ネコと勇者と魔物の事情~ペットはじめました by勇者~

東風 晶子

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17-2.パンドラの箱

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 何を言われたかわからなかった。
 思考より先に体の反応の方が早く、大きく脈打つ心臓の音で自分が動揺していると知った。
 漂白された頭の中で懸命に言葉を探し、僅かな間をおいてスノウは答える。

「……なに言ってるの。魔法なんて使えないよ」

 心臓の音がやけにうるさい。
 別にやましいことなど何一つないのに、と考えて気づく。
 この動悸は恐怖だ。スノウは怖れているのだ。
 何を、と自問する間にもエルの言葉は続く。

「ああ、知ってる。お前は人間だし」

 エルはひとつ指を鳴らす。爪先の炎が跡形もなく掻き消えた。
 真紅の双眸が瞬いて、スノウに向けられた。

「勇者はたいした魔法は使えなかった」

 スノウの背筋がひやりと冷えた。
 その口ぶりはまるで『勇者スノウ』を知っているような。
 会ったことがあるのだろうか、と考えて打ち消す。魔物の長が『勇者スノウ』と面識があるはずがない。
 けれどもし、記憶がある頃の勇者を知っていたとしたら? 知った上で、まるで別人のようになったスノウもまた知った上で、今こうしているのだとしたら?
 それは、エルがスノウの記憶喪失にかかわりがあるとは思えないだろうか。

「だがお前は魔法を使った……あれは確かに水系だった」

 考えたくない事柄がぐるぐるとスノウの脳裏を巡る。
 二の句が継げないスノウに気付いていない筈はなかったが、エルは淡々と言葉を続ける。

「……」

 口の中が渇いて言葉がでてこない。纏まらない思考をなんとかかき集め、言葉を並べようとスノウは必死になる。ここで何も言わずにいるのは不味い気がして、焦燥を募らせる。
 何か言わなければ。何か言葉を。

「今なら上手くいくんじゃないか?」

 そこにエルの言葉が降ってきた。その口調に変化はないが、内容が著しく予想と違う。
 何か恐ろしい核心をついた台詞が来るものと構えていたスノウは、拍子抜けして瞬きを繰り返す。

「……何?」
「聞いてなかったのか? 魔法が使えたのなら、魔力がない訳じゃないってことだろ」
「う、うん。それが本当なら……」
「なら鍛えればいいだけの話じゃないか」

 こんなこともわからないのか、と言わんばかりのエルの口調に、スノウはぱかっと口を開けた。

「は? 鍛え……?」
「剣と同じだろ。何度も練習しているうちにコツが掴める」

 自信たっぷりにエルが言う。考えていたこととのあまりの差に、スノウは混乱する。空回りする頭を軽く振り、必死に考える。
 鍛錬でどうにかなる、とエルは主張している。
 確かに魔法には鍛錬……もとい、ある程度の訓練が必要だというのは常識である。荒削りの才能を、研鑽し磨き上げて初めて「魔法」として力となる。
 だが、スノウの場合は少し事情が違う。魔法がある程度使える者が練習するのとはわけが違うのだ。魔力の存在すら自覚できない状態で、闇雲な努力が実を結ぶとは思えない。

「なんだったら教えてやるから練習してみろ」

 更に上機嫌で、エルが自ら協力を申し出た。
 だが、スノウの方はとてもではないがそんな気分ではない。自分のあずかり知らないところで発現した魔力によって、どうにも肩身の狭い境遇に置かれているのである。中途半端な魔力ならいっそ消えてくれれば、とすら内心思っているのだから。

「え。いいよ、別に……」
「何言ってる、これでその姿から解放されるかもしれないぞ」
「え?」

 エルはごく軽い口調でそんなことを言うが、言われたスノウには訳がわからない。

「以前教えただろう、元に戻る方法」

 そういえばとスノウは思い出す。ネコに変えられた当初、元に戻る方法をと迫ったスノウにエルが言ったのだ。
 「勇者になれ」と。
 即ちそれは、かけた本人であるエルを倒せということだった。ネコに変えられた身で、武器らしい武器もなく魔法も使えない。そのためスノウの中ではそれはすぐに廃案となっていた。だからエルの弱みを握って元に戻すよう脅すしかないと、そう考えていたのだが。

「……無理だよ」

 魔法を使ったことすら半信半疑なのだ。今から特訓したとしても、エルと互角に張り合えるだけの魔法を使いこなせるとは思えない。

「やってみなきゃわからんだろう。お前はいちいちすぐ諦めるな」

 呆れたようにエルが言う。

「別に諦めてるわけじゃないよ、現実的なだけ」

 エルの言うことは一理ある。だが、自分を倒すための特訓をしてやろうというその考え方も問題ありだとスノウは思う。
 エルには絶対的な自信があるのだろう。スノウがどれだけ本気になろうとも、倒されないだけの自信が。
 自分とはあまりにも違うその姿に、スノウは虚しくなる。わかりきった現実だというのに胸の中がもやもやして、気づけば苛立った口調で反論をしていた。

「だってこんな状態の俺がいくら頑張っても、エルに敵うわけないじゃないか」
「状況が悪いって?」
「そうだよ、こんな姿じゃなきゃ俺だって」
「確か出会った時は人の姿だったと思うけどな?」

 それで仲間の後ろに隠れて泣いていた。更にはぼんやりして逃げそびれた。戦闘は仲間任せ、仲間に護られながらの進撃だったのは、城内の魔物の間では有名な話だ。
 つらつらと挙げられる自身の行動に、スノウは無言。

「……」

 確かにエルの言うことは正しい。今よりいい条件が揃っていても、スノウは同じ選択をしてしまうだろう。つまり「逃げる」という選択を。

「では勇者、もし今お前が元の姿に戻り、その手に剣があればどうする? 魔物の命ひとつくらい容易く奪えるほどの聖剣があれば?」

 エルが長の口調で問いかける。悪戯っぽく輝く真紅の瞳を見返し、スノウは考えた。
 ふと、以前にも同じ質問をされたことを思い出す。
 城に取り残されてすぐのことだ。あれからまだ一月程度しか経っていないのが不思議だった。まるで、遠い昔のような気がする。

「……逃げる」

 それでも、以前と同じ選択しかできない。
 その理由はスノウ自身わかっている。
 エルは単なるヘタレぐらいにしか思っていないだろう。それも間違いではない、悔しいことに。
 だが、スノウの中にはもう一つ理由があった。
 殺すことが恐ろしい。
 その対象が強者だとか弱者だとかは関係ない。命あるものを傷つける。命を奪う。その感触が恐ろしい。
 たとえ相手が魔物であっても。
 かつて、魔物は血に飢えた化け物だと教えられた。それがスノウの生きてきた世界の常識であり、魔物を倒すことが正義だった。それが間違いだとはスノウも思わない。
 スノウが出会った魔物はみな好戦的で、闘うことに喜びを見出していた。
 その様は、平穏に生きる人間からすれば「野蛮で狂暴」だと映るだろう。人には理解しがたい魔物の生態。だからこそ、魔物は「悪」の象徴となり、正義を貫くが為に魔物は「心ないただのケダモノ」だと言われる。
 けれどそれは、魔物という生物の一面でしかない。
 図らずも魔物の城で過ごしたことで、見えてきたことも逆に見えなくなったこともある。
 そうして思うのだ。
『魔物も人も、同じ』
 黙考する胸に落ちてきたのは、そんな呟き。その簡潔な言葉にスノウは震える。
 それはスノウの本心だった。記憶を失ってから何もかもが曖昧にぼやけた世界で、それだけが色鮮やかに胸に浮かぶ。
 人も魔物もそう違いはない。それをどこかで……もしかしたら、エルと対峙する前から気付いていたような気がする。
 記憶を喪う、その前から。

「どうした?」

 ぼんやりとしていることに気付いたのだろう。エルが問いかけてきた。
 思わず体を揺らして、スノウは首を振る。

「……別に。やっぱり俺に魔法は無理だよ」

 言って、ぱっと踵を返す。この話はこれで仕舞だと無言で訴えた。
 それが通じたのか否か、机を蹴って床に降りてもエルは特に咎めもしなかった。スノウは止められる前にと急いで部屋を後にする。不自然すぎる退出の仕方だったが、スノウには立ち去るだけの平静を装うので精一杯だった。
 問い詰められれば、自分でも何を言うかわからない。相手は憎むべき魔物だというのに。だからそうなる前に、早くエルのいないところに。
 そんな焦燥に駆られて、スノウはエルの前から逃げ出したのだ。
 だから気づきもしなかった。
 呼び止めることさえしなかったエル。その真紅の双眸もまた、何かを考えるように沈黙の中に揺れていたことを。
 
 
 濃い霧の向こう、霞を掴むようだった自分の記憶。その糸口を初めて見つけたような気がしていた。
 本来ならば喜ばしいことだというのに、胸の中にあるのは喜びとは対極の感情だった。
 鍵をかけられた箱の中身。それが、宝物だと無条件に信じることが出来ない。
 その箱の中に納められているものが、怖くてたまらなかった。
 パンドラの箱。

 果たして、今ここにこうしている自分は本当に「自分」なのか。

 そう思うと、手繰り寄せた糸から手を放してしまいたくなる。
 今のままでもいいじゃないか、と囁く声がする。
 記憶を取り戻してどうする?
 空白の記憶。そこに埋まっているのは決して優しい記憶ではない。己が己であることを形作ってきた記憶と激情が、そこに眠っている。
 取り戻したとして、果たして自分は「自分」でいられるだろうか?
 恐ろしいのは、「今」の自分が消えること。
 記憶に上書きされて、今の自分が変わることが怖い。
 今の己も、この状況も「キライではない」と思える、この自分が変わることが恐ろしい。蘇った記憶と感情に引きずられて、相手を殺そうと思うかもしれない自分が怖いのだ。
 そんな未来を望まない自分だからこそ。
 そんな未来を選ぶかもしれない自分だからこそ。
 自分が、怖い。
 それがきっと、正しい姿なのだとわかっていても。

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