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11-2.兄と弟

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「心配はいらない。私が責任を持って訓練をさせるさ。士気が下がることが心配なら、お前の臣下たちには上手く言っておいてやろう。大丈夫だ、私にすべて任せるといい」

 エルの言葉にヴァスーラは笑う。
 エルを抜きにして行われる兵士の訓練。
 それは兵力をそのままヴァスーラに握られるということになる。
 力がすべてだという魔物にあって、それは事実上の乗っ取りにならないだろうか。
 スノウははらはらと気を揉む。
 ヴァスーラの能力が如何ほどのものかスノウには分からない。だが、彼を城の内部に関わらせたが最期、城の全権を奪われるような気がした。
 いつものエルならば少しも心配などしないのだが、今日のエルはどこか様子がおかしい。
 このままヴァスーラに丸め込まれてしまうのではないかと、気が気でない。
 大丈夫だろうかと案じて、その思考に憮然とする。
 魔物エルの心配をするなんて。
 ――否、囚われの身として「飼い主」が変わるのは困るのだ。
 比べるのもおかしいが、エルとヴァスーラで考えた時に、まだエルの方がマシに思えた。話が通じる相手という意味で。
 だから、自分は心配しているのだ。エルのためでなく自分のために。
 そう己を必死に納得させているスノウの視線の先で、息詰まるやりとりは続いていた。

「私は、戦う必要がなくなる……?」
「ああ、私が変わりに出てやろう」
「研究を、続けて良いのですか」
「好きなだけするといい。成果を楽しみにしているよ」

 二人の横で、アイシャは不機嫌な表情を隠さずにいた。
 エルの前だからこそ抑えているが、そうでなければヴァスーラに食って掛かりそうな凶暴な空気を纏っている。
 そこで、ふっとエルが笑った。

「――いいえ、お気持ちは有難いのですが、遠慮しておきましょう」

 頼りない風情はそのままに、言葉だけはすらすらとエルが言った。

「この城の主は私です。部下も兵も、誰かに任せるつもりはありません」

 はっきりと示された拒否に、アイシャが安堵の色を浮かべる。
 対し、ヴァスーラの背後で従者が目に見えて表情を変えた。思わず前に出よう、とするのをヴァスーラ自身が手で制する。

「そうか。……いつまでも子供ではないということだな」

 ヴァスーラはまるで予想していたかのように穏やかな笑みを崩さず、嬉しそうに言う。
 ふとスノウは気付く。先ほどまで同じようにヴァスーラの背後で控えていた、ヘネスの姿が見当たらない。いつの間にどこへ行ったのだろうか。妙だとスノウは首を傾げる。

「寂しいが仕方ない。お節介はやめておくとしよう」

 軽い口調で言って、ヴァスーラは肩を竦める仕草をする。
 なんだかよくわからないが「勝った」とスノウが思った矢先、
 ぐい、と体が浮いた。

「これはこれは」

 低めの声音。
 聞き覚えのないそれは、エルのものでも、アイシャたちのものでもありえない。
 見上げると硬質な表情の男と目が合う。モノトーンの衣服、栗色の髪の男――ヘネスだ。
 しまった。
 そう思ったが、時既に遅し。

「こんな所に侵入者です」

 首根っこをそのまま掴まれ、スノウは難なく紫のベールから引っ張り出された。
 はっと振り向いたエルが焦りの色を浮かべる。
 スイとアイシャも表情を強ばらせたのが視界に入る。しかも、スイに至っては射殺しそうな視線を投げてきた。色々な意味でスノウの胃がきゅう、と痛む。

「ほう、ネコか」 

 ヴァスーラが目を細めた。幾つもの視線に晒され、スノウは居心地が悪い。

「ネコではありません」

 一瞬浮かんだ焦りを綺麗に隠して、淡々とエルが言う。

「ネコではない? 嘘はもっと上手につくものだよ。どうみても綺麗な白ネコじゃないか」

 珍しい、とヴァスーラはむしろ嬉しそうである。

「見かけをネコに変えてあるだけで、元は別のものです。研究のために必要に迫られ……私がネコなど飼う筈はないでしょう」

 言葉に嫌悪を滲ませてエルが言う。
 その演技力にスノウは状況も忘れて感心する。被害を一身に受けているスノウにしてみれば、その言葉が本音だったらどんなにいいだろう、とちらりと考えてしまう。

「それもそうだな。しかし上手く魔法をかけたものだ。ネコにしか見えん。一体何にかけた?」

 問われて、エルは淀みなく答える。

「水妖の一種です」

 ヴァスーラは別段疑う様子もなく、ふむ、と頷くとぶら下げられたスノウをじろじろと眺め回した。

「随分弱い水妖を捕らえたのだな。お前の魔力しか感じないとは…魔力らしい魔力もないようではないか」

 魔力らしい魔力もない、とヴァスーラにまで言明されて、スノウは少し切なくなる。

「おそれながら、エル様の魔力が上回るのが当然かと」

 無表情のままスイが口を挟む。

「無礼な口を。身分をわきまえろ」

 ヴァスーラの背後から従者が鋭く言った。
 その言葉に反応したのは、当のスイではなく彼の隣のアイシャだった。傍目にもはっきり分かるほどの敵意でもって、相手をきつく睨む。だが、それ以上行動を起こすようなことはなかった。
 一方、言われたスイの方は相変わらずの無表情で、慌てる素振りもなく軽く頭を下げる。

「失礼致しました」

 ヴァスーラは頭を下げたスイを一瞥し、次に未だ剣呑な視線を向けているアイシャに視線を移す。

「…ふ、機嫌を損ねてしまったようだな」

 口元に笑みを履いて、言う。

「これ以上彼らの機嫌を損ねては、可愛い弟君に嫌われてしまうな。大人しく別室で待たせてもらおうか。ヘネス」
「はい」

 呼びかけに、スノウをぶら下げたままのヘネスが応じる。

「解放してやれ。ああ、折角だから水の中にでも」

 水妖ならば喜ぶだろう、と楽しげなヴァスーラの声。
 その言葉に、エルもアイシャも、スイですら固まった。

「わかりました」

 その間にヘネスは淡々と応じて、
 ぽん、とスノウを放った。
 落下先には並々と水を湛えた水盤。煌めく、水鏡。
 濡れる――。
 脳裏に閃いたのは濡れそぼった自分とそんな考えで、別段恐怖など感じなかった。
 泳いだ「記憶」はなかったが、溺れはしないという確信めいた思いがあったのだ。
 覗き見た水盤はさほど大きくも見えなかった。
 だからただ濡れるだけだと、とんでもない発言をする奴だと、むしろヴァスーラに対する苛立ちだけがあったのだが。
 一瞬後に全身を包んだ水は、思いのほか強い圧力でもってスノウを捕らえた。
 体を押す不可視の圧力。
 肺腑から空気が押し出されていく。
 思わず見開いた視界には、青い色彩。
 漏れた空気が白い泡となって上昇する。

 あれ、もしかして深い?

 混乱する頭でふと思った。
 投げ込まれた勢いのせいにするには、あまりにも体が沈んでいる。
 青い色彩が深くなって、視界の端に漆黒の――深海のような闇が垣間見えた。
 もがいても四肢はうまく動かない。
 全身を強い力で押し込まれているような、感覚。
 転移の魔法陣が敷かれているようなところだ。水盤の中がどこぞの空間に繋がっていても、不思議ではない。
 急に呼吸が苦しくなった。
 肺腑にはまだ空気がある。分かっているのに、胸が押しつぶされそうになる。
 無人の深い水底に投げ込まれたと、そう感じた瞬間に。
 苦しい。
 怖い。
 冷静になれと囁く理性が、急速に擦り切れていくのを感じる。
 怖い。
 怖い。
 死ぬのは、嫌。
 ぱちん、と弾ける音がした。

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