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8-2.魔物の事情

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「さぁて、誰もいないな」

 アイシャは一歩踏み出して辺りを見回す。
 そこは暗闇などではなく、ごく普通の廊下があるだけだ。
 全く同じ、と思いかけてスノウは首をめぐらす。何の変哲も見受けられなかったが、どこか違和感がある。

「あれ、ここ違う?」
「そりゃそうだ。ここは俺たちの階層だからな。……ってことは何か、昨日お前気付いてなかったのか」

 鈍いヤツだな、とアイシャはからから笑う。
 鈍いも何も、スノウにはいまいち仕組みが分かっていない。昨日も同じ体験をした記憶はあるが、出た場所が、なんと言うか違う気がするのだ。

「あの一角は転移の魔法陣が設置されています。望む場所に転移できるようになっていますが、力の弱いものが使うと飛ばされる場所が指定できない、という難点がありますね」

 スイの丁寧な解説に、スノウは納得する。

「ちなみに貴方が昨日転移したのは、ここより更に下の階層、魔族たちの領域です」

 スノウの脳裏に昨日の二人組みが浮かぶ。
 蛇のような男と、皮膜の翼の――恐らくは蝙蝠の類の女。こうして比べてみれば、姿かたちはともかくとしてアイシャやスイとは明らかに何かが「違う」とわかる。
 それは恐らく彼らの強さに起因しているのだろう。
 そうか、あれが魔族というものなのか。
 これまで獣型の、スイ言うところの魔獣しかみたことのなかったスノウにとって興味深いものだった。
 一人納得して頷いていると、アイシャがおやといった顔をする。

「ん? 何、お前わかんの? スイ、こいつに話してやったのか」
「……必要に迫られたもので」

 歯切れ悪くスイが応じる。
 スノウは首を捻る。別に必要に迫られていたような記憶はなかったようなのだが。

「ふーん。お前なんだかんだで可愛がってんじゃん?」

 アイシャは意地の悪い笑みを浮かべる。

「可愛がる? 馬鹿なことを。ネコなど嫌いです。人間も」

 林檎酒色の双眸を鋭く眇めて、スイはアイシャを睨みつける。その声と視線にこめられた殺気にスノウは思わず身を竦ませる。
 だがアイシャの方は慣れたもので、

「オレも嫌いだな。だって人間もネコも煩いし、引っ掻かれても痛くはねぇんだけどよ、なんかイラっとするんだよなあ」

 と、むしろにこにこ笑って答える。
 ネコと人間は同列なのか、とスノウはちょっと悲しくなる。まぁその人間代表である勇者がネコになっている現状で嘆くのも何やらおかしいが。
 しばらく歩いたところで、アイシャはスノウを床に下ろした。

「この辺りなら日暮れまでは大丈夫だろ。あんまうろつくなよ、あちこちに魔法陣が敷かれてるからな」

 釘を刺しながら、アイシャはスノウの頭をぐりぐり撫でる。スイが呆れ顔で眺めているが、アイシャは気にしていないようだ。

「そんなにたくさんあるの、それ」

 アイシャは少し考える素振りを見せて、言う。

「だな。基本的に各部屋に一個はあるだろ。で、廊下に二つ……ああ、この階層だけなんだけどな。下に行けば行くほど増えてくぜ。何せ便利だからなぁ」
「それ間違って飛ばされたりするんでしょ。危なくないの?」
「場所によって制限があるのです。あと魔力によっても。だから下の階層の者がうっかりこの辺りに飛ばされるようなことはありません」

 スノウは「ふうん」と適当な相槌を打つ。何やらよくわからないが、うまく調節されているらしい。
 なるべく魔法陣とやらには近づかないようにしよう、とスノウは肝に銘じる。
 もうあんなことはごめんである。

「お前が魔力強くなればどこでも思うままだぜ」

 キヒヒ、と笑ってアイシャが言う。
 スノウの目がきらりと光った。
 そうだ。あの転移の魔法陣とやらを使えば、魔法石も転移魔法を覚えることも必要ない。
 最悪、エルにこの「ネコ」を解いてもらえなくても、逃亡さえできればいつか解く方法だってみつかるだろう。
 そう、魔力が強くなりさえすれば。
 考えてスノウは落ち込む。そもそも魔力があればこんな所にいないのだから。
 因みに、魔法の才がからきしということと魔力がないこととは直結しない。魔力を持っていても使い方を知らないだけの人間は数多く存在する。ただ、スノウの場合は魔法の才も魔力もなかっただけの話で。

「おー悩んでる、悩んでる」

 スノウの苦悩は相手に筒抜けだったらしい。
 スノウの前で、アイシャはにまにまと笑っている。

「魔法ひとつ使えぬ身で悩むだけ無駄です」

 ずばりとスイが言えば、

「仲間と一緒に転移しそびれたんだってー? 間抜けだなぁ」

 痛いエピソードをアイシャが突いてきた。

「っあ、あれはっちょっとその、ぼんやりしてて」

 図星なだけに反論のしようもなくてごにょごにょと返す。
 言えば言うほど墓穴を掘っている気がしないでもないが、反論しないでいるのも何やら悔しい。

「ぼんやりって、殺気ばりばりのエル様を前に? お前そりゃ勇者として問題アリだろ」
「見ようによっては大物ですね」

 スイの発言は、勿論フォローなどではない。
 その証拠にスノウを見る目は冴え冴えとして、軽蔑すら感じられる。
 彼らからすれば、否、一般的見解からいって戦闘中にぼんやりすることは論外であるらしい。当然である。
 だが別にスノウとてそうしようと思ってそうした訳ではない。スノウにも鈍いなりに危機感はちゃんとある。
 ただあの時はそれすらもうまく作動していなかったように、スノウには思えた。
 真紅の綺麗な紅玉。殺気立って煌いたエルの双眸が、ひどく脳にこびりついている。恐怖に竦んだというより、あの瞬間、スノウの中の何かが反応したのだ。
 つらつら思い返していると、アイシャに小突かれた。

「おい、またぼけっとしやがって。変に呑気だよなぁお前。まったくエル様といい……」
「……エル?」

 アイシャがぽろりとこぼした言葉に、スノウは食いついた。まさに今考えていた人物である。

「あーいや、何でも……」
「エルも呑気ものなの?」
「なわけねぇだろ! このオレ様の主だぞ! ヘタレとは違うんだよ!」
「でもそう言ったよ」
「言ってねぇ! あれだ……ええと、夢見がち!」

 乙女か。
 アイシャのあんまりな発言に、思わず胸中でツッコミを入れる。
 己の主に対して似つかわしくないことこの上ない表現である。
 スノウの脳内でエルは豪快なイメージだったので、アイシャの発言がどうにもかみ合わない。

「つくづく馬鹿ですね。……ええ、まぁ確かに少しおっとりした所がおありでした、以前は」

 スイはばっさりと切り捨てた後、丁寧に補足する。
 自己嫌悪に陥ってか、肩を落として俯いているアイシャを一瞥して、スノウはスイに尋ねる。

「以前は?」

 エルと「おっとり」がやはりしっくりこないが、スイが言うならそうだったのだろう。

「ええ。生来そういう所がおありでしたから。最近は城主としてご立派になられましたが」

 となるとあの豪快なエルは彼の努力の賜物ということか。
 しかしいくら考えても演技には見えない。無理をしている風にも。

「ほんと、一時はどーなることかと思ったよ。鍛錬には見向きもしねぇし、指揮は執りたがらねぇし仕舞いには部屋に籠って妙な研究しやがるし」
「アイシャ、しやがる、とは何ですか」

 スノウの呼び捨てには反応しないスイだが、アイシャの無礼な言葉遣いは気になるようだ。自己嫌悪から復活したアイシャに突っかかる。

「うるせぇ。お前だって嘆いてたじゃねぇか。地下に籠って本ばっか漁ってって」
「それは……自覚をもっていただきたい、と再三申し上げはしましたが」

 どうやら以前のエルは部下にとつてはちょっと困った趣味に走っていたらしい。
 これはもしかしてエルの弱点に繋がるのでは、とスノウは聞き耳を立てる。

「変な研究?」
「ああ、俺らは戦うのが本分だってのにエル様ときたら"戦いたくない"って引き篭もっちまってな。戦争に役立つ研究だって仰ってたけど……まあ口実だろ。おかげで兄弟親戚連中から馬鹿にされるし、仕舞いには三下の連中まで馬鹿にしてくるわで……もう歯痒くて歯痒くて」

 余程鬱屈がたまっていたのだろう。アイシャはずらずらとこれまでの憤懣を並べ立てる。

「エルって兄弟いるの?」
「いるいる。つーか兄弟は多いほうなんじゃねぇの、上級貴族の中でも。なぁ?」
「そうですね。軽く20人はいますからね…まだ出てくるかもしれませんし」
「20人?」

 どこの王族のハーレムだ。思わず目を丸くする。

「殆どがエル様には遠く及ばねぇ雑魚ばっかだけどな。力じゃかなわねぇ癖にいっぱしの口ばっか叩きやがる」

 アイシャの金色の瞳が熱を帯びてぎらつく。

「アイシャ、興奮しすぎです。殺気が出てますよ」

 スイが冷静にたしなめた。

「お前だってむかつくだろ。そのあんぽんたんな奴らが、もうすぐこの城にやってくると思うとさあ!」
「それは勿論ですが…今腹を立ててもどうしようもないでしょう」

 スイはどこまでも冷静である。

「お客なの?」
「客じゃねぇ! あんなの敵襲と一緒だ。まとめて噛み千切って、欠片ひとつ残らず焼き払ったって十分な扱いだ!」
「同感です。エル様のご兄弟はいわば最も身近な敵ですからね。隙あらばこの城を奪いにくる輩ばかりです」

 どうやらエルの家庭環境は随分と殺伐としたものらしい。
 それとも魔物と言うのはえてしてこういう生き物なのだろうか。アイシャも言っていたように「戦いが本分」なのならば。

「じゃあ、もしかしてエルやふたりが忙しいのって」
「おや、気付きましたか。頭の回転はそれほど悪くないのですね、意外です」

 すらすらとスイが毒づく。スイに嫌われているのは自覚しているが、さすがに刺さるものは刺さる。

「今度来るのはかなり煩い奴だからな。万一に備えて準備してんだ」
「あちこち微調整しているのですよ、罠をね」

 優美に含み笑いをして、スイが言った。
 その罠がどんなものか想像もつかないが、きっとスイならばえげつないものに違いない、とスノウは結論付ける。

「ま、気をつけとけよ、お前も。あ、そうか。そうなったらお前また外出禁止だな」
「そうですね。ネコ……それも白ネコを飼ってるなんて知られたら、攻撃の材料を与えてしまいますし」
「え」
「しかたねぇよ。出会い頭に消されたくねぇだろ?」

 先日の記憶が蘇り、スノウはぷるぷると首を振る。

「あの方の気性は激しいですからね。説明なしに実力行使でしょう」
「あいつの万分の一でも激しさがエル様にあればなってよく思ったなぁ」
「そうですか? 確かにエル様には苛烈さが少ないようにも思えますが……あの方を見習っては欲しくありませんね」
「あ、それは同感。見習って欲しくねぇ。あいつ思い込み激しいしねちっこいし」

 随分と嫌われている人物のようだ。しかも彼らがそれなりに一目置いて備えているということは、相当な実力者なのだろう。

「なんか……怖い人なんだ?」

 呟くと二人揃って頷いた。
 気性の激しい、思い込みの強いねちっこい相手。
 厄介な人物なのだろう。アイシャもスイも大変だ……いや、この場合はエルが最も大変に違いない。
 自分のことを完全に棚に上げて、そんなことを考えたスノウに、

「だからお前も気をつけろよ」
「(エル様の不利にならないよう)気をつけてくださいね」

 二人はそれぞれしっかりと釘を刺してきた。

「う、うん」

 おされ気味にスノウは頷く。
 あったことのない「あの方」とやらも怖かったが、それよりも無表情なスイの方がスノウは怖かった。大人しくしていよう、とスノウは肝に銘じる。
 きっと、顔をあわせるようなことはないだろうけれど。その間大人しくしていればいい。

 スノウは思いもしなかった――まさか巻き込まれることになろうとは。

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