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24.不可解な事情
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闇の中を青い光が揺れている。
その輝きは目を灼くようなものではなく、燭台のそれに似てどこか頼りない。
もしかして本当に蝋燭だろうか、とスノウは目を凝らす。
内側から空に向けて揺らめく形状は確かに炎を思わせた。けれどその周囲に燃やすようなものが存在しているようには見えない。ただ、青白い炎のみがゆらゆらと揺れている。
不思議に思いつつも、スノウは手を伸ばした。
常ならば決してしないだろう己の行動をどこか他人事のように捉えながら、光に触れる。
熱は感じられない。むしろどこかひやりとした冷気を感じた。
炎のように見えていても正体はまったく別物らしい。
純粋に綺麗だと思った。
差し出した両手の中にすっぽりと納まった青白い光は、触れてきたスノウに対して何をするでもなく、ただ揺らめいている。
ふと視線を上げると、いつの間にかスノウの周囲を幾つもの青い光が飛び交っていた。
頼りなく物悲しい光が、闇の中をふらつくように飛んでいく。
空を乱舞する青い光。
見上げたスノウの喉から、笑い声が漏れる。
楽しくて仕方なかった。
あの光は不吉なものだとスノウは確信していた。だからこそ、楽しくて仕方がない。
正体を知っている。あれは良くないモノだ。
けれど真実厄介なのはアレではない。厄介なのはアレが連れてくる嵐のほう。
ああ、面白くなりそうだ。
そう胸の中で呟いて。
目が覚めた。
「……っは」
大きく呼吸をして、スノウは周囲を見回した。
視界には天井と夜の闇。浅い呼吸を繰り返しながら、激しく脈打つ心臓の音を聴く。
「夢か……なんだよ、もう……」
溜息をつくと、徐々に落ち着いてきた。
ここのところ不眠に悩まされていたスノウだったが、最近になって悪夢まで加えられるようになってきていた。
以前なら寝付けずとも、一度眠りに落ちればそれなりに熟睡できていた。ところが、やっと寝付けたという頃になって悪夢を見始め、飛び起きてはまた寝付けず……という悪循環に陥っている。これではまともな睡眠など取れていないに等しいだろう。
因みに、ここ最近多忙を極めているらしいエルは、スノウを寝室に拉致することがめっきりなくなった。おかげでスノウは安眠を手に入れられると快哉を叫んでいたのだが、折り悪く不眠と悪夢に悩まされることになってしまっていた。
「勘弁してよ……」
そうでなくとも、立て続けにわが身に降りかかる出来事に神経が参ってしまいそうなのだ。睡眠不足まで加わればさすがに自分を保てる自信がない。
発狂するとは思っていなかったが、「己を見失う」可能性が怖かった。つまりは、以前エルが言ったように「人であったことを忘れネコになってしまう」という可能性が。
再び深く息をついたスノウは、眠りの扉を叩くべく目を閉じる。
その瞼に不意に青い光がちらついた。
思わずぎょっとして目を開ける。
咄嗟に体を起こし、ほぼ無意識に窓を仰いだ。
未だ夜の闇に支配された窓の向こう。そこを幾つもの青い光が走った。
長く尾を引いて闇を裂き、また闇の中に溶けていく。一見流れ星のようでもあったが、決定的に違うのはその軌道だ。
直線的ではなく、ふらふらと頼りなげに夜空を駆けていく。逃げるように戸惑うように、何かを探すように。
「な、なに……」
夢が脳裏に蘇り、夢と現実の区別がつかなくなる。自分はまだ夢の中にいるのだろうか、そう真剣に考えてぎゅっと目を閉じる。
けれど再び目を開けた先に、空を乱舞する青い光を見つけてしまう。これは現実なのだとぼんやりと認識した。
青い光の飛行はほんの僅かな間だけで終わった。それによって何かが起きる様子もなく、空は再び闇に覆われ、窓の下に広がる森も静寂の支配下に戻った。
だがスノウの胸中は騒がしい。
今しがた見たあの光は良くないものだと感じていた。夢の影響があるのは自覚していたが、それでも不吉な印象は拭えない。
誰かに伝えなければ、とスノウは思う。
では誰に。
そう考えて、スノウは暗澹たる気持ちになった。
ヴァスーラの一件以来、スイやアイシャが警戒を強めていることはわかっていた。
彼らに相談することは困難だろう。こんな状態では、スノウが何を言ったところで真剣に取り合ってくれるとは思えない。それどころかスノウに疑いがかかる可能性も否定できなかった。
残すはエルなのだが、多忙な彼を捕まえるのは現状無理だと思われた。
暫くぐるぐると考えて、スノウは「どうしようもない」という結論にたどり着く。
なにせ、スノウが頼ることのできる魔物は三人しかいないのだ。その三人が駄目ならば他に動く術はない。下手に動こうものなら余計な疑いを抱かせるか、他の魔物に"うっかり"処分されてしまうだろう。
何しろここは魔物の城。人としてもネコとしても半端なスノウより、気配に敏感な魔物は沢山居るはずだ。アイシャやスイがこの異変に気づかない筈はない。
ならば自分ができることは大人しく再び夢の住人となることだ。
そう決めて本物のネコそっくりに体を丸め、瞼を閉じる。
だが、程なくしてスノウは目を開けた。
「……っうう、だめだ」
頭をあげ左右に振る。
頭の中が急に騒がしくなった。これでは睡魔どころではない。
実際に耳から聞こえている音でないことは、スノウにはわかっている。
スノウが寝ているエルの執務室は夜の静寂に支配されており、室内にはスノウ以外の気配はない。
それは声とも音ともつかない、まさしく騒めきとも言うべきもので、明確な言葉ではなくひたすらざわざわと耳に障る。
これも不眠の原因だ、とスノウは思う。
時折、なんの前触れもなくこういう現象が起きるのだ。
大抵は夜になり、眠りに落ちようかという頃。当初こそ誰かの話し声かと疑ったものだが、実際に耳に聞こえるものではないと気づいてからは、なるべく意識しないようにしていた。最早不眠の原因なのか不眠が原因なのか、スノウにも判断がつかなかった。
これではもう眠れないな、と半ば諦めの境地でスノウは溜息をつく。
仕方なく身を起こし、寝床から這い出した。
窓から夜空を見上げ、先ほどの青い光をつらつらと思い浮かべる。耳障りなざわめきを意識の外へ追い出した。
『普通』であれば、とっくに発狂してもおかしくない状態である。
不眠に加え、悪夢は日増しに酷くなる。そこにもってきて身に起きる不可解な現象。魔法文字が読めることから始まって、頭の奥の騒がしさなど、自覚しているだけでも片手では足りないほどだ。
自己の存在がゆらぎ始めているスノウにとってそれは致命的ともとれる現象だったのだが、スノウは存外あっさりと事態を受け止めていた。
防衛本能が働いたのか、それとも睡眠不足のためか。
スノウ自身にもよくわからない。あまり衝撃を受けていない自分に首を傾げもしたのだが、すべてを記憶喪失のせいにして、スノウは敢えて思考を放棄していた。
スノウの最優先事項は、人に、そして人の世界に戻ることだ。
そのためには"この程度"の問題はしばし棚上げすることにしていた。
魔法文字が読めると知った当初は、さすがに暫くは魔法書を視界にいれることすらできなかった。
自分が『スノウ』ではないかもしれないという可能性は、思いのほかスノウを打ちのめした。あれほど勇者など嫌だと人違いだと騒いでおきながら、その実『スノウ』でないとなればそれはそれで怖いのだ。
だが、いつまでもそうしているわけにも行かなかった。
『スノウ』であろうがなかろうが、このままでいい筈がない。猫の姿を解いて、人間の町に無事に帰ること。自分探しはそれからでも遅くない。
そう考えて、スノウは何度かエルの隙を見て魔法書を開いてみた。
文字が読める事実は相変わらずで、安堵する反面少し落胆もした。見る限り本に仕掛けはなく、エルもまた何かをしているようでもなかった。
スノウはこれを利用することにした。
むしろ利用しなくてどうするんだ、とかつての仲間たちなら言うに違いない。
小さな魔法を幾つか試してみたが、そのどれもがまるで初めから知っていたかのようにあっさりと成功した。
そのころくらいからだろうか。スノウに変化が訪れたのは。
頭の中のざわめき。原因不明のそれに、酷く動揺した。
そしてそれは日増しに酷くなり、その正体を知るに至る。
「今夜なら、いけるかな……?」
首を傾げて、スノウは空を見上げる。視線の先には半分に欠けゆく月。静寂に支配された闇の中で淡く輝いている。
ふとスノウの青い目が虚空を漂った。
ぼやけた焦点のかわりに、頭の中がクリアになる。奥のざわめきが一層激しく、大きくなる。
頭の中で煩く騒ぐ音は、ただの雑音ではない。
意識が一瞬だけ拡散し、耳ではない聴覚が拾っているのは、他の層にひしめく魔物たちの声だ。
色々な声が混ざり内容まではつかめないが、把握しようと思えばできることをスノウは知っている。
だが、そこまでの必要はない。
この騒ぎ方は普段と様相が違っている。先ほどの青い光が関係しているのは明白で、やはりわざわざ気を揉むことはなかったとスノウは自嘲する。スノウですら何か禍々しいものを覚えたのだ。敏感なものならば、それが何であるかもわかるかもしれない。
その対応に、魔物たちは勿論スイやアイシャ、恐らくはエルまでもが追われるとスノウは踏んでいた。
それならば好都合。
スノウは高鳴る鼓動に、少し笑った。ネコの姿で表情が作れるとは思えなかったが。
今までなら考えもしなかっただろう。
不吉な光にただ怯え、誰かが何とかしてくれることを祈るだけ。混乱に乗じて何かを企てようなどど思いはしても、実行に移す気はさらさらないと言ってもいい。
だが、『不可思議な現象』がスノウを却って冷静にさせていた。
思いもかけずに手にした力。そう遠くないうちに制御できるような、奇妙な確信がある。
勿論、そんな自分自身に戸惑ってもいる。ふとした拍子に『自分』の存在が揺らぎそうになることもしばしばだ。
だが悠長なことを言っている時間がないのも、事実だった。
スノウはあくまでも『人間』で『虜囚』なのだ。魔物である彼らと手を取り合うことはあり得ない、永久に。
勇者である自分が、いつまでもここに安穏としている訳にはいかない。
すべての不安要素に蓋をして、スノウは腹を括った。
「じゃあ、試してみようかな」
スノウはエルの机に飛び乗った。机上には、古めかしい魔法書が置かれている。
かねてから実行に移す機会をうかがっていたことがある。
普段は魔物の目があるためにできないでいた。だが、今夜はスノウが多少何かをしたところで誰も気に留めないだろう。
スノウは魔法書のページを捲る。相変わらずのネコの手での作業は骨が折れるが、魔法でページを捲る、なんて芸当はできない。
否。魔法ですることは可能だと知っていたが、いかんせん魔力に問題がある。少しでも温存しておきたいのだ。
何せ、今から行う魔法は、恐らく相当な魔力を消費する。
捲ったページに目当ての記述を見つけて、スノウの手が止まる。
ひとつ呼吸をして、足元に広げられた魔法書を見つめた。
転移の魔法。
今まで見たこともなかったその文字が示すのは、最も初歩的な転移の仕方である。そのため、長距離の転移には向かない。魔法石、或いは強大な魔力を持つならば可能かもしれないが、常識的に考えればせいぜい城の外に出ることが出来るか否かだろう。
それ以上の距離を転移するにはもう少し複雑な魔法が必要だったが、それはこの本には書かれていないようだ。
ざっと文面を目で追ってそう判断すると、スノウは溜息をつく。
魔法に関する知識は殆どなかったはずだった。魔力もなければ、知識もない。それが記憶を失ったスノウだった。
しかし、ふとした拍子に記憶のどこかからか引き出されてくる知識は、とても今しがた使えるようになった初心者とは思えないようなものばかりである。
「もう少し複雑な魔法って……」
半ば無意識で判断したものの、その複雑な魔法自体は浮かんでこないのだから、どうにもいまいち役に立たない。
スノウは緩く首を振り、目を閉じる。
余計なことを考えている時間はない。深呼吸をして意識を集中させる。
スノウが目指すのは、地下の部屋。
エルが何らかの研究をしているという部屋である。アイシャやスイも詳細を知らない様子から言って、エルにとって極秘扱いなのだということが予想できる。上手く知ることができれば、脅迫の材料になるだろう。
ネコの手でページを押さえ、呪文を読み上げる。
記憶をたどるように再生される映像に、軽い眩暈を覚えながらも懸命に読み進めていく。使ったことのない魔法だったが、確実に成功するという根拠のない自信がスノウの背を支えていた。
やがていくらも経たないうちに、異変は訪れた。
足元がぐにゃりと歪んだのだ。
「っ!」
思わず飛びのこうとするが、足は縫い付けられたかのように動かない。
水面に波紋が広がるように、足元の歪みは広がっていく。本の上に足を置いていたはずだというのに、足首あたりまで水の中に浸かったような感覚がある。
動揺しながらも、スノウは呪文を唱え続けた。この状態で魔法を中断するのは危険だと、本能が告げていた。
ひときわ眩い光が足元から溢れる。
咄嗟に固く閉じた瞼の裏に、真っ白な光が溢れる。体が四方に引っ張られ、前後も上下もわからなくなって、スノウはぐっと息を詰めた。
その輝きは目を灼くようなものではなく、燭台のそれに似てどこか頼りない。
もしかして本当に蝋燭だろうか、とスノウは目を凝らす。
内側から空に向けて揺らめく形状は確かに炎を思わせた。けれどその周囲に燃やすようなものが存在しているようには見えない。ただ、青白い炎のみがゆらゆらと揺れている。
不思議に思いつつも、スノウは手を伸ばした。
常ならば決してしないだろう己の行動をどこか他人事のように捉えながら、光に触れる。
熱は感じられない。むしろどこかひやりとした冷気を感じた。
炎のように見えていても正体はまったく別物らしい。
純粋に綺麗だと思った。
差し出した両手の中にすっぽりと納まった青白い光は、触れてきたスノウに対して何をするでもなく、ただ揺らめいている。
ふと視線を上げると、いつの間にかスノウの周囲を幾つもの青い光が飛び交っていた。
頼りなく物悲しい光が、闇の中をふらつくように飛んでいく。
空を乱舞する青い光。
見上げたスノウの喉から、笑い声が漏れる。
楽しくて仕方なかった。
あの光は不吉なものだとスノウは確信していた。だからこそ、楽しくて仕方がない。
正体を知っている。あれは良くないモノだ。
けれど真実厄介なのはアレではない。厄介なのはアレが連れてくる嵐のほう。
ああ、面白くなりそうだ。
そう胸の中で呟いて。
目が覚めた。
「……っは」
大きく呼吸をして、スノウは周囲を見回した。
視界には天井と夜の闇。浅い呼吸を繰り返しながら、激しく脈打つ心臓の音を聴く。
「夢か……なんだよ、もう……」
溜息をつくと、徐々に落ち着いてきた。
ここのところ不眠に悩まされていたスノウだったが、最近になって悪夢まで加えられるようになってきていた。
以前なら寝付けずとも、一度眠りに落ちればそれなりに熟睡できていた。ところが、やっと寝付けたという頃になって悪夢を見始め、飛び起きてはまた寝付けず……という悪循環に陥っている。これではまともな睡眠など取れていないに等しいだろう。
因みに、ここ最近多忙を極めているらしいエルは、スノウを寝室に拉致することがめっきりなくなった。おかげでスノウは安眠を手に入れられると快哉を叫んでいたのだが、折り悪く不眠と悪夢に悩まされることになってしまっていた。
「勘弁してよ……」
そうでなくとも、立て続けにわが身に降りかかる出来事に神経が参ってしまいそうなのだ。睡眠不足まで加わればさすがに自分を保てる自信がない。
発狂するとは思っていなかったが、「己を見失う」可能性が怖かった。つまりは、以前エルが言ったように「人であったことを忘れネコになってしまう」という可能性が。
再び深く息をついたスノウは、眠りの扉を叩くべく目を閉じる。
その瞼に不意に青い光がちらついた。
思わずぎょっとして目を開ける。
咄嗟に体を起こし、ほぼ無意識に窓を仰いだ。
未だ夜の闇に支配された窓の向こう。そこを幾つもの青い光が走った。
長く尾を引いて闇を裂き、また闇の中に溶けていく。一見流れ星のようでもあったが、決定的に違うのはその軌道だ。
直線的ではなく、ふらふらと頼りなげに夜空を駆けていく。逃げるように戸惑うように、何かを探すように。
「な、なに……」
夢が脳裏に蘇り、夢と現実の区別がつかなくなる。自分はまだ夢の中にいるのだろうか、そう真剣に考えてぎゅっと目を閉じる。
けれど再び目を開けた先に、空を乱舞する青い光を見つけてしまう。これは現実なのだとぼんやりと認識した。
青い光の飛行はほんの僅かな間だけで終わった。それによって何かが起きる様子もなく、空は再び闇に覆われ、窓の下に広がる森も静寂の支配下に戻った。
だがスノウの胸中は騒がしい。
今しがた見たあの光は良くないものだと感じていた。夢の影響があるのは自覚していたが、それでも不吉な印象は拭えない。
誰かに伝えなければ、とスノウは思う。
では誰に。
そう考えて、スノウは暗澹たる気持ちになった。
ヴァスーラの一件以来、スイやアイシャが警戒を強めていることはわかっていた。
彼らに相談することは困難だろう。こんな状態では、スノウが何を言ったところで真剣に取り合ってくれるとは思えない。それどころかスノウに疑いがかかる可能性も否定できなかった。
残すはエルなのだが、多忙な彼を捕まえるのは現状無理だと思われた。
暫くぐるぐると考えて、スノウは「どうしようもない」という結論にたどり着く。
なにせ、スノウが頼ることのできる魔物は三人しかいないのだ。その三人が駄目ならば他に動く術はない。下手に動こうものなら余計な疑いを抱かせるか、他の魔物に"うっかり"処分されてしまうだろう。
何しろここは魔物の城。人としてもネコとしても半端なスノウより、気配に敏感な魔物は沢山居るはずだ。アイシャやスイがこの異変に気づかない筈はない。
ならば自分ができることは大人しく再び夢の住人となることだ。
そう決めて本物のネコそっくりに体を丸め、瞼を閉じる。
だが、程なくしてスノウは目を開けた。
「……っうう、だめだ」
頭をあげ左右に振る。
頭の中が急に騒がしくなった。これでは睡魔どころではない。
実際に耳から聞こえている音でないことは、スノウにはわかっている。
スノウが寝ているエルの執務室は夜の静寂に支配されており、室内にはスノウ以外の気配はない。
それは声とも音ともつかない、まさしく騒めきとも言うべきもので、明確な言葉ではなくひたすらざわざわと耳に障る。
これも不眠の原因だ、とスノウは思う。
時折、なんの前触れもなくこういう現象が起きるのだ。
大抵は夜になり、眠りに落ちようかという頃。当初こそ誰かの話し声かと疑ったものだが、実際に耳に聞こえるものではないと気づいてからは、なるべく意識しないようにしていた。最早不眠の原因なのか不眠が原因なのか、スノウにも判断がつかなかった。
これではもう眠れないな、と半ば諦めの境地でスノウは溜息をつく。
仕方なく身を起こし、寝床から這い出した。
窓から夜空を見上げ、先ほどの青い光をつらつらと思い浮かべる。耳障りなざわめきを意識の外へ追い出した。
『普通』であれば、とっくに発狂してもおかしくない状態である。
不眠に加え、悪夢は日増しに酷くなる。そこにもってきて身に起きる不可解な現象。魔法文字が読めることから始まって、頭の奥の騒がしさなど、自覚しているだけでも片手では足りないほどだ。
自己の存在がゆらぎ始めているスノウにとってそれは致命的ともとれる現象だったのだが、スノウは存外あっさりと事態を受け止めていた。
防衛本能が働いたのか、それとも睡眠不足のためか。
スノウ自身にもよくわからない。あまり衝撃を受けていない自分に首を傾げもしたのだが、すべてを記憶喪失のせいにして、スノウは敢えて思考を放棄していた。
スノウの最優先事項は、人に、そして人の世界に戻ることだ。
そのためには"この程度"の問題はしばし棚上げすることにしていた。
魔法文字が読めると知った当初は、さすがに暫くは魔法書を視界にいれることすらできなかった。
自分が『スノウ』ではないかもしれないという可能性は、思いのほかスノウを打ちのめした。あれほど勇者など嫌だと人違いだと騒いでおきながら、その実『スノウ』でないとなればそれはそれで怖いのだ。
だが、いつまでもそうしているわけにも行かなかった。
『スノウ』であろうがなかろうが、このままでいい筈がない。猫の姿を解いて、人間の町に無事に帰ること。自分探しはそれからでも遅くない。
そう考えて、スノウは何度かエルの隙を見て魔法書を開いてみた。
文字が読める事実は相変わらずで、安堵する反面少し落胆もした。見る限り本に仕掛けはなく、エルもまた何かをしているようでもなかった。
スノウはこれを利用することにした。
むしろ利用しなくてどうするんだ、とかつての仲間たちなら言うに違いない。
小さな魔法を幾つか試してみたが、そのどれもがまるで初めから知っていたかのようにあっさりと成功した。
そのころくらいからだろうか。スノウに変化が訪れたのは。
頭の中のざわめき。原因不明のそれに、酷く動揺した。
そしてそれは日増しに酷くなり、その正体を知るに至る。
「今夜なら、いけるかな……?」
首を傾げて、スノウは空を見上げる。視線の先には半分に欠けゆく月。静寂に支配された闇の中で淡く輝いている。
ふとスノウの青い目が虚空を漂った。
ぼやけた焦点のかわりに、頭の中がクリアになる。奥のざわめきが一層激しく、大きくなる。
頭の中で煩く騒ぐ音は、ただの雑音ではない。
意識が一瞬だけ拡散し、耳ではない聴覚が拾っているのは、他の層にひしめく魔物たちの声だ。
色々な声が混ざり内容まではつかめないが、把握しようと思えばできることをスノウは知っている。
だが、そこまでの必要はない。
この騒ぎ方は普段と様相が違っている。先ほどの青い光が関係しているのは明白で、やはりわざわざ気を揉むことはなかったとスノウは自嘲する。スノウですら何か禍々しいものを覚えたのだ。敏感なものならば、それが何であるかもわかるかもしれない。
その対応に、魔物たちは勿論スイやアイシャ、恐らくはエルまでもが追われるとスノウは踏んでいた。
それならば好都合。
スノウは高鳴る鼓動に、少し笑った。ネコの姿で表情が作れるとは思えなかったが。
今までなら考えもしなかっただろう。
不吉な光にただ怯え、誰かが何とかしてくれることを祈るだけ。混乱に乗じて何かを企てようなどど思いはしても、実行に移す気はさらさらないと言ってもいい。
だが、『不可思議な現象』がスノウを却って冷静にさせていた。
思いもかけずに手にした力。そう遠くないうちに制御できるような、奇妙な確信がある。
勿論、そんな自分自身に戸惑ってもいる。ふとした拍子に『自分』の存在が揺らぎそうになることもしばしばだ。
だが悠長なことを言っている時間がないのも、事実だった。
スノウはあくまでも『人間』で『虜囚』なのだ。魔物である彼らと手を取り合うことはあり得ない、永久に。
勇者である自分が、いつまでもここに安穏としている訳にはいかない。
すべての不安要素に蓋をして、スノウは腹を括った。
「じゃあ、試してみようかな」
スノウはエルの机に飛び乗った。机上には、古めかしい魔法書が置かれている。
かねてから実行に移す機会をうかがっていたことがある。
普段は魔物の目があるためにできないでいた。だが、今夜はスノウが多少何かをしたところで誰も気に留めないだろう。
スノウは魔法書のページを捲る。相変わらずのネコの手での作業は骨が折れるが、魔法でページを捲る、なんて芸当はできない。
否。魔法ですることは可能だと知っていたが、いかんせん魔力に問題がある。少しでも温存しておきたいのだ。
何せ、今から行う魔法は、恐らく相当な魔力を消費する。
捲ったページに目当ての記述を見つけて、スノウの手が止まる。
ひとつ呼吸をして、足元に広げられた魔法書を見つめた。
転移の魔法。
今まで見たこともなかったその文字が示すのは、最も初歩的な転移の仕方である。そのため、長距離の転移には向かない。魔法石、或いは強大な魔力を持つならば可能かもしれないが、常識的に考えればせいぜい城の外に出ることが出来るか否かだろう。
それ以上の距離を転移するにはもう少し複雑な魔法が必要だったが、それはこの本には書かれていないようだ。
ざっと文面を目で追ってそう判断すると、スノウは溜息をつく。
魔法に関する知識は殆どなかったはずだった。魔力もなければ、知識もない。それが記憶を失ったスノウだった。
しかし、ふとした拍子に記憶のどこかからか引き出されてくる知識は、とても今しがた使えるようになった初心者とは思えないようなものばかりである。
「もう少し複雑な魔法って……」
半ば無意識で判断したものの、その複雑な魔法自体は浮かんでこないのだから、どうにもいまいち役に立たない。
スノウは緩く首を振り、目を閉じる。
余計なことを考えている時間はない。深呼吸をして意識を集中させる。
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エルが何らかの研究をしているという部屋である。アイシャやスイも詳細を知らない様子から言って、エルにとって極秘扱いなのだということが予想できる。上手く知ることができれば、脅迫の材料になるだろう。
ネコの手でページを押さえ、呪文を読み上げる。
記憶をたどるように再生される映像に、軽い眩暈を覚えながらも懸命に読み進めていく。使ったことのない魔法だったが、確実に成功するという根拠のない自信がスノウの背を支えていた。
やがていくらも経たないうちに、異変は訪れた。
足元がぐにゃりと歪んだのだ。
「っ!」
思わず飛びのこうとするが、足は縫い付けられたかのように動かない。
水面に波紋が広がるように、足元の歪みは広がっていく。本の上に足を置いていたはずだというのに、足首あたりまで水の中に浸かったような感覚がある。
動揺しながらも、スノウは呪文を唱え続けた。この状態で魔法を中断するのは危険だと、本能が告げていた。
ひときわ眩い光が足元から溢れる。
咄嗟に固く閉じた瞼の裏に、真っ白な光が溢れる。体が四方に引っ張られ、前後も上下もわからなくなって、スノウはぐっと息を詰めた。
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【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
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