからこそ、その岩山は長く放置されていたのだ。
 ――これまでは。

「……しかし、いつ見ても不気味ですね」

 夜空を仰いで、その「城」を見上げていた男が言った。
 その声に彼、ジェイク・ザラクは手元から視線を上げる。ザラクの前で空を仰いでいるのは彼の側近だ。その姿は鎧も兜も身につけていない、簡単な服装をしている。

「トマス、鎧はどうした?」

 幾ら戦場ではないとはいえ、ここは魔物の城を間近に臨む場所。いつ何時、魔物がこちらの存在に気づいて襲ってくるとも知れないのだ。
 そう咎めるように問いかけると、トマスはしまったという顔をして頬を掻いた。

「ここに……すみません、すぐに付けます」

 足元に置かれた鎧を示して、トマスは謝罪する。それに鷹揚に頷きはしたものの、その実ザラク自身もその重要性についてはやや怪しく感じていた。
 勿論、現状と現実はよく分かっている。ザラクはその年齢の割に実戦経験は豊富だ。ましてここ数年は部隊の長を務めるまでになっていた。多くの命を預かる身として、慢心も怠惰も許されない。それは誰よりもよく理解していたが。

「今夜も静かですね。……大佐は何か仰っておいででしたか」

 足元に置いた鎧を手に取り、トマスはそう尋ねて寄越す。
 それに「特には」と答えて、ザラクは視線を落とした。
 つい先ほどまで、別働隊として銀の森を進むガレオスからの連絡を受け取っていた。
 魔法使いの補助による通信のため、文書などよりもずっと密に連絡が取れる。派遣されてから頻繁にしてきやりとりだったが、目立った動きがないのが現実だ。常に出される命令は「待機」である。
 ここに野営を展開して、そろそろ一月になろうとしている。
 目前の「城」が、岩山を装った魔物の巣窟であるという情報がもたらされたのは、2ヶ月前の話だった。勇者一行が得た情報と王都で入手した情報に齟齬があり、その原因究明と勇者一行の補助として派遣されたのが当初の目的だった。
 ところが、到着してみると時既に遅く。
 勇者は死亡し、その仲間はどうやら入れ違いで王都に帰還したと連絡があった。このまま彼らも帰途につく予定だったが、追って出された命令は「城」の監視であり――現在に至る。
 確かに、いずれ次期勇者が討伐に訪れるならば情報収集は必要だろう。部隊に十数人組み込んだ魔法使いは、王都と連絡を取るには有用だ。一度帰還する手間を思えばある程度の活動はしていてもいいだろう、とザラクは特に異論も唱えず命令に従った。
 ただ。
 長期に渡る任務で難題のひとつは、士気を保つことだ。
 幾ら精鋭部隊として訓練されたこの黒鷺部隊だとしても、やはり人間である以上限度はある。
 目立った進展のない毎日に危機感が麻痺しつつあることは、ザラクにも手に取るようにわかった。しかも厄介なことに、それは部下のみならず自身の中にも起きている自覚があることだった。
 だからこのときも、ザラクはあまり注意を払わなかった。

「あれなんですかね?」

 森の奥を透かし見て、投げられたトマスの問い。
 その声に同じように森を見たザラクだったが、これといって目に留まらない。

「何かあるのか?」

 尋ねると相手はしきりと首を傾げ、「倒木のようなものがある」と言った。
 鬱蒼とした森の中である。倒木があるのは何もおかしいことではない。銀の森だからこそなんでもないことが気になるということもあるだろう。そう思いザラクは軽い口調で言った。

「倒木だろう。あまり神経質になるなよ」

 緊張感を保つのは大事だが、と添える。
 その言葉にトマスは曖昧に頷き、それでも森の奥を気にしている様子だった。
 常ならばザラクもその様子を訝しく思っただろう。だが緊張を大きく欠いている現状、感覚が麻痺している自覚はあっても"今"がそうだと気づける者は多くない。
 ザラクも当然ながらそんな自分に気づかなかった。
 いつしか自分の考えに没頭して、トマスが姿を消したことにもまた、気づかなかった。
 夜陰に紛れて、魔物の群れが襲ってくるまで。


 前方の闇を見つめて、ザラクは嘆息する。
 隣では魔法使いが、気配を隠すための呪文を詠唱しているところだ。
 夜半すぎに忽然と現れた魔物の一団は、恐るべき迅速さと正確さで部隊に襲い掛かった。
 城のある場所とは正反対の位置である、東側。つまりはザラクたち黒鷺部隊の背後からかけられた奇襲は、瞬く間に部隊を混乱に陥れた。
 それは、これまでのような魔物を一方的に駆逐するような戦闘とは一線を画していた。魔物は明らかに統率のとれた動きを見せ、まさしく「軍隊」とも呼べる様相であった。
 勝手の違う様子に加え、魔物を相手にする恐怖。更に奇襲という予想外の展開に、部隊は浮き足立った。
 危機感が薄れていたこともあっただろう。逃げ惑い、ザラクの指示をしっかり拾えたものがどれだけいたか。それでもどうやら半数が生き残れたのは、さすがに精鋭として鍛えられていた賜物かもしれない。
 かねての手はずどおり、いくつかの集団にわかれ、森の中に隠れることになった。
 常ならば互いの様子はそう気にかからない。部隊の性質上、予想外の事態に遭遇することは稀ではなく、その為の訓練もしている。それぞれが信頼に足る部下だからこそ、ザラクは過剰な心配をすることはなかった。
 だが今回は勝手が違う。
 身を潜めるのは、魔物の森と人々が恐れる銀の森。そして、追っ手は夜の闇に慣れた魔物だ。
 離ればなれとなった他の部下たちの様子が気がかりだった。どのあたりに潜伏しているのかはわからないが、それらしい騒ぎが起きていないことだけが救いだ。

「少尉、その……」

 無意識に唇を噛みながらザラクが黙考していると、横合いから控えめな声がかけられた。
 視線だけで振り返った先、どことなく悄然しょうぜんとした様子のトマスの姿が飛び込んできた。

「どうした」

 事務的に問うと、トマスは暗がりでもわかるほどはっきりと目を泳がせる。

「その……あれはもしかしたら、私の」
「もういい」

 言いかけたその声をザラクはぴしゃりと遮る。体を強張らせた側近を見遣り、言を継ぐ。

「それは後だ。良い案がなければ口を噤んでいろ」

 いくら気配をうまく隠したところで、話し声に気づかれては元も子もない。そんな実際的な意味合いもあったが、それ以上にその背後に控えるほかの部下たちの耳を配慮してのことだった。
 トマスは言ったのだ。
 何かの死骸があったと。
 森の中に倒木のようなものを見つけたトマスは、ザラクの注意が逸れたあの後、様子を見に行ったらしい。そこにあったのは倒木などではなく、何かの朽ちた死骸だった。折り重なるように横たわった死骸の上にはむしろのような覆いがかけられており、正体が気になったトマスはその覆いを取り払ったのだという。
 そのとき、何か得体の知れないものを感じた、とトマスは言った。目の錯覚だと思う、と前置きをして彼は語った。
 覆いを取り払った一瞬、死骸の上に青い文字らしきものが浮かび上がったのだと。ほんの瞬きひとつの間だったから判読できなかったが、それでも彼の目には見知らぬ言語に見えたらしい。そして再び瞼を開けたときには、ただの朽ちた死骸だけがあったのだと。
 その話を聞いたのは、攻撃を受ける少し前だった。
 あまりにも青い顔をしているのが気になり、問い詰めた末のことだ。
 トマスも大したことではない、という口ぶりの割りに動揺を隠し切れない様子で、それにザラクもまた胸騒ぎを覚えたのを覚えている。
 攻撃を受けたとき、それが脳裏を掠めなかったといえば嘘になる。よくはわからないが、それが引き金になったのだとザラクの勘は訴えていた。
 しかしザラクにはトマスを責める気は毛頭なかった。
 彼に全く責がないとは思わない。だが、恐らくそれが自分であっても、同じ行動をとった可能性は否定できないのだ。それが一体何を招くかなど、素人にはわかりようもない。
 だからこそ、ザラクはトマスの言葉を遮った。
 不用意に周囲に聞かせ、不安を煽る必要はない。そうでなくとも魔物の襲撃という動かしようのない現実がある。その不安や不満、恐怖が仲間内に伝播する事は最も避けたい事態だ。
 視線の先では、変わらない夜の闇が漂っている。
 そこに魔物の気配は感じられないが、油断するわけにはいかない。どうやらただびとであるザラクたちにはわからないが、魔法使いには何かが見えているらしい。
 ふと、隣から詠唱がぴたりとやんだ。

「……少尉、魔物が」

 その言葉に心臓がはねる。気づかれたか、と我知らず戦慄する。

「いいえ、それは大丈夫です……私にはよくわからないのですが、魔物が撤退しているように見えます」
「何?」
「野営の辺りを探していたようです。……諦めたのかもしれませんが」
「どんな様子だ」
「指示があったようです。魔物が一斉に引き上げていきます」

 ザラクは首を捻る。
 この様子だと他の集団も特に見つかっていないようだ。それは喜ばしいが、となると相手の考えがわからない。
 森の中に逃げ込んでいるのは誰の目にも明らかだ。こうして夜襲をかけてくるところを見ると、ただの一人も逃したくないはずである。
 罠を警戒しているのだろうか。
 ここにいる魔物がどうやら烏合の衆ではないことは、先ほどの攻撃で実証済みだ。きちんとした「頭」がいるのならば、その位の警戒はしているかもしれない。
 事実、森の中に幾つか罠を仕掛けてはいる。
 何かあればそこにおびき寄せることも当初は計画にあった。だが仕掛けた場所はここからは離れている。罠にかけようにも、そこまで無事にたどり着ける可能性は低い。
 魔物が引き上げつつある今ならば可能かもしれないが。

「ともかく、もうしばらく様子をみよう」

 魔法使いに囁いて、ザラクはひび割れた唇を乱暴にこすった。ひび割れた唇から血が滲む。
 考えなければならないことは多い。
 何を優先すべきなのか、ザラクはよく理解していた。魔物を倒すことは重要ではあるが、最優先ではない。彼らは兵士であり、勇者ではないのだ。
 生きて帰らねばならない。
 ザラクは、祈るように再び瞑目した。

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