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19.やるべきこと

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 倒木のひとつに腰掛けて、フレイは息をつく。
 一人になりたいと告げて、逃げるように飛び出してしまった。
 視線を向けると、黒々とした木立の向こうに人影と炎の灯りが見える。森の中でひとりになることは、危険極まりない。何があっても単独で行動してはいけない、というのは当然の掟としてフレイの中にもあったが、とても耐えられそうになかった。
 新しく得た仲間。
 勇者、という言葉を耳にする度、辛い記憶と感情が暴れだす。それを無理に押し込めて笑うことなど、フレイには到底無理だった。唇を結んで、喚かないようにするのが彼の精一杯だったのだ。

「このくらいなら、大丈夫」

 仲間たちの姿を視認できる距離だ。炎の灯りも届いている。愛用の弓から手を放すことなく、矢筒はいつものように背負っている。何かあればすぐに対応できるだろう。
 心配そうなメリルの顔がフレイの脳裏をよぎる。
 一人になりたいと告げた時、メリルは特に引き止めなかった。気をつけて、と言ってフレイに水筒を渡しただけだった。
 顔を見るつもりはなかった。けれど水筒を渡されるとは思っていなかったから、思わずメリルを仰いでしまった。
 普段どおりの表情の中で、フレイを見つめた翡翠だけが心配とも悲しみともつかない色に揺れていた。そのとき咄嗟に思い出したのは、あの日のメリルの告白だった。
 晩餐会から戻って、二人で話をした。あの時の、メリルの謝罪の声をなぜだか思い出していた。
 それから、メリルの顔が目の前をちらついて離れない。

『ごめん』

 メリルの声が耳の奥で蘇る。見たわけでもないのに、苦しげに表情を歪めるメリルが脳裏に浮かぶ。
 それが、ただの上っ面な言葉でないことはフレイにもよくわかっていた。メリルは心から謝罪している。それがわかるから尚、フレイは頑なになった。
 口を開けば罵る言葉しか出てこない。メリルを必要以上に責めてしまう。
   許せない気持ちは変わらないが、メリルの言うことも理解できるのだ。メリルがとった行動もメリルの気持ちも、頭ではわかる。だからメリルからこれ以上の謝罪は欲しくない。
 何も言うまいとして、フレイは口を引き結ぶ。胸のうちに溜めた怒りを、憚ることなく吐き出してしまいたい。
 けれど、それではまるで"子供"のようで。
 周囲は許してくれるだろう。「子供だから仕方ない」と。だがそれは、弓の腕を認められ勇者の仲間となったフレイにとっては屈辱でしかなかった。
 かつて、フレイの大人びた態度は「生意気だ」といわれた。国内のトーナメントに出場すれば子供と侮られ、門前払いされたことも一度や二度ではない。誰もがフレイの年齢を通してフレイを見る。フレイは幾度も唇を噛んだ。なぜ自分は「子供」なのか。
 そんなフレイへの待遇が変わったのは、トーナメントで勝ち抜き、勇者の仲間となったときだった。初めて自分が認められたような気がした。
 けれどそれが表面上だけだということにも、聡いフレイは気づいていた。

『よろしく』

 言って笑ったその顔を、フレイは忘れたことがない。真実、彼を子ども扱いしなかったのはスノウ・シュネー、ただ一人だった。





 倒した魔物の屍を前に、スノウが立ち尽くしていた。
 カディスに向かう少し前のことだ。
   立ち寄った村で魔物被害に困っているという話を聞き、フレイたちは討伐に向かった。魔物が家畜を食い荒らすのだというのが、その内容だった。家畜を襲いに来た魔物を待ち伏せ、討伐した。大型の肉食獣よりさらに二回りほども大きい、3つの目を持つ魔物だった。
 血塗れで倒れ、既に動かなくなったその屍の前で、スノウだけがいつまでも動かなかった。他の仲間たちが村に戻った後も尚、スノウは一人残っていた。
 暫く黙ってスノウを待っていたフレイだったが、やがて耐えかねてスノウの傍に行った。
 スノウはフレイに気づいてない筈はなかったが、振り向くことなく、独り言のようにぽつりと呟いた。

「魔物は悪だ」

 強い口調に似合わず、その声が震えていた。

「スノウ……? どうしたの、寒いの?」

 驚いたフレイが思わず投げた問いかけに、スノウは微かに笑って首を振る。

「ああ……いや、これは……多分、怖いんだろう」

 驚いた。稀代の勇者、誰よりも勇敢で強い彼が「怖い」なんて。
 フレイの素直な驚愕に気付いたのだろう、スノウがフレイを見て笑った。

「なんて顔してるんだ」
「え……だって、スノウが怖いなんて」
「……フレイはまだ、子供だからな」

 そっと伸ばされた手が、フレイの栗色の髪を優しく撫でる。スノウがフレイを「子供」と言ったのはこれが初めてだった。けれど不快な感じはしなかったから、フレイはその言葉をすんなりと受け入れる。

「子供にはわからないの?」
「……どうかな。ただ、大人になると怖い物が増えるのは確かだけど」
「増えるの? スノウは何が怖いの? 魔物?」

 矢継ぎ早な問いかけに、スノウは少し躊躇う素振りをみせてぽつりと答えた。

「……俺は、自分が怖い」

 フレイは首を傾げる。魔物ならまだしも、自分が怖いなんて思ったこともない。スノウの言葉が理解できなくて、フレイは更に問いを重ねる。

「自分? どうして? スノウはちっとも怖くないよ?」

 スノウは暫く視線をさまよわせた。言葉を捜しているようでもあった。

「……上手く説明できないな。そうだな、そのうちにフレイにも分かる時がくるよ」
「僕?」
「そう、きっといつか……いや、わからない方がいいのかもな」

 言って、スノウは苦笑した。フレイは意味が分からず首を傾げる。更に何かを問いかけようとして、その先をスノウに遮られた。

「さ、そろそろ帰るか。悪かったな、待たせて」
「え、もういいの?」

 そう問いかけたのは、スノウが何をしたかったのか、何故残っていたのかわからなかったからだ。
 訳がわからない、といった様子のフレイに、スノウが微笑む。フレイの栗色の髪をくしゃりと混ぜて、促した。

「ああ、もういいんだ。宿に戻ろう。皆が待ってる」

 その表情は優しく穏やかで、先ほどまでの曇った表情が嘘のようだった。いつものスノウだ、とフレイは思う。だから尋ねるのはやめにして頷いた。
 フレイにはわからないことばかりだったけれど。



 不意に思考がぶつりと切れた。
 急速に覚醒していく感覚が、危険を察知する。
 顔を上げないまま、フレイは静かにあたりの気配を探る。
 目の前の闇の奥に、危険な気配。そのほかにも周囲に複数の気配がある。
 微かに漂う獣の匂いに、フレイは覚えがあった。これは一度倒したことのある獣だ。
 否、魔物の匂い。
 それと気づいた瞬間、フレイの全身が粟立った。
 恐怖ではなく、体中の血が沸き立つような感覚。自分の鼓動が鐘のように全身に響く。目の前が赤く脈動し、少し息苦しい。研ぎ澄まされる感覚で魔物の気配を探りつつ、フレイは弓へと手を伸ばす。
 そっと森の中を窺うと、赤く光る目が闇に幾つも明滅する。こちらを警戒するように、じわじわと闇から這い出してきたのは四足の魔物だ。輝く目は二つきり。大きく開かれた口腔からは涎が糸を引いている。一見すると野生の獣のようだが、相手が軽微な魔法を操ることを、フレイは知っている。
 戦闘力は狼とさほど違いはない。注意するべきは軽度の幻覚魔法だ。強烈なものではないが、それでも作り出される一瞬の隙が生死の分かれ目になる。
 一つ二つと現れる姿に、フレイは冷静に分析し弓を構える。
 ならばその前に倒せばいい。
 3本の弓を引き絞り、放つ。
 矢は過たず2頭の急所に吸い込まれる。断末魔の鋭い叫びが虚空に木霊する。
 その頃にはフレイの引き絞った次の矢が、闇の中の数頭に命中している。
 現れた一頭が突然甲高く吠えた。咆哮は大気に振動して周囲に共鳴する。
 脳を揺すぶられるような耳鳴りに、フレイは瞬間息を呑んだ。
 魔法!
 慌てて狙いを定めるが、僅かに遅れた。
 周囲の景色がぐるりと回る。滲む視界に、懐かしい面影がよぎった。



「魔物が怖いの?」

 尋ねたフレイに、スノウは困ったように微笑んだ。
 記憶を失い、戻ってきたスノウ。まるで別人だと周囲は囁いた。
 自信に溢れた表情は頼りないそれに、強く輝いていた目は追い詰められたウサギのように怯えて落ち着かない。そんなスノウを仲間たちは罵り、嘲った。
 フレイは悄然とするスノウを必死に庇いながら、ずっと信じていた。スノウはただ忘れているだけだと。じきに思い出して、かつてのような勇者に戻ってくれると。
 けれどそれは、いつ?
 じわりと広がる不安に耐えきれず、フレイはある日スノウに尋ねた。いつまでも剣を揮えないでいる、弱虫と陰口を叩かれる彼に。

「そうだね、怖いよ。あの牙とか爪とかもう」

 言って、腕をさする仕草をする。それをいくらかの落胆と、諦めにも似た感情でみつめていると、スノウがぽつりと漏らした。

「……でも一番怖いのは、自分かな」

 フレイは驚いた。強かったかつてのスノウも、同じことを言っていた。そのときは、その言葉の意味を聞いてもスノウは答えてくれなかった。大人になればわかる、と言って。

「自分が怖いの? どうして?」

 かつてスノウにした問いかけを再びスノウに投げかけた。
 また「大きくなれば分かる」と言われるだろうか? ちらりと思ったが、それでも再び尋ねたのは今度は答えてくれそうな気がしたからだった。
 スノウはそんなフレイの胸中は知らぬげに、首を傾げて言う。

「上手く言えないけど、多分、慣れていくのが怖いんだと思う」
「慣れ?」
「うん。魔物を殺すことに慣れてしまうこと。殺すことを何とも思わなくなること。平気になってしまうかもしれない自分が、怖い」

 言葉を探しながら、スノウが答えた。

「どうして? いいことじゃないの?」

 魔物は悪であり、滅ぼすべきものなのだ。人間に危害を加える、悪。それを殺すのは当然だとフレイは思う。
 そんなフレイにたじろぐように、スノウは視線を彷徨わせる。

「いいことなのかもしれないけれど……俺は」

 命を奪うのは嫌だよ。
 スノウがぽつりと言った。
『命』とスノウは言った。魔物は悪だと言ったかつてのスノウも、そう考えていたのだろうか。悪だけれど、命あるものだと。それは至極当然のことで、だからこそこうして耳にして初めて、フレイにも意味がわかることだった。
 優しい人なんだ、とフレイは思う。
 魔物の命を思うことのできる、優しい人。

「スノウは、優しいんだね」
「え? うーん、どうかな、単に臆病なんだと思うんだけど」

 頬を掻きながら言うスノウに、フレイは首を振る。

「ううん、臆病じゃないよ。スノウは、勇者だ」

 そう、勇者だ。本当に臆病な人間は、討伐に参加したりはしない。
 これまで訪れた街を思い出す。大人も子供も、魔物を前に逃げ惑う姿。フレイやスノウよりずっと大人でさえ、武器をとることはない。逃げて、勇者に助けを求める。
 それを臆病と思ったことはない。「そういうもの」だと漠然と思っていた。自分たちが「特別」で彼らにはその力がないだけなのだ。だからそうでない人々を守るのが、自分たちの使命なのだと、そう思っていたから。
 けれど「特別」である筈のスノウが「特別」でなくなってしまった。そうしてみて思うのだ。特別でなくなったのなら、スノウもまた彼らのように逃げ惑ってもおかしくない。まして、スノウにはかつての記憶がないのだ。魔物を前に怯え、武器を捨てて逃げ去ってもそれは仕方ないことなのかもしれない。
 けれどスノウはいつもその場にいる。
 魔物に怯えて、剣を揮うことはないけれど。それでも、背を向けて逃げ帰ることはない。
 震える剣を握り締めて、それでも仲間を置いて逃げることはないのだ。

「スノウは、スノウだよ。僕の勇者だ」

 確かに過去とは大きく変わってしまった。フレイが憧れてやまなかったスノウはここにいない。だが以前と変わらず、彼は優しくて強い心を持っている。
 フレイがにこりと笑うと、スノウは困惑した表情を浮かべた。
 不安定に揺れる、青い瞳。以前のスノウなら、見せなかった表情だ。

「俺には、フレイの方が勇者に見えるけどなぁ」

 暫くして、そうスノウが笑った。
 柔らかな笑い方は、記憶を喪ってから彼が見せるようになった表情のひとつだ。
 凛々しいスノウをフレイは好きだった。けれど今の優しい彼もまた、決して嫌いではないのだ。



 背中に悪寒が走り、無意識にフレイは弓を放つ。
 鋭い叫びが耳をつんざく。目前に迫った魔物の爪が、弧を描いてフレイの腕をかすった。
 額に矢を生やした魔物がそのまま地面に崩れ落ちていく。
 フレイは暴れる心臓に呼吸を乱しながら、肩で息をする。周囲の風景を一瞥し、現実を思い出した。どうやら魔物の放った幻覚に、一瞬囚われていたらしい。
 懐かしい、スノウの面影。
 幻覚だ、とフレイは自分に言い聞かせる。スノウはここにいない。スノウは、いないのだ。
 フレイはすぐさま矢を番え、周囲に放つ。矢を受けた魔物たちが次々倒れていく。吠えようとする魔物を優先して倒しながら、フレイは仲間達の方を確認する。
 焚き火は変わらず赤々と燃えている。だが、焚き火をよぎる幾つもの影に、どうやらあちらにも魔物が現れているらしいことを悟る。
 合流しなければ、とフレイは思う。
 この程度の数ならば一人でも片付けられるが、あちらの方にも魔物がいるとなれば話は別だ。こちらの魔物を早く片付けて、仲間たちを助けにいかなければ。
 メリルに関してはそう心配しなくてもいいことは、これまでの経験からわかっていた。フレイが案じていたのは勇者一行ではなく、そのほかの王国軍の兵士たちである。
 少しでも、人々を守らなければ。
 それは、勇者の仲間として旅をするうちに沁みついた感情だった。
 始めはただ「認めて欲しい」という衝動だけだった。
 それが次第に「守らなければ」という気持ちに変わったのは、スノウの影響が大きい。
   強く、優しく、正しい勇者。彼は常に人々の安全を優先していた。力ないものを力あるものが守るのは当然だと。
 
『自分には魔物と戦う力がある。だから、魔物に苦しめられている人々を守る』

 まっすぐにそう言うスノウにフレイは憧れ、尊敬していた。
 けれどそのスノウはもういない。
 それを奪ったのは、魔物だった。国王でも兵士でも、ましてやメリルではない。責めるのはメリルでも自分でもなく、魔物であるはず。
 フレイにもわかっているのだ。魔物の城から逃げ帰ったあの日から、ずっとわかっていた。
 何を優先すべきなのか、次はどう行動すべきなのか。
 勇者がいないと嘆くより大事なことはある。
 彼の不在を認め、彼の死を認め、彼ができなかったことを成し遂げること。
 ぐ、と喉の奥に何かがつかえる。喉が痛くて苦しくて、視界が滲む。頬を伝うぬるい感触に、フレイは自分が泣いていることに気づいた。
 スノウはもういない。

「いないんだ」

 食いしばった歯の間から、苦しげな声が漏れた。
 こんな想いはもう二度としたくない、と思う。
 したくないし、誰にもさせたくない。
 自分に今出来ることは、一人でも守ること。
 フレイは矢を番え、引き絞る。
 キリキリと軋む弦の音が、フレイの胸に響く。
 目の前の数頭がフレイの矢に倒れ、横倒しになる。形勢不利と看取ったのか、残った魔物たちは怯えるように後退し、フレイが次の矢を番えた時には、踵を返して森の中に走り出していた。
 一頭が闇の中に走り去ると、残された数頭もそれに倣う。
 瞬く間に魔物たちの姿は闇に消えていった。
 静寂に支配されたその場で、フレイはそっと息をつく。どうやらこちらはひと段落したようだ。
 気配がないことを確認し、加勢に行くために踵を返そうとして、

「フレイ!」

 不意に響いた声に、思わずフレイは顔を上げる。
 木立の間からメリルが駆けてくるところだった。
 心配そうなその表情は、戦場では滅多にみせないものだ。そしてそんな表情をさせている原因が、自分にあることにフレイは気づく。
 フレイがいつものフレイであったなら、メリルはこの場で心配などしていない。フレイの実力は誰よりもよく知っている筈なのだから。

「大丈夫」

 地面に転がる魔物の死骸に視線を落とし、フレイは呟く。
 大丈夫。
 ひとつ呼吸をして、確かめる。
 もう、責める言葉は出てこない。

「そんな顔しないでよ、僕がこんなやつらに負けるはずないでしょ?」

 いつものように生意気な言葉を唇に乗せ、フレイは笑う。
 久しぶりに動かした顔の筋肉は思うように動かない。上手く、笑えているといい。
 メリルは軽く目を瞠り、微笑んだ。少しぎこちない、けれどもどこか安堵したような笑み。

 そう、僕らはまだ笑える。


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